2024年5月5日(日) ルカの福音書15章1-10節 「神の熱い思い」 説教者:赤松勇二師、CS説教:赤松由里子師

<子どもたちへ>赤松由里子師
 連休、皆さんはゆっくり過ごしましたか?あるいは忙しく過ごしたりしたでしょうか?我が家の子どもが小さかった頃、彩の国ふれあい牧場に家族で行ったことがありました。そこには牛や羊、やぎがいました。やぎに葉っぱを食べさせる経験をした写真も残っていて、懐かしいな、と思い出します。山の牧場の空気を吸い込んで、かわいい動物たちと過ごすのは大人でも子どもでも、リラックスできる時間です。イエス様も、まきばの羊を思い浮かべてお話して下さったことがありますよ。今日は、迷子の羊の話です。

 この人は羊飼い。100匹の羊を飼っています。たくさんですが、一匹ずつ名前をつけて見分けていました。どの子もかわいがって大切に育てました。「おいおい、少しやせてるな。しっかり食べて大きくなるんだよ。」「ああ、また転んでる。おっちょこちょいだなあ。気を付けて見てやらなくちゃ。」羊に話しかけながらお世話をしています。羊という動物は、羊飼いのお世話が必要だそうです。襲ってくる動物に立ち向う牙もないし、逃げ足も遅いのです。更には迷いやすくて、一度迷子になると、自力で戻って来られないそうです。とっても手のかかる動物ですが、その分羊飼いは羊たちがかわいくて仕方ありませんでした。

 そんなある日のことです。100匹いたはずの羊ですが、何度数えても99匹しかいません。1匹が迷子になってしまったのです。「おーい!戻っておいで!私たちはここだよー!」羊飼いがいくら呼びかけても、どこからも「メエー」の返事は聞こえません。遠くに行ってしまったのでしょうか?
 みんなだったらどうしますか?99匹もいるんだから、1匹くらいいいんじゃない?と思うでしょうか?この羊飼いは、99匹を野原に残したまま、迷子の1匹を探しに行くことにしました。その羊のことが心配で仕方がなかったのですね。一生懸命探すと、ついに迷子の羊を見つけることが出来ました。疲れて怖くて、羊は動けなくなっていました。それで羊飼いは肩に羊を背負ってあげて、連れ帰りました。そして友達や近所の人に言ったそうです。「一緒に喜んでくれないか?いなくなった羊が見つかったんだよ!」迷子の一匹が見つかって、本当に嬉しかったんですね。

 ここまで話した後で、イエス様はおっしゃいました。それが今日のみことばです。「一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。」(ルカ15章7節)イエス様が言われた「罪人」というのは、神様から離れて迷子になっている人のことです。イエス様は、離れていく人を心配し、戻っておいで、と呼び掛けておられます。羊に羊飼いのお世話が必要だったように、私たちもイエス様に守って頂くことが必要です。イエス様は私のことも、みんなのことも、大喜びで迎えて下さいます。私たちを心待ちにしておられるイエス様を信じて教会に通いましょう。そしてイエス様にしっかりとついて行きましょうね。

<祈り>
 「神様、この羊飼いのように、イエスさまが私を大切にして下さることを感謝いたします。イエス様が私を喜んで迎えて下さると教えられました。『自分なんて価値がない』などと思わずに、喜んで下さるイエス様を信じて教会に通います。『一緒に喜んで』とあるように、お互いを喜びながら過ごさせて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」

「一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。」      ルカの福音書15章7節

<適用>赤松勇二師
 私が専門学校に通っている時のことです。1年生の時だと思いますが、クラスメイトで仲の良い友だちが出来ました。色々話している中で、お互いの趣味の話になりました。ある友だちが「自分はモータースポーツ、特にバイクに興味がある」と話をしていました。私は、当時、新聞配達をしながら学校に通っていました。ですから毎日バイクを使って仕事をしています。またF1やバイクレースなどモータースポーツはよくテレビの放送を見ていました。私は、「自分もモータースポーツ好きだよ」と話しました。するとその友だちは、嬉しそうにモーターバイクのこと、バイクレースのことなどを話してきたのです。彼は、ガチのモーターバイクのファンだったのです。彼が乗っているバイクは中型のスポーツバイクです。私が乗っているのは原付です。そして私はモータースポーツバイクのレースのことは、あまり知りません。彼は、モーターバイク愛を語り出しています。私は、彼の話の半分も分かりませんでした。そして私は、「自分は、モーターレースを観る専門だから、よく知らないんだ」と言って謝りました。彼は、自分と同じ趣味を持っていると思い、熱い気持ちを話してくれたのです。
 さて、神様は、私たちに対する熱い愛の思いを持っておられます。そして神様は、神様の熱い思いを私たちが知り、受け取ることを願っておられます。ぜひ、神様の熱い思いを受け取りましょう。

Ⅰ;求める心をもって

 私たちは、神様の熱い思いを求める心をもってイエス様の御前に近づきましょう。まず、イエス様の周りに集まっていた人たちについて見てみましょう。イエス様の周りには、弟子たちのほかに、取税人や罪人たちと言われている人たちが集まってきました。
 取税人は、ローマ政府のためにユダヤ人から税を取り立てる仕事をする人たちのことです。当時のユダヤ人にとってローマ政府は、自分たちの地域を占領し支配している異邦人です。取税人は、敵であるローマ政府のために同胞ユダヤ人から不当に、強引に税を取り立てるのですから受け入れられるはずはありません。当然ユダヤ人社会からは、のけ者となれ、嫌われていたのです。
 罪人と言われる人たちは、犯罪人と言う意味ではありません。この人たちは、ユダヤ人たちが守っている律法を守らない人たちやユダヤ教では嫌われている職業に就いていた人たちのことです。彼らは、旧約の律法だけではく、パリサイ派や律法学者が教える様々な規定や習慣を守らない人だったということです。当然このような人たちも取税人と同じようにユダヤ社会からは追い出されていました。

 取税人や罪人たちは、なぜイエス様のもとに来たのでしょうか。彼らは、「聞く耳のある者は聞きなさい。(ルカ14:35)」というイエス様の促しに心を開いたのです。そしてイエス様の話しを聞こうとして集まってきたのです。もしかしたら、弟子の中に取税人だったマタイがいたので、自分たちにも神の言葉を聞き、教えを受ける可能性があるかもしれないという期待と持っていたのではないでしょうか。
 イエス様は、彼らの期待通りに、ユダヤ社会から疎外されていた、取税人や罪人と言われる人たちを歓迎し一緒に食事をし交わりを持ってくださいました。イエス様は、求める心を持つ者の願いに答えてくださるお方です。

 イエス様の周りには、もう一つのグループが集まっていました。それは、ユダヤ教の教師であるパリサイ人たちや律法学者たちです。彼らは、イエス様がユダヤの教えに従うのか、イエス様の語ることに間違いはないのかチェックして、イエス様の言葉の上げ足を取り非難し不義に陥れるために集まっていました。彼らは、イエス様の教えを心から求めることはありませんでした。この時もパリサイ人や律法学者たちは、イエス様が取税人や罪人たちを歓迎し、交わりを持つことを非難し、文句を言って自分たちが正しいことを主張しようとしました。
 まず、私たちは、私たちに向けられている神様の熱い思いを常に求める心をもって受け取る者として、イエス様の言葉に耳を傾けましょう。

Ⅱ;全ての人に向けられている

 神様の熱い思いは、全ての人に向けられています。イエス様は、パリサイ人たちの不平不満、文句に対して三つのたとえを話されました。今日は、「いなくなった羊」と「失われた銀貨」の2つのたとえ話を見ることにします。たとえ話に出てくる「いなくなった羊」や「失われた銀貨」は、イエス様のもとに集まった取税人や罪人たち、そして私たち一人ひとりを現しています。そして羊飼いや探し回る女の人の姿は、主なる神様のことを現しています。

 百匹の羊うちの一匹が群れを離れていなくなりました。羊は、視力が弱く、遠くを見ることが出来ません。牧草を求めて目の前の草を食べているうちに群れから離れてしまうことがあるのです。そして羊は、一度迷ってしまうと自分では元の道に戻ることが出来ません。だから羊が群れから離れるということは、羊の命にかかわることなのです。しかも、羊は自分が道に迷っていることに気づいてはいないのです。そして気づいた時には、「時すでに遅し」、どうすることもできない状況に追い込まれてしまうのです。
 この羊の姿は、私たちの姿そのものではないでしょうか。私たちは、別に神など信じなくても生きていける、自分の好きなように生きて何が悪いのかと言います。そして時には、自分の人生に神など必要ないと傲慢になることがあります。けれどもそのような私たちは、自分が人生に迷い、どのように生きたらよいのか分からないことが多くあります。しかも人は、人生に迷っている、進むべき道を見失っているということに気づかないのです。気づいた時には、どうすることもできない状態になっているということがあります。それが「罪」の姿です。聖書で教えている罪とは、神など必要ないと神様に背を向け、無視して、自分中心に生きることなのです。

 一枚の銀貨は、失った女性にとってとても大切なものでした。これは、結婚記念のために持っているもの(結婚指輪のようなもの)とも言われます。10枚そろっていないと意味がないのです。だから必死になって探すわけです。銀貨は、自分がどこにいるのかを主張することは出来ません。1ドラクマというのは、ギリシャ銀貨であり、一日分の給料に相当すると言われています。ですから銀貨は、人の手元にあって初めてその価値を見出すことが出来ます。結婚を記念するとすれば、1枚なくしてしまえば、意味がありません。銀貨1枚のことですが、銀貨はあるべきところに収まって初めて存在意義を見出すのです。
 私たちも失われた銀貨と同じです。私たちは、自分の存在意義や生きる意味を見出すことは出来ないものです。私たちは、生まれてきた意味や自分の人生の在り方、存在意義などについて、自分の力ではどうしても見出すことが出来ません。

 私たちを愛してくださっている神様の熱い思いは、人生に迷い、進むべき道を見失っている私たちに向けられています。神様の熱い思いは、人生の意味、自分の存在意義を見出すことが出来ない私たちに向けられているのです。神様は、全ての人に対して、熱い愛の思いを持っておられるのです。この神様の愛は、イエス様を通して私たちに示されています。イエス様は、神の在り方を捨て、人間となってこの地上に来られました。そして私たちの罪の身代わりとなり十字架で神様の裁きを受けてくださいました。それは、私たちを捜し出して救うためです。イエス様は、人生に迷い、進むべき道を見失っている私たちを救い、罪を赦し、正しい道に引き戻してくださるのです。イエス様は、生きる意味が分からず、自分の存在意義を失っている私たちに生きる意味を教え、私たちが尊い存在であることをはっきりと教えてくださいます。

 このイエス様の救いの御手をしっかり握り、信仰をもって悔い改めるなら、天の御国で大きな喜びが起こると言われています。すでにイエス様を信じている人は、自分が信仰告白したあの時に、天の御国で喜びが湧き起こり歓声が響き渡ったことを思い起こしましょう。まだはっきりと信仰告白をしいない方は、イエス様があなたを待っておられ、喜んで迎え入れてくださることを知ってください。イエス様は、人生に迷うあなたを見つけ出し、罪から救い正しい道に導いてくださいます。イエス様は、あなたを愛していると声をかけ、あなたは素晴らしい存在だと言ってくださいます。神様の熱い思いは、全ての人に向けられています。

Ⅲ;今も変わらず

 神様の熱い愛の思いは、今も変わらず私たちに注がれています。だから私たちは、いつも神様に祈り、神様の助けを求めることが出来ます。
 小川教会の2024年度のテーマは、「恵みの御座に近づこう」です。そしてテーマ聖句はピリピ人への手紙4章6-7節です。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
 これと同じようなことを教えている聖書の言葉が他にもあります。ヨハネの手紙第一 5章14節です。「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」

 神様は、私たちの問題や願い、必要を知らないのではありません。神様は、私たちの必要を私たち以上にすべて知っておられます。しかし神様は、私たちが一つ一つの事柄を祈り求めるのを待っておられます。それは私たちが神様によって導かれ、神様の助けによって歩んでいくということをはっきりと知るためです。だから私たちは、何事でも神様の導きを求めて祈ることが出来るのです。イエス様は、私たちの祈りに確かな答えを与えてくださいます。なぜならイエス様は、十字架で死なれただけではなく、死を打ち破りよみがえり、今も生きておられるからです。イエス様は、今もこれから変わらずに私たちを捜し出し見つけ出してくださるお方です。私たちが人生に迷うならばイエス様の御手を求めて祈りましょう。イエス様は、私たちの手を取って確かな道へと進ませてくださいます。もし私たちの心が元気を失い、覆い隠されてしまうと感じるなら、イエス様の光を求めて祈りましょう。イエス様は、私たちをご自身の光で照らし私たちに力を与えてくださいます。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様は、一匹の羊を捜し出すように、私たちを捜し出し救いの御手を差し出してくださることを感謝いたします。またイエス様は、失われた銀貨を見つけ出すように、私たちを見つけ出し素晴らしい存在として愛していると声をかけてくださることを心から感謝いたします。この神様の熱い愛の思いで私たちの心を満たしてください。そして主なる神様に祈り求め、神様と共に歩む日々を送ることが出来るように私たちを導いてください。
 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」