2024年4月14日(日) 礼拝説教 マタイの福音書18章21-35節 「神の赦しを受けた者」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>
 新学期が始まりました。新しい学校、新しいクラスはどうですか?お友だちは出来たでしょうか?僕たちは、お友だちといつも仲良くしたいと思います。でも仲のいい友達でも時々、喧嘩をしてしまうことがあるかもしれません。そんな時、皆は、お友達を赦すことが出来るでしょうか。なかなか相手を赦せないということがあるかもしれませんね。

 ある時イエス様の弟子のペテロが、イエス様に「イエス様、兄弟が自分に対して嫌な事をしたばあい、何回まで赦すべきでしょうか。7回まででしょうか?」と質問しました。皆なら何回まで赦す事が出来ますか?ペテロの言う7回までと言うのは、相当寛容な感じがしますよね。周りの弟子たちも「7回まで赦せたら大したものだよなぁ」と思ったことでしょう。
 イエス様は、なんと答えたでしょうか。イエス様は、「7回を70倍するまでです」と答えたのです。単純計算をして「490回」です。「じゃぁ500回目は赦さなくてもいいんだ」と言うことではありません。イエス様が言われことは、同じ人に対して何回までとか回数を数えることなどせず、無制限に赦しなさいという事なのです。無制限になど無理なことと思うかもしれません。けれど神様がどのように僕たちとかかわってくださるのかを知ることで、その意味を理解することが出来ます。そこで、イエス様は具体的なたとえ話をして説明してくださいました。

 ある人が、王様からたくさんのお金を借りていました。その額は1万タラントです。王様は、しもべにこの1万タラントをすぐに返すようにと求めたのです。「1タラント」は、「6000デナリ」で、「1デナリ」は、一日分の給料に相当します。ちょっと分かりづらいので、少し考えてみましょう。6000デナリということは、6000日分のお給料ということです。この6000日分が1タラントとなります。1万タラントはその一万倍ですから(6000×10000)、6000万日分のお給料と言うことです。一年は365日ですから、割り算すると6000万日分というのは、だいたい164,000年分になります。これでも分かりずらいですね。僕たちの予想もつかないほどですね。このしもべは、年を重ねておじいちゃんになっても返すことが出来ないほどのお金を借りてしまったということです。とても一度に返すことなど出来ません。しもべは、「すぐに返すように」と言われて、慌ててひれ伏して、頭を地面にこすりつけて「何年かかっても返しますから、もう少し待ってください。」と懇願しました。少し待っても返済など無理なことは、王様はわかっています。王様は、しもべをかわいそうに思って「もうよい、借金を全部帳消しにしてあげよう。もう返さなくてもよい。」と言ってくれたのです。こうしてしもべは、王様の大きな深い、深い憐れみ、優しい心によって赦されました。

 「王様、ありがとうございます。」と王様にお礼をし、「やった、赦された」と歓びながら帰るしもべです。その帰り道のことです。「おっあいつは、俺が100デナリ貸している奴じゃないか。」100デナリは、100日分(だいたい3か月分)のお金です。すると王様に借金を赦してもらったしもべは、「お前が100デナリ返していれば、王様にそれだけ返済できたんだぞ!すぐに100デナリを返せ。返せないなら、牢屋で働いて返せ」と同僚を赦すことが出来ず牢に投げ入れてしまったのです。王様に164,000年分の借金を赦してもらったしもべは、100日分のお金を貸していた仲間を赦す事が出来なかったのです。この詳細を聞いた王様は、とても悲しみ、しもべを呼び出して、「100日分のお金も大金だが、私が、お前の6000万日分に相当する借金を全部赦してやったのだから、お前も仲間の借金を全部赦してやるべきではなかったのか」と言い、しもべを返済が終わるまで牢獄に引き渡したのです。

 イエス様は、このたとえ話を通して、僕たちも赦し合うようにと教えておられます。なぜならば、神様が僕たちの罪を全部赦してくださったからです。そのために、イエス様は十字架にかかってくださったのです。僕たちは、イエス様に愛されています。罪を赦していただいています。このイエス様の愛に満たしてもらって、周りのお友だちを愛し、大切に、親切にして赦す心をもちましょう。今週の御言葉を一緒に読みましょう。
「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。」

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様が僕たちの罪を全部帳消しにしてくださることを心から感謝いたします。イエス様の愛の心を与えてください。そしてお友達に親切にし、赦す心を与えてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。」       エペソ人への手紙4章32節

<適用>
 日本には、「仏の顔も三度」という諺があります。1回や2回は大目に見るけれども、3回目は赦さないということです。そして三度目か四度目には、「堪忍袋の緒が切れた」という感じでしょうか。私の経験上も3回目くらいまでは大丈夫でした。私が小学生の時、授業中に担任を困らせて、1、2度は笑って受け流してくれましたが、3度目くらいには怒られるという事がありました。
 今日は、「神の赦しを受けた者」と言う題でマタイの福音書を見て行きます。私たちは、お互いに愛し合うこと、赦し合うことについて難しさを覚えるものです。神様は、そのような私たちの現実を知っているので、聖書を通して何回も「神様の愛」や「神様の赦し、憐れみ」について教えているのです。イエス様の声に耳を傾けましょう。

Ⅰ;神様の赦しを受けましょう

 まず、私たちは、神様の赦しをしっかりと心に受けとることが大切です。ペテロは、「何度まで」と質問しました。ユダヤ人の教えの中に3度までは赦すようにというものがありましたから、ペテロの提示した「7回まで」というのは、相当な寛容さを示したことになります。周りの弟子たちも、7回も赦せば相当柔和な、寛容な人物だと思ったことでしょう。

 ペテロが「何度まで赦すべきか」という質問をしたのは、18章15節以降のイエス様の教えを受けています。イエス様は、兄弟が罪を犯した場合に、どのように対応するべきなのかを教えられました。その対応の根底には、兄弟に対して「愛と赦しの心」を持つようにと言うことがあります。その流れでイエス様は「二人でも三人でもわたしの名において集まるところには、わたしもその中にいるのです。(マタイ18:20)」と言われたのです。これは、二人・三人集まって祈るならイエス様は、その祈りを聞いてい下さると言う約束の言葉です。その直接的な意味は、罪を犯した兄弟のための祈りです。イエス様は、私たちの執り成しの祈りを聞いて、答えてくださるのです。イエス様は、兄弟が罪を犯した場合、その兄弟が忠告を聞き入れる(悔い改める)なら赦しなさいと言われたのです。そしてこの和解の祈りを神様が聞いてくださり、罪を赦してくださるということです。しかしそれは、罪のための祈りだけに限定されることではなく、イエス様は私たちが心を合わせて信仰をもって祈る時、その祈りを聞いてくださるのです。
 とにかくペテロは、「兄弟が罪を犯した場合」というイエス様のたとえ話を聞いていて、「何回まで」と気になったのでしょう。ここで言う「兄弟」と言うのは、身近な人と言う意味合いがあるでしょうから、弟子仲間で気になる人がいたのでしょうか。身近な人ほど赦すのに困難を覚えるものです。イエス様は、7回を70倍するまでと言われました。これは、回数の問題ではなく、人を赦す事をいちいち数えるのではなく、制限を設けるべきではないという事です。

 そしてイエス様のたとえに登場する王様は神様のことを、多額の借金のあるしもべは私たちのことを、それぞれ現しています。しもべは、王様に借金を返すことが出来ずひたすら赦しを求めました。王様は、164,000年分の借金を返すことが出来ない、しもべを憐れみかわいそうに思って、借金を免除しました。一部を返してその他のものを免除したのではないのです。王様は、借金そのものを帳消しにしてくれたのです。同じように神様は、罪に沈み、暗闇の中でもがき苦しみ、永遠の刑罰を受けるしかない私たちを憐れみ、かわいそうに思い、解決の道を用意してくださったのです。福音書を読んでいると、イエス様が群衆を深く憐れんでおられる様子が書かれています。イエス様は、私たちが神様の裁きを受けなければならない状態を憐れみ、私たちの罪の罰を全部引き受けてくださったのです。

 先週私たちは、イエス様の十字架の救いを信じる信仰によって義と認められるということを学びました。神様は、イエス様の十字架の犠牲によって、私たちの罪を赦し、帳消しにしてくださる道を用意してくださいました。この神様の赦しを得るためには、自分の罪という負債を認めて、悔い改めて十字架の救いを信じることです。私たちが信仰をもって十字架のイエス様を見上げた瞬間、神様は私たちの罪の罰を帳消しにして、無罪と宣言してくださるのです。あなたは、この神様の救いをしっかりと受けているでしょうか。あなたの心は、私たちを憐れみ、罪を赦し、祝福を与えたいと願っておられる神様の愛で、満たされているでしょうか。

Ⅱ;神の赦しを受けた者として

 私たちは、神様の赦しを受けた者として、互いに愛し合い、赦し合うお互いとなり、そのような人間関係を築き上げる者となりましょう。
 ペテロが発した「どれくらい赦すべきか」という質問は、私たちが直面する問題でもあるように思います。私たちは、何回までという条件を持たなくても、心のどこかで赦すための条件を持っているのだと思います。私たちが他の人を赦すための条件となりやすいのは、「自分の気に入る謝罪をすること」「相手が自分の要望を受け入れること」などなどです。これらのことは、相手の悔い改めには関心を寄せず、自分の思いが満たされるかどうかという条件となりやすいのです。イエス様が言われたのは、赦す回数や条件などをつけず赦し合いなさいと事です。でもそれは、可能なのでしょうか。私たちの心が、神様の愛と神様の赦しを受けて満たされていれば可能です。

 イエス様のたとえ話は続きます。王は、借りのあったしもべに「あわれみを受けたように、お前もあわれみを示すべきだった」と言います。イエス様は、私たちが神様から愛され、憐れみを受けていることを決して忘れることがないようにと教えているのです。このイエス様の教えは、罪を見過ごせと言っているわけではありません。罪は罪として扱う必要があります。けれどもイエス様は、その人が罪を認め、神様の前に罪を悔い改めることが出来るように祈りなさいと言われるのです。相手を赦すための第一歩は、相手のことを覚えて祈ることだからです。そして悔い改めたなら、神様が赦してくださるように、私たちも赦すことが大切なのです。重要なことは、私たちが神様の愛に満たされ、神様の憐れみに感謝し、救いの恵みに感動して、赦し合うこと心を持つことが出来るかどうかです。私たちは、多額の借金を赦されたしもべのように自分の事に関しては、憐れみを受けたことを喜び感謝します。しかし、他人に対しては、自分が受けた憐れみを忘れて厳しい態度を取りやすいものです。

 だからイエス様は、主の祈りの中で「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え」と祈るようにと教えられたのです。35節の言葉も同じ意味合いを示しています。これは、「私たちが人を赦すから、神様も私たちの罪を赦してくださる」という条件のような言い方です。神様は、私たちが人を赦したら、私の罪を赦してくださるのでしょうか。もし私たちへの神様の赦しの条件が、私たちの心の寛容さにかかっているとしたら、私たちには赦される可能性は残されていません。私たちは、それほど寛容ではないし、私たちの愛はとても狭いものだからです。

 イエス様が教えておられることは、神様がまず私たちを愛して、赦してくださったのだから、その神様の愛を心に受け取りなさいということです。私たちは、ただただ神様の愛と恵みによって一方的に赦され、罪が帳消しにされ、救いを受けた一人ひとりです。私たちは、どれほど神様に愛され、大切にされ、赦されているのでしょうか。この神様の愛は、何にも代えられない素晴らしものであり、私たちに生きる力と勇気を与えるものです。私たちは、神様の愛の大きさ、広さ、高さ、深さをどれくらい知っているのでしょうか。パウロもエペソ4章32節で教えています。もう一度ご一緒に読みましょう。
「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。」
 さて、私たちは、神の赦しを受けた者として、回りの人たちに対して、どのような心を示すことが出来るでしょうか。私たちは、神の赦しを受けた者として、罪の赦しをしっかりと受け取り、愛し合い、赦し合う人間関係を築き上げていきましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。ペテロは何度まで赦すべきかと問いました。イエス様は、何度までと言わず、無制限に赦しなさいと教えてくださいました。それは、私たち自身が神様に愛され、赦しをいただいているからです。
 神様、私たちの心を愛で満たしてください。私たちがお互いに愛し合い、赦しあうことが出来るように導いてください。イエス様によって与えられた神様との平和が、私たちの人間関係の中でも実を結ぶことが出来るように力を与えてください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」