2024年4月28日(日)礼拝説教 ルカの福音書12章13-21節 「愚かな金持ちのたとえ」 説教者:赤松由里子師

<子どもたちへ>
 皆さんは、何か嫌な事があった時はどうしますか?おうちの人に相談するかな?学校だったら先生に言うでしょうか。でも自分勝手だったり、無理な内容だったりすると、「良く考えてごらん、自分のしたことは大丈夫?」と聞き返されるかもしれませんね。
 聖書に、イエス様にもめごとの仲裁をお願いした人が出てきますよ。「先生、私にもっともっとたくさんのお金を分けてくれるように、お兄さんに話して下さい!」あれ?イエス様にお金の話?イエス様は「私はあなたたちの裁判官ではありません。欲張りには気をつけなさい」とおっしゃって、お願いを引き受けませんでした。かわりにみんなに向かって、たとえ話で大切なことを話してくださいました。一緒に見て行きましょう。

 この人は広い畑の持ち主でお金持ちです。「ああ、素晴らしい。今年は豊作だな。」倉庫に入りきらないほどの収穫です。金持ちは考えました。「どうしようか、私の作物をしまう場所が足りないぞ。」ほくほく嬉しい気持ちでこう考えました。「よし!今ある私の倉庫を壊して、もっと大きい倉庫を建てて私の穀物も財産もしまえばいいんだ!」私の、私の、ってなんだかしつこいですね。

金持ちはこうも考えました。「これから先何年分もいっぱい物が貯められた。安心して食べたり飲んだりしよう。贅沢して楽しもう!」
 金持ちがそう心でつぶやいた時です。神様の声がしました。「愚かな人だ。お前は今夜死ぬのだ。お前が用意したものは、いったい誰のものになるのだい?」ここまで話すと、イエス様はみんなに向かってこう言いました。「自分のためにため込んだとしても、神様が喜ぶ生き方をしないなら、この金持ちと同じことです。」
 今日のみことばを読みましょう。「どんよく(貪欲)」というのは、もっと欲しい、もっと欲しいと満足できない欲張りな心のことです。欲張りになりすぎて、神様を忘れてはいけませんよということです。物やお金をたくさん持っても心が満たされることはないし、天国に入れて頂くことは出来ません。金持ちは、結局いのちを取り上げられて、楽しむことは出来ませんでした。

 私たちは、持っている物は自分のものだ、と考えやすいです。お金持ちの人が私の、私の、と言っていたのと同じです。しかし、本当はみんな神様が下さったものです。私たちに任せて下さっている神様に、ありがとうございますという感謝の気持ちを持つことが大切です。
お金や物、時間、得意な事、才能など、神様から任されたものはたくさんあります。それを神様が喜ばれるように使っていきましょう。そして一番必要な心の安心、罪の赦し、天国に入れる約束は、神様だけが下さるものです。金持ちは神様に悲しまれ、いのちを取り上げられてしまいました。私たちはそうならないように、神様を一番にしたいですね。

<祈り>
神様、私たちの中には、欲張りな心があります。「もっともっと」と欲張るのでなく、神様に感謝して、神様の喜ばれる使い方をして行けるように助けて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。」     ルカの福音書12章15節
「貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください。私が満腹してあなたを否み、『主とは誰だ』と言わないように。また、私が貧しくなって盗みをし、私の神の御名を汚すことのないように。」

                                     箴言30章8-9節

<適用>
 私は群馬で奉仕をしていた際、家庭裁判所の調停委員を務めていました。お寺の住職夫人が退任するので、教会の牧師夫人にお願いしたい、という不思議な理由でお話が来ました。社会貢献のつもりで引き受けさせて頂きました。
 その働きの中で、遺産分割調停にも携わりました。ご主人を亡くした奥さんが、義理の親族から相続を拒まれるというケースでした。最終的には法定通りに収まりましたが、人間の欲というのはこんなにも人間関係を引き裂くものなのか、ということを目の当たりにしました。貪欲、お金への執着の問題は、他人事ではありません。私たちの弱さが何かの折に現れるかもしれません。この貪欲の問題に光を当てられたイエス様のお言葉に、教えられたいと願います。

 1.愚かな生き方とは

 第一に覚えたいのは、貪欲にとらわれた愚かな生き方に陥らないように、というイエス様の警告です。
 今日の箇所は、12章1節からのイエス様の説教の最中に起きた出来事です。10節からのところでは、イエス様が聖霊について語っておられました。すると群衆の中から唐突に声が上がりました。「先生、遺産を私と分けるように、私の兄弟に言って下さい」(13節)。当時はラビに様々な問題の仲裁をしてもらったようです。恐らくこの人は、話を聞きに来たのでなく仲裁を頼みに来たのでしょう。しかしイエス様はそれを引き受けませんでした。
 代わりにこう言われました。15節「そして人々に言われた。『どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。』」仲裁を望む彼だけでなく、そこにいた人々に向かってイエス様はこう話されました。貪欲の傾向が、私たち罪人の内には必ずあるからです。

 そこで語られたのが、今日の「愚かな金持ちのたとえ」です。「愚か」も「金持ち」も生々しく聞こえますが、正面から考えてみる必要があります。誤解のないように言えば、貯蓄をすること、計画的に財産を管理すること、仕事を手広く押し進めることは、罪でも愚かでもありません。彼の問題はそこにはありません。ではこの金持ちは一体どんな点で愚かだったのでしょうか。
 通常、愚かというのは「知恵や思慮が足りない」という意味です。しかし、この人は不正もしていませんし、立派に事業を切り盛りして成功させています。豊作なら将来に備えて蓄えるのも当然ですし、出エジプト記のエジプト宰相ヨセフも、7年間の豊作の際、続く7年の飢饉に備えて備蓄させた知恵のある人物として描かれています。していることは同じですが、この金持ちは愚かで、ヨセフは賢いと言われる。その違いは何でしょうか。

 聖書では、「愚か者は心の中で『神はいない』と言っている(詩篇53:1)とあります。神を否定するあり方が「愚か」と言われています。この愚かな金持ちは、神を恐れず感謝せず、神がいないかのようにふるまいました。その点で愚かだったのです。結果、さばきとしての死を受けることになりました。神は侮られる方ではありません。生きてすべてを支配され、その思うところを行われる方です。私たちは正しく神を怖れ敬う必要があります。
 また、神以外を心の拠り所とするあり方が、「愚か」と呼ばれます。詩篇49篇にはこうあります。「彼らは、自分の財産に拠り頼み、豊かな富を誇っている。…自分の身代金を神に払うことはできない。たましいの贖いの代価は高く永久にあきらめなくてはならない」(49:6~8)。富は心の拠り所にされがちだけれど、魂の救いには何の役にも立ちません。この金持ちはこの点でも愚かでした。

 新約聖書が与えられた私たちは、罪人の贖いの代価はイエスの十字架によって支払われたと知っています。この知恵を自分のものにすることが、愚かな生き方に支配されないために不可欠です。
 そのうえで私たちは、神様より己を優先させる生き方になっていないか、自分に問う必要があります。使徒パウロによれば「貪欲は偶像礼拝」(コロサイ3:5)だと言われています。私のお金、私の持ち物、私の時間、私の人生…私たちは愚かな金持ちと同じように「私の、私の」と自己中心になっていないでしょうか。神に委ねられたものであることを忘れてしまうほどなら、それは心に偶像を抱いている状態かもしれません。私たちの人生の主は神様でなければなりません。
 ヤコブの手紙には「あなたがたはむしろ、『主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう』と言うべきです」(ヤコブ4:15)とあります。へりくだって「主のみこころ」に思いを馳せましょう。貪欲に支配されないよう気をつけ、愚かな生き方から守って頂きましょう。何事にも、私たちの主のみこころを求めて参りましょう。

2.神に対して富む生き方とは

 2つ目に覚えたいのは、神に対して富む生き方です。イエス様は、愚かな金持ちは神の前に富まない者だった、と言われました。では神の前に富むとはどういうことでしょうか。
 このたとえに続くイエスさまの説教に、その理解の糸口があるように思われます。主は空の鳥、野の花を示し御国を求めるよう言い、その文脈の中でこう言われました。「自分の財産を売って施しをしなさい。自分のために、天に、すり切れない財布を作り、尽きることのない宝を積みなさい。天では盗人が近寄ることも、虫が食い荒らすこともありません。あなたがたの宝のあるところ、そこにあなたがたの心もあるのです」(12:33、34)。
 ここには、神様、隣人、そして自分が意識されています。自分だけを利する貪欲から解放され、与えられたものを神様と隣人のためにも用いること。それが天に宝を積む生き方だと主は教えておられるのではないでしょうか。

 小川町から群馬県に向かう際、深谷市を縦断する道を通ります。その途中に、目を引く看板が立っていました。地元の不動産屋さんの看板ですが、このように書かれていました。「忠恕(ちゅうじょ)のこころ、三方よし」。私はこの聞きなれないことばが気になり調べました。するとこの「忠恕」とは、論語でいう「まごころと思いやりの心」で、深谷市出身の渋沢栄一(新しい1万円札の肖像)が大切にしていた言葉だとわかりました。地元の不動産屋さんが郷土の偉人にならって「忠恕のこころ」を表現したのが、おそらく「三方よし」なのでしょう。不動産の売主、買主、そして業者その誰もがよいと思える取引をしますよ、という表明でしょう。自分だけを利する行動を戒める、そのような言葉なのだと思います。渋沢は確言しかねるが、と前置きしつつ「耶蘇教でいう愛は…忠恕に似たものであるかのように思われる」とも言っています。
 与えられたものを神と人とのために用いると、自分の楽しむ分は減ります。けれども神の愛と聖霊の力を頂くことで、神と人とに捧げることが可能とされ、そこには喜びが与えられます。渋沢栄一は私生活では聖人君子ではありませんでしたが、その忠恕に基づいた活動のゆえに大いに尊敬を受けました。私たちも渋沢栄一に負けているわけにはいかない、と思わされます。新一万円札を見る度に思い出させて頂きたい、と思います。クリスチャンとしての「三方よし」を実践して行きましょう。神と人とを愛することにおいて成長させて頂きましょう。

 パウロは「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(Iコリント10:31)と勧めています。委ねられたものを、神のみ栄えのため適切に管理していく力を祈り求めましょう。
 最後に箴言30:8~9をお読みしたいと思います。そこには私たちがどう祈っていけば良いのかが教えられています。「貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください。私が満腹してあなたを否み、『主とは誰だ』と言わないように。また、私が貧しくなって盗みをし、私の神の御名を汚すことのないように。」人それぞれ神様から委ねられる分は異なります。しかし自分の器に見合った、多過ぎず少な過ぎない財を賜ることを信じ、主の養いに期待しましょう。この祈りを私たちの生き方を導く祈りとして参りましょう。

<祈り>
 天の父なる神様、今日は貪欲に気をつけるべきことを教えられました。自分ばかりを利するような愚かな生き方から解放して下さい。むしろあなたと周りの人を愛し、み栄えのために行動する者として成長させて下さい。天国に凱旋する日に、天に積んだ宝の少なさに愕然とすることのないように、あなたの前に富む生き方に思いを巡らして参ります。どうぞちょうど良い分の恵みで養い、お金での失敗で御名を汚さぬようお守りください。御名によってお祈りいたします。アーメン。