<子どもたち>
皆のクラスには、何か決まり事とかありますか?学年が一つ上がってクラスが変わったと思います。転校して新しい学校になった人もいるでしょう。クラスでは、朝学校に着いたらランドセル(鞄)をどこに置くか、授業での挨拶の仕方、給食の準備の仕方など色々と約束事がありかもしれませんね。授業の挨拶で言えば「起立、礼、着席」と言う学校や「起立、注目、礼、着席」と言う学校など地域によって違いますね。
神様は、聖書を通して僕たちにたくさんのことを教えてくださっています。神様は、僕たちがどのように歩むことを喜んでくださるのでしょうか。
ある時、一人の律法の専門家(聖書のことを教えている教師)が、イエス様に「何をしたら永遠のいのちを受けることが出来るのでしょうか?何をしたら神様に喜んでもらえるのか」と質問しました。彼は、専門家ですから聖書を良く勉強しているので知らないのではありません。イエス様を試そうとして聞きました。
これに対してイエス様は、旧約聖書にはなんと書いてありますか?と聞き返しました。するとこの人は、「心から神様を愛して、隣人を愛するようにと教えられています。」と答えました。イエス様は、「その通り、知っているのならそれをしっかりと実行しなさい」と勧めます。すると律法の専門家は、「では、私の隣人とは誰のことをいうのでしょうか。」と質問しました。そこでイエス様は、ひとつのたとえを話されました。
ある人(ユダヤ人)がエルサレムからエリコに向かって行きました。エルサレムからエリコに向かうためには、約1000m(1㎞)の山道を歩いて降りていくことになります。しかもその道は、険しい山道でよく強盗事件が発生しまいした。この旅人も強盗に襲われ大けがを負って、歩くこともできない状態になってしまいました。そこに一人の祭司が通りかかりました。祭司は、ユダヤ人のために神殿で神様に仕える人です。大けがをした人は「あー祭司様助けてください」と思います。祭司は、同じユダヤ人が痛めつけられ大けがを負っている人を見て「この近くに強盗がいるに違いない。急いで離れなければ自分も襲われてしまう」と考えたのでしょう、そのままけが人を見捨てて逃げてしまいました。
次にレビ人が来ました。レビ人も神様のために奉仕をする人です。彼は、「おーレビ人、兄弟!」と思います。するとレビ人は「強盗に襲われてしまったか。こうしてはいられない危ないから、先を急ごう」と見て見ぬふりをして通りすぎてしまいました。
するとそこに、サマリヤ人が通りかかりました。イエス様の時代、サマリヤ人とユダヤ人は、仲が悪く、お互いにかかわりを持っていませんでした。「サマリヤ人か、助けてはくれないだろう」とけが人は諦めます。イエス様の話しを聞いていた人は、「当然サマリヤ人は逃げていくに決まっている」と考えたことでしょう。しかしサマリヤ人は、「何ということだ、強盗に襲われてしまったのですね。それは大変だ、早く手当てをしなければ」と言って、駆け寄ってくれて手当てしてくれたのです。それだけではなく、宿屋まで一緒に行って、一晩付きっ切りで面倒を見るのです。次の日の朝、「私は、旅を続けなければなりません。お金を置いていきますので、この人を診てやってください。帰りにまた立ち寄りますので、足りない分は後で払います」と宿屋の主人にお金を渡してくれたのです
ここまで話してイエス様は、律法の専門家に「強盗に襲われた人の隣人になったのは誰ですか?」と質問しました。すると彼は、「かわいそうに思って、手当てをしてあげた人です」と答えました。律法の専門家は、自分の隣人は同じユダヤ人だと思っていました。けれどもイエス様は、決めつけないで誰に対しても親切にして、愛を示しなさいと言われたのです。
イエス様は、「あなたも同じようにしなさい」と言われましたね。「隣人」って、隣に座っている人と言うことではありません。僕たちの周りにいるお友だち一人ひとりのことです。イエス様は、僕たちがお友だちのために祈ること、お友だちに親切にすることを喜んでくださいます。
<祈り>
「愛する天の父なる神様、礼拝を導いてくださりありがとうございます。イエス様、僕たちが神様を愛して、隣人を愛することが出来る力を与えてください。家族やお友だちに親切にして、愛を示すことが出来るようにように導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」
「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』また、『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』」ルカの福音書10章27節
<適用>
私は、小学生の時の漢字の書き取りテストの答えを忘れることが出来ません。自分の書いた答えに自分も先生も家族も大笑いしたことがあったのです。私は、漢字が苦手というか、覚える気がなかったので真面目に書き取りの練習をすることもありませんでした。ある時、テストで「かれ」、「かのじょ」を漢字にするという問題がありました。私は「かれ」のところには「彼」と書きました。「かのじょ」の正解は「彼女」です。私は、「かのじょ」と言う問題の「の」を間に挿入して「彼の女」と書いたのです。使っている漢字はあっていますが、間に「の」があると全く意味が違ってきます。
「隣人」も間に「の」を入れて「隣の人」と理解してしまうと全く違う意味合いになってしまいます。しかし、イエス様に質問した律法の専門家は、「の」を入れていたのではないでしょうか。私たちはイエス様が教えてくださったことをもう一度心に刻みましょう。
Ⅰ;隣人とは誰のこと?
律法の専門家は、「では、隣人とは誰のことでしょうか」とイエス様に質問しました。この人は、イエス様の教えを聞きたい、教えていただきたいと思っていたわけではありません。ユダヤ人の祭司長や律法学者たちは、イエス様の言葉尻をとえて、イエス様を不利な立場に追い込もうとして様々な質問をしていました。ここに出て来る律法の専門家も、「イエスを試そうとして」とありますから、イエス様の言葉尻をとえるため、もしくは、イエス様がどれほどの人物かその知恵をためすために質問したのです。イエス様は、そのような彼の心を知り、「律法(聖書)には、なんと書いてありますか。」と逆に質問を返しました。この律法の専門家は、専門家として的確に律法をまとめました。これはイエス様も教えておられたことですから(マタイ22:36-40)、大正解です。27節をご一緒に読みましょう。「すると彼は答えた。『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』とあります。」
律法の専門家は、旧約聖書の申命記6章5節とレビ記19章18節の言葉から、即座に自信をもって答えました。イエス様は、彼に「正しい答えを知っているのはよろしい。では、それを実行しなさい」と言われました。すると律法の専門家は、「隣人とは誰ですか」と質問します。
律法の専門家の質問とイエス様のたとえのメッセージの違いはどこにあるでしょうか。律法の専門家は、「隣人とは誰ですか」と質問しました。これが彼の問題です。彼は「自分の正しさを示そうとした」わけですから、すでに答えを持っていたのです。彼は自分の家族、自分の同胞であるユダヤ人を隣人と考えていました。それが彼の隣人の条件だったのです。「自分の隣人とは誰だろうか」という質問は、隣人に条件を持ちます。その条件とは、「自分の家族、自分の友達」、「自分に親切にしてくれる人」等という条件です。この条件に当てはまらない人、「自分と違う民族、自分とは意見が違う人、他人」は隣人ではないということになります。これに対してイエス様は、「隣人になったのは誰ですか」と言いました。これは、人を見て判断するのではなく、積極的に隣人になることを教えているのです。
私たちは、「隣人になる」ことの難しさを知っています。しかも「自分自身のように」と言われると、余計に困難に感じます。私たちは、自分自身を大切に思うのと同じように他の人を大切に思うことが出来ないからです。でもイエス様は、私たちが自分自身と同じように隣人を愛することを望んでおられるのです。それが神様の御心であり、イエス様ご自身の姿なのです。私たちへのイエス様の愛は、広く大きく深いのです。このイエス様の愛に満たされた時はじめて私たちは、「隣人になる」ことが出来るのです。
そこで、律法の専門家がイエス様に質問しなかったことについて考えてみましょう。
Ⅱ;神を愛するとは
それは、「神を愛するとは何か」と言うことです。律法の専門家は、旧約聖書の教えを「主なる神を愛する」こと、「隣人の愛する」こととまとめました。イエス様は、それを実行しなさいと言われました。この時、彼が質問するのならば、二つの質問「神を愛するとは」と「隣人を愛するとは」がなければいけません。しかし彼は、一つしか質問しませんでした。
律法の専門家は、どちらについても答えを持っていました。隣人とは「自分の同胞ユダヤ人だけ」という答えです。「神を愛する」とは、「律法を守り行うこと」と言う答えです。彼は、ユダヤ人としてモーセの十戒だけではなく、ユダヤ人が持っている数々の伝統として守っている口伝律法を守ることが何よりも大切だと考えていたのです。そして多くのユダヤ人が考えていたように、律法を守っていれば何も問題なく、正しい人間になれるし、罪が赦されると考えていたのです。彼は、律法を完全に守りさえすれば、自分は神様に喜ばれるし模範的なユダヤ人として称賛されると思っていたのです。律法の専門家は、間違った価値観や考えを持っていたので、聖書が教えていることを正しく実行することが出来ませんでした。イエス様は、そのことをずっと指摘していましたが、ユダヤ教の指導者にはイエス様のメッセージは届きませんでした。
では、「神を愛するとは、」どのようなことなのでしょうか。もしこの質問を律法の専門家がイエス様にしていたら、ヨハネの福音書で語られたような内容をルカも書いていたのではないでしょうか。神を愛するとは、神様の命令を守ることです。ヨハネ14章15節「もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」、ヨハネ14章23-24節「イエスは彼に答えられた。『だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。』
イエス様は、ご自身の言葉を聞いて、それを心に留め、イエス様の教えておられることを信じて、従うことが父なる神を愛することであると教えてくださいました。「なんだ。やっぱり聞き従うことが求められているじゃないか。律法主義と同じような気がする」と思うでしょうか。もし私たちが、「わたしの戒めを守ることだ」というイエス様の言葉を義務とか律法だと受け止めるとしたら、私たちはイエス様の言葉を正しく受け止めていないことになります。イエス様は、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。(ヨハネ15:9)」と言われました。
マザーテレサは、「愛の反対語は憎しみではなく、無関心である」と言いました。相手を愛することは、相手に最大限の関心を寄せてその必要に答えることです。
私たちは、神様がまず私たちを愛し、私たちに最大限の関心を持ち、語りかけてくださっていることを忘れてはいけません。そして神様は、私たちの罪のために御子イエス様を地上に遣わし、イエス様を十字架につけてくださったということで、私たちへの最大限の関心を示してくださいました。神様は、私たちを愛するがゆえに罪のある私たちを罰するのではなく、罪のない御子イエス様を代わりにしてくださったのです。この神様の愛に答えて、神様への最大限の関心を持ち、神様の喜ばれることに心を向けることが、私たちが神を愛するという生き方です。皆さんは、最大限の関心を神様に向けているでしょうか。もし私たちが、神様の愛に答えて信仰をもって御言葉に耳を傾けるならば、Ⅰヨハネ5章3節で「神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。」と言われているように、神様の御言葉に従い、神様の喜ばれることを行うことは重荷とはなりません。そのような生き方は、私たちの喜びとなるのです。
イエス様に質問した律法の専門家はじめ多くのユダヤ人たちは、この点で失敗していたのです。彼らは、神様の御心や神様の喜ばれることを考えるよりも、細かい律法を守ること、自分の行いを主張することを優先していたのです。果たして私たちは、どうなのでしょうか。
実は、神を愛することと隣人を愛することは直結しています。私たちは、私たちに注がれている神様の愛を知ることなしに、隣人を愛することは出来ないのです。ヨハネ15章12節「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」とイエス様は言われました。Ⅰヨハネ4章12節「いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」、Ⅰヨハネ4章21節には「神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。」と教えられています。
私たちが、「隣人となり、隣人を愛する」ために必要な事は、イエス様に目を向ける事です。神様の愛に心を向け、神様の愛で心を満たしてもらうことです。私たちは、神様の愛に感謝し、神様の言葉に耳を傾け、神様に喜ばれる歩みをしましょう。そうすることで、私たちは、隣人を自分自身のように愛することが出来るのです。私たちは、心から神様を愛して、心から隣人となり、神様の愛を示し、隣人を愛する歩みをしていきましょう。皆さんから、神様の愛が広がって行きますように。
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様が私たちを愛してくださり、最大限の関心を持ち、御手を差し伸べて導いてくださることを感謝致します。私たちは、神様の愛に感謝をして御言葉に耳を傾けます。私たちの心を神様への愛で満たしてください。そして私たちが、神様を愛し、隣人を愛することが出来るように力を与えてください。そのことを通して、私たち一人ひとりから、神様の愛が溢れ出て、広がっていくこととなるように導いてください。私たちの周り、家族、友だち、そして日本が、世界が神様の愛に満ち溢れるようにとお願い致します。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」