2024年4月7日(日)礼拝説教 マタイの福音書13章1-9節 「心の状態を知る」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>
 2024年度になりました。新しい年度も神様の祝福がたくさんあって、学校の勉強が守られ、お友達と仲良く出来るようにと祈ります。
 みんなは、植物を育てたことがありますか?小学校では、朝顔を育てるでしょうか。中学生は豆苗を育てることがあるようですね。その時どのようにしますか。僕たちが野菜などを育てる時には、土を耕し種を蒔いたり、苗を植えたりしますね。ある時、イエス様は湖で舟の上から、群衆に向かって種まきのたとえをお話ししました。

「よーし、今日も畑に行って種まきをしよう。大きく育てよ。あー収穫が楽しみだなぁ」と農夫が畑に行って、種まきをしています。でも、なんかおかしくありませんか?農夫のおじさんは、種を勢いよくばらまいているのです。これでは、せっかく蒔いた種は、畑だけに落ちるのではなく、色々な場所に落ちてしまいますよね。今では、畑を耕した後、畑を整え、うねを作り、種をまく穴をあけ、まっすぐになるように丁寧にきれいに種を蒔きます。けれどもイエス様の時代は、大きな種袋に種を入れて、種を手でつかんで、畑を歩き回りながら、ばらまくという方法でした。また、種袋に小さな穴をあけ、その袋を家畜の背中に着けて歩かせる方法などもあったようです。ですから、蒔かれた種が畑に落ちるとは限らないわけです。

 あらら、道端に落ちた種がありますよ。道端に落ちた種は、鳥が来て食べてしまいました。おっと次の種は、土の薄い岩地(石灰岩の上の土)に落ちました。一応土があるので芽を出しますが、根が伸びないので、枯れてしまいました。今度は、いばら(雑草)の中に落ちた種があります。雑草が育つくらいですから、芽を出し成長します。けれども雑草のほうが強く大きく育つのです。せっかく芽を出したのですが、すぐに弱ってしまいました。さらに農夫が蒔く種は、良く耕された畑に落ちました。その種は、しっかりと根を張り、順調に育ち、多くの実を結ぶようになりました。
 種を蒔くというのは、聞いていた人たちが良く知っていることですから、人々はイエス様が話してくださった場面を想像することが出来ました。蒔かれた種の状態も思い浮かべることが出来ます。でもイエス様が、本当に何を言っておられるのかを理解する人は少なかったようです。

イエス様は、弟子たちに種まきのたとえ話の意味を教えてくださいました。果たしてどんな意味があるのでしょうか。
 蒔かれた種とは、神様の御言葉です。蒔かれた場所というのは、御言葉を聞いている僕たちの心の状態を表しています。道端のような心とはどう状態でしょうか。道端は、人に踏み固められて堅くなっている場所です。そのような心というのは、神様の御言葉を聞いても、「そんなことは自分には関係ないや~」と無視してしまう人のことです。道端の種を鳥が来て食べてしまうように、悪魔が御言葉を奪い取ってしまうので心に残りません。
 岩地のような土地は、薄く土があるだけなので、芽を出しても根を張ることが出来ないので育ちません。岩地のような心とは、御言葉を聞いた時、「なんかいい言葉だな~」と一瞬だけ受け入れて、神様に少し心を開き感謝をするのだけれども、すぐに信じなくなり神様に心を閉ざしてしまうことになります。
 いばらの土地は、蒔かれた種よりも雑草のほうが強く生長するために、すぐにかれてしまうのです。そのような心とは、御言葉を聞いて「うん、わかった、神様を信じよう!」と言うのですが、様々な罪や誘惑、友達の目や周りの人たちの意見に左右されて御言葉から離れてしまうのです。
 良い地とは、よく耕され、しっかりと根をはり生長し多くの実を結ばせるものです。そのような心とは、神様の御言葉にしっかりと耳を傾けて聞いて、「神様信じます。従います。」と信仰をもって答えることが出来る心です。そして神様への感謝を忘れず、喜んで礼拝する人のことです。

 僕たちは、この4つの心の状態のうちどれに近いですか。イエス様は、みんなは、どのような心だろうかと問いかけています。イエス様は、皆のために十字架にかかり、皆の罪が赦され永遠のいのちの約束をしっかりと受け取ることが出来るようにとよみがえってくださいました。イエス様は、今も生きていて、僕たちに教えてくださいます。イエス様は、皆の毎日の生活を助けてくださいます。心を開いて御言葉を覚えて歩みましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様、僕たちがいつも柔らかい心で、イエス様の言葉を聞いて従うことが出来るように守ってください。新しい学年が始まりました。2024年度も神様の守りがありますようにとお願いします。この祈りをイエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」         
                            マタイの福音書13章23節

<適用>
 先週開催された教団の聖会のためにお祈りいただきありがとうございました。私は土曜日の朝の集会のメッセージをさせていただきました。守られ語ることが出来ました。また、もう一つ担当していた説教の録音と礼拝の配信も無事にすることが出来ました。聖会には聖会主事がいて、聖会の事前の準備から当日の細々したことまで担当してくださっていました。聖会主事は、食事や集会などについて必要なアナウンスをしてくれました。聖会主事がするアナウンスに対して、しっかり聞く人、ある程度聞く人、聞いていない人など様々でした。ですから聖会主事は、全員に理解されているのか常に心配し続けることとなっていたようです。
 私たちは、聖書の御言葉を通して語っておられる、神様の言葉をどのように聞いているのでしょうか。私たちは、神様の御前での自分自身の心の状態を知っているでしょうか。

Ⅰ;聞く耳を持とう

 まず、私たちは、聞く耳を持っているかどうか確認する必要があります。
 弟子たちは、イエス様のたとえ話を聞いていて不思議に思いました。弟子達でさえこのたとえの意味がすぐに分からず、イエス様に説明してもらうことが必要でした。それなのに群衆はイエス様の話を理解することが出来るのだろうか。そんな質問にイエス様はお答えになりました。

 イエス様は、群衆が分かりやすい事柄を用いて、たとえを話しておられました。しかし聞く人によって理解の仕方は違います。11節からのイエス様の言葉は、理解しづらい箇所かもしれません。イエス様は、ご自分の周りに集まってくる群衆の心をよくご存知でした。群衆は、イエス様の話に耳を傾けているのですが、イエス様の言葉の真理を理解しようという気持ちを持っている人は少ないのです。14、15節は、イザヤ書の言葉の引用です。神様はイザヤを通してユダヤ人に痛烈なメッセージを送っていたのです。神様はユダヤ人が御言葉を聞き、知ることを願っておられました。けれども彼らの心は非常にかたくなで神様の御言葉に心を開こうとせず、神様の御言葉をないがしろにしていたのです。そこで神様は、聞くけれど悟るな、見るけれど見るなと言って、ユダヤ人たちに注意喚起しているのです。それは、彼らが神様の警告に気づいて、神様を求めるようになるためです。

 イエス様がイザヤの預言が実現したと言った時、イエス様は群衆に理解し欲しかったはずです。けれども彼らの心は、イエス様に向いていなかったのです。そこで、イエス様は、人々が御言葉にしっかり耳を傾けられるようにと、あえて厳しい言い方をしているのです。
 果たして、私たちは、「聞く耳」を持っているでしょうか。イエス様が言われた「良い地の心」とは、聞く耳を持つことです。イエス様の御言葉を心に留めよう、理解しよう、と心がける人のことです。そして聖書の御言葉に教えられ、喜んで従う人のことです。皆さんは、いかがでしょうか。

Ⅱ;聞くべき御言葉~十字架の救い~

 では、イエス様の十字架と復活を覚えるイースターを迎えて、今、私たちが聞くべき御言葉はなんでしょうか。たくさんありますが、そのうちの一つは、ローマ人への手紙4章25節から5章1節の御言葉です。
 「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」
 イエス様は、十字架で私たちの罪に対する神様の裁きを受けてくださり死なれました。しかしイエス様は、死んで終わりではなく、三日目によみがえってくださったのです。それは、私たちの罪の赦しが確かであり、イエス様を信じる全ての人が永遠のいのちを与えられ、天の御国への希望を与えていただくためです。今日覚えたいことは、私たちは、神様との平和が与えられ御前に近づくことが出来るということ、もう一つのことは、イエス様は今も生きておられるということです。

 まず、私たちは神様との関係で平和が与えられ、自由に神様に近づくことが出来ます。3月24日の礼拝の説教の中で、イエス様が十字架で息を引き取られた時、神殿の幕が真っ二つに裂けたことが語れました。マタイの27章50-51節を読みます。「しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」
 エルサレムの神殿には、聖所と至聖所というのがあります。この聖所と至聖所というのはとても分厚い幕で仕切られていました。聖所では毎日、祭司が神様に仕えていますが、至聖所は最も聖なる場所と言われ、大祭司だけが年に一度入ることが許されていました。至聖所には、大祭司以外入ることが出来ないのです。大祭司が至聖所に入って神様に仕えるのは、イスラエル全体の罪の贖いをするためです。その時に大祭司は、いけにえの血を持って入ります。なぜならば、大祭司も人間ですから罪があります。罪のあるままでは神様の御前に出られません。だから、いけにえの血が必要となるのです。

 そしてこの分厚い幕は、人と神様との断絶を意味しています。私たちは、罪のために神様との関係が壊され、断絶され近づくことが出来ない存在なのです。この聖所と至聖所を仕切っていた幕を神様ご自身が上から下まで真っ二つに裂いてくださいました。人間がどうしても取り除くことが出来なかった神様との隔たりを神様が取り除いてくださった瞬間です。私たちは、神様の御前に罪ある者です。自分は、罪を犯してはいないと思うかもしれません。確かに私たちは、強盗とか殺人などと言った、この世の法律に触れることはしないでしょう。私は小学生のころ、「赤信号みんなで分かれば怖くない」と言って、学校からの帰り道、友達と堂々と赤信号を渡っていたことがあります。一応左右の安全は確認してからです。良い子の皆さんは真似をしないでくださいね。「僕は良い子じゃないから」とか言わないように。私たちは、法律や交通ルール、学校の規則を守る必要があります。それは大切なことであり、私たちの責任です。

 聖書が教えている罪というのは、そのような諸々の罪だけではなく、もっと根本的な事柄を言っているのです。聖書が教える罪は、「的を外す」という意味があるのです。これは、人間が神様の言葉を無視し、神様の教えから外れて自分勝手な道に進むことです。人は、聖書を通して教えられている神様の基準を知らず、神様の御心から外れるので、様々な罪を行うのです。罪とは、光である創造主なる神様を無視し、背を向け暗闇の中を歩むことです。
 私たちは、このように罪を持っているので神様に近づくことが出来ず、神様からの恵みをいただくことも出来ないのです。私たちがどんなに正しい生き方をしても、神様を知らなければ意味がありません。人が知恵や知識をたくさん持っても、哲学を学び、精神を鍛えて修業したとしても神様に近づくことは出来ません。もし知恵や知識、哲学、難行苦行などが人を救うとしたら、人類はとっくに救いを得ているはずです。けれどもこの世界は、人の心の在り方や罪からの救い、永遠のいのちに対する答えを見出すことが出来ていません。なぜならば、救いを提供してくださる神様に目を向けていないからです。

 神様は、イエス様の十字架の死によって、神様と人間との間の壁を取り除いてくださいました。神様から御手を差し伸べてくださり、イエス様の十字架に罪の赦しがあり、信じる全ての人が神様に近づき、救いを受け、神様からの恵みを受けることが出来るようにしてくださったのです。まず私たちは、イエス様によって成し遂げられた十字架の救いにしっかりと心を開き信仰をもって受け取りましょう。

Ⅲ;聞くべき御言葉~復活のいのち~

 私たちが聞くべき神様の御言葉のもう一つのことは、イエス様のよみがえりです。イエス様は、十字架で死なれましたが、三日目に死を打ち破りよみがえりました。マタイの福音書28章1-6節を開きましょう。
「さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。その姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かった。その恐ろしさに番兵たちは震え上がり、死人のようになった。御使いは女たちに言った。『あなたがたは恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。』」
 ローマ6章23節には「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」とあります。イエス様は、私たちが罪のために神様の裁きである永遠の滅びを受けることがないように、身代わりとなり十字架に死んでくださいました。イエス様が、死んで葬られ、その後何も起こらなければ、もしイエス様の復活がなかったとするならば、人は死で終わりということになります。もしそうならば、人には絶望と滅びしか残されていないことになります。でも神様は、聖書を通して人は死んで終わりではない、その先の希望があると明確に教えておられるのです。

 イエス様は、死んで終わりではなかったのです。イエス様は、私たち人間が絶望と感じている死を打ち破り、永遠のいのちをもってよみがえったのです。もう一度ローマ人への手紙4章25節と5章1節を読みましょう。「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」イエス様は、私たちが罪を赦され、救いと永遠のいのちを持つためによみがえってくださったのです。私たちは、神様の前に罪ある者であり、神様から有罪の判決を受けるべき一人一人です。けれどもイエス様が私たちの罪の身代わりになってくださったことによって、十字架の救いを信じる私たちは、信じた瞬間、「あなたは無罪」という神様からの宣言を受けることが出来るのです。こうして私たちは、神様との間に平和が与えられ、神様の恵みを受けることが出来ます。

 あなたは、神様からの「無罪判決」を受け取っておられるでしょうか。あなたは、罪に対する裁きではなく、罪に対する赦しと救いを受けることが出来るのです。イエス様はそのために十字架にかかり死なれ、死を打ち破ってよみがえられたのです。イエス様は、今も生きておられ、私たち一人一人に救いを与え、祝福を与えてくださるのです。私たちは、信じない者ではなく、信じる者となりましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様が、私たちの罪のために十字架で神様の裁きを受けてくださり、死を打ち破りよみがえってくださったことを心から感謝いたします。私は、イエス様の救いを信じます。そして私は、心を柔らかくして御言葉をしっかりと心に留めて歩みます。どうぞ導いてください。
 新年度が始まりました。神様、一人一人の歩みを祝福してください。教会の働きを祝福し、宣教のわざを導いてください。この祈りを救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」