<子どもたちへ>
今日は、お父さん、お母さんに心からの感謝を表しましょう。5月12日の今日は「母の日」で、6月16日は「父の日」となります。今日の礼拝は、「両親への感謝をしよう!」と言うことを心に留める時としています。皆さんのお父さんやお母さんは、皆のことを大切に思っていてくれます。そして、「学校では大丈夫かな?ケガをしないかな?友達とは仲良く出来ているかな?」と皆のことをいつも心配してくれています。皆は、愛されています。そして教会でも皆のことを大切な神の家族として愛しています。
イエス様は、一つのたとえ話を通して、親の愛を教え、僕たちに対する神様の大きな愛を教えてくださいました。
ある人に2人の息子がいました。ある時弟息子が、父親に信じられないような話を切り出しました。弟息子は、「お父さん、一つお願いがあります。お父さんが亡くなった時に僕がもらえるはずの財産を今のうちに下さい。」と言うのです。お父さんは、「財産??それはまだ早いのではないか。どうしてそんなに欲しいのか」と聞き返します。弟息子は、「とにかく、たくさんあるお父さんの財産の中で僕が受け取れる分を今すぐ欲しいのです。」と言い張ります。財産というは、親の死後受け取るものです。でも親は、自分が生きているうちに子どもに財産を与えることは出来ます。けれども、「早く財産をください」という弟息子の身勝手でわがままな願いですから、お父さんはとっても寂しく、悲しかったでしょうね。
この時お父さんは、すごく考えたと思うけど、最終的には兄と弟に財産を分け与えることにしたのです。弟息子は、「やったー。待ちに待った財産が手に入った。これで自分は自由に何でも出来るし、毎日好き放題をすることが出来る。自由だー!」と、すぐに荷物をまとめて家を飛び出して行きました。こうして弟息子は、お父さんの気持ちなど考えもせず、必要なものだけをもって家を出ていきました。
ここで皆に質問です。弟息子は、持っている財産(お金)を無計画に使い続けました。するとどうなってしまったでしょう。弟息子は、特に仕事はしなかったようです。
そう、お金は使えば減ってしまいますね。なんと弟息子は、お父さんからもらった財産を湯水のように使ってしまったのです。「湯水のように」というのは、汲んだお風呂のお湯をジャバ―っと流すように使い切ってしまうということです。弟息子がお金をたくさん持っていて、ぜいたくな生活をしていると、多くの人が集まってきたことでしょう。しかしお金は、使ってしまえばなくなります。とうとう弟息子は、お金を使い切り一文無しになってしまいます。すると「なーんだ、もうお金がないのか。じゃあもう一緒にいても仕方ない」と友だちはみんな近寄らなくなりました。皆、お金が目当てだったのですね。
弟息子が一文無しになったとき、その地域を飢饉が襲いました。「飢饉」とは、作物が取れなくて、食べるものがなくなってしまうことです。財産がなくなった弟息子は、慌てましたが、誰も彼を助けようとしません。やっと手に入れた仕事は、豚の世話でした。ユダヤ人にとっては、豚は汚れた動物で、その世話をすることなど考えられないこと、屈辱的なことなのです(レビ11:7)。仕事は何とか見つけたけど、十分な食べ物はありません。「あー、お腹すいたなぁ。喉も乾いたなぁ。自分がこんなに貧しいのに、豚は餌を食べているなぁ。あの豚のエサは美味しいのだろうか。」弟息子は、そんなことを考えながら豚を眺めているだけで、誰も食べ物をくれません。
この時です。弟息子は、我に帰り、自分の過ちに気が付きました。そして彼は悔い改めて、「お父さんの家に帰ろう」と決心するのです(17-19)。「家に帰って、お父さんになんて言おうか?どんな顔で帰ればいいのだろうか。きっとお父さんは怒っているだろうし、家に入れてもらえないかもしれないなぁ」弟息子は、お父さんに謝る言葉を色々考えて「もう息子と呼ばれる資格はない。雇人として仕事をさせてもらおう。ちゃんと謝ろう」と決心して、家に向かいました。
弟息子が、家近づいて来た時、父親は、遠くにいる息子を見つけることが出来ました。その姿は、家を飛び出していった時とは全く違うものとなっています。何日もお風呂に入れず、洋服も着かえることが出来なかったでしょう。見るからにボロボロの状態です。父親は、ボロボロになった息子の姿を遠くに見るや、急いで走って行って、抱きしめ口付けして迎え入れました。父親は、弟息子が帰って来たことを喜んで、歓迎会を開きました。父親にしてみれば、どんな状態であっても、息子は息子、大切な愛すべき存在だったのです。
神様は、皆ことを同じように見ていてくださいます。神様は、みんな一人一人の事を大切な、愛すべき存在として見ています。神様は、「あなたは大切で特別な人」と言ってくださっています。神様の愛を信じて、祈りながら歩んでいきましょう。そしてお父さんやお母さんにいつもありがとうと感謝の気持ちを伝えましょう。
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様が僕たちの事を大切な存在、愛すべき存在としてくださっていることを感謝いたします。神様を信じて歩みます。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」
「主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださる。」 イザヤ書55章7節
<適用>
今日は、両親への感謝を覚える礼拝です。私が両親の愛情にありがたいと思ったエピソードをお話しします。私には兄、姉、妹、弟がいます。私含めて5人兄弟となります。両親は、今二人で生活をしています。私たち兄弟は、時々両親の家を訪ねて生活をサポートすることにしています。私が行くと、母は、「取っておいた」と言って袋に詰めた果物やお菓子をくれるのです。「取っておいた」と言う言葉を不思議に思い、「どういうこと?」と聞きました。すると「この前、お兄ちゃんが来た時に上げたから、お前にも上げようと思って取っておいたんだよ。」と言ってくれました。両親は、子どもたちが家を離れて一人暮らしをした時から、そのようにしていた記憶があります。当然それは、私だけに限ったことではなく、両親は、5人の子どもに対して同じようにしていたのです。両親は、5人いる子どもたちに平等に接していきたいという思いがあるようです。それは、今も変わらないと思います。親の愛情というのはうれしいものです。両親の姿は、親となった自分はどうだろうかと問いかけてくれています。
さて、イエス様は放蕩息子のたとえを通して、私たちに対する憐れみと赦しに満ちておられる神様の大きな愛を教えています。
Ⅰ;神様から離れる人に向けられています
まず、憐れみと赦しの神の愛は、神様から離れる人に向けられています。弟息子は、お父さんに財産を分けてくださいとお願いしました。「生前贈与」は、認められていたとはいえ、息子からの要請ですから、父親としてはいい気持ちはしません。
父親は、とってもがっかりしたでしょうし、傷ついたと思います。そして「お金さえあれば何でも出来る」と考える息子を目の前にして、「そんな風に教えた覚えはないのになぁ」と思った事でしょう。弟息子は、父親の気持ちを考えることが出来ない人でした。彼は、自分の欲望だけを優先し、自己中心になり、自分の自由だけを求めたのです。
財産を受け取った弟息子は、親兄弟から離れ、誰からも人生について干渉されないように遠い国に移住してしまいます。そして彼は、移住した所で、財産を湯水のように使い果たしてしまいました。きっと弟息子は、人もうらやむような生活をしていたことでしょう。その時は、大勢の人が集まって来ていました。私たちは、大勢の人に囲まれてチヤホヤされると気持ち良くなります。そして自分が注目され、人気者となったと思い込んでしまうことがあるでしょう。弟息子も自分が人気者となり一躍時の人となったと勘違いしたに違いありません。でもそれは、大いなる勘違いでした。彼がすべてを使い果たし一文無しになった時、激しい飢饉が起こり、弟息子は人生のどん底に突き落とされました。でもそれは仕方のないことです。彼は、自分の蒔いた種を刈り取るしかないのです。
私たちは、弟息子の姿を「自業自得!」と一刀両断したい気持ちになります。しかし実は私たちは、この弟息子の姿とそれほど変わらない部分をもっています。イエス様が教えていることは、弟息子の姿は憐れみと赦しの神様から離れている私たちの姿であるということです。弟息子は、父親の気持ちを考えず、父親の愛を感じようともせず、ただ自分の欲望と満足だけを追い求める生き方をしていたのです。それと同じように人は、神様の憐れみや赦し、愛を気にも留めず、自分の考えや欲望に支配された生き方をしてしまうのです。人は、それが神様から離れている生き方だとは気づきません。その結果は、罪に縛られ、何も生み出さない暗闇の中でもがき苦しむことになってしまいます。そしてたいていの場合、人は自分の心の空しさに気づいています。しかし先ほど言ったように、神様から離れている罪だとは認めません。多くの人は、自分の心の空しさを隠し、様々な事でごまかし、打ち消そうとします。ある人はギャンブルに走り、ある人はお酒に、ある人は物欲に心を向けて行きます。その行きつく先は、弟息子と同じで身も心もボロボロになるのです。
あるクリスチャンの証しです。彼の母親は、教会に通っていましたが、彼は教会に通うことがなく高校卒業と同時に家を飛び出し、20数年間自分の欲の向くままの生活をして来ました。その結果彼は、生きる目的が分からず、人を傷つけ、親を恨む日々が続きました。しかも彼は、「教会に行ったらどうか」という母親の言葉を無視し続けたのです。しかし彼は、自分ではどうすることもできない状況に追い込まれた時、初めて教会を尋ねました。この時彼の心は、飢餓状態で誰も解決を示してくれない状況でした。彼は、教会に来て聖書を学び自分がどれほど罪深く、屈折した人生を過ごしてきたのかを知りました。その事に気づいた彼は、神様への信仰が深められ、信仰に導かれました。それを知った母親は、非常に喜びました。実は、母親は彼が家を離れた時から折に触れキリスト教の書籍を送り続けたそうです。けれども彼は、自分の人生には聖書やキリスト教の本は必要ないと思っていましたから、読むこともないまま押入れにしまい込んでいたのです。彼は、クリスチャンになって押入れにあるキリスト教の書籍を見て、初めて母親の気持ちと愛情を知ることになったのです。
弟息子は、人生のどん底で我に返り、自分の罪を認め悔い改めました。彼は、まず天に対して罪を犯したことを知りました。これは、創造主なる神様に背を向けて不信仰な歩みをしていたことの悔い改めです。そして彼は、父親にも罪を犯し、父親を悲しませていたことに気づき、悔い改めるのです。放蕩三昧した弟息子と父親との関係が、何年途絶えていたのかは分かりませんが、父親は、弟息子のことを忘れることなく、常に心配していたのです。そして父親は、まだかまだかと弟息子の帰りを待ち続けるのです。また父親は、弟息子の言葉をさえぎり、弟息子の歓迎パーティーを開こうとその準備をさせました。父親は愛すべき息子が帰って来たことが嬉しくて、すぐに喜びを爆発させるのです。
この父親の姿は、父なる神様のお姿です。神様にとって私たちは、愛すべき存在です。けれども私たちは、この神様の愛に気づかず、神様に背を向けて自由気ままに生きています。そんな私たちですが、罪を悔い改めて神様に立ち返るならば、神様は、憐れみと赦しの愛をもって私たちを喜んで迎えてくださるのです。そして天の御国は、喜びが爆発し大歓声が沸き起こるのです。憐れみと赦しの神様の愛は、今もなお罪の中に沈む一人一人に向けられているのです。
Ⅱ;神様の愛を拒否する人にも向けられている
憐れみと赦しの神様の大きな愛は、神様の愛を拒否する人にも向けられています。神様は、常に私たちへの憐れみを忘れることはありません。忘れてしまうのは、私たちです。私たちは、神様の憐れみを忘れ、背を向けてしまうことがあります。
実は、兄息子の姿は親に愛されていることを忘れ、愛を否定する者の姿を現しています。兄息子は、父親と一緒に生活しています。父親は財産を兄と弟に分けたのです。弟息子は財産を受け取ると何もかもまとめ家を出ていきました。兄息子は、財産を分け与えられた後も親と一緒に生活し、事業を一緒にしているわけですから多くの富を手にしています。後で父親が言うように、それらはすべて兄息子のものなのです。これらすべてのことは、父親が兄息子を愛するがゆえに与えていることなのです。
けれども兄息子は、この親の愛をまったく気づいていません。この兄息子の心の状態が、弟が帰ってきたことによって明らかになりました。兄息子は、弟が帰って来た時に、弟を受け入れることが出来ませんでした。それは、「自分は、あんな自己中心ではない。自分は、弟よりましな人生を歩んできたし、父親の言う事にも従って来た」という自負心からでした。しかしこの兄息子の態度もある意味で自己中心なのです(29-30)。「長年の間、私はお父さんにお仕えし(29)」という兄息子の言葉は、「自分は、これまでずっと仕えて来た、いやいやでも、自分は奴隷のようにしてお父さんに従って来た。これだけ従っているのに正当な評価をしてくれない」という皮肉を込めた言い方となっています。兄息子は、父親の愛を信頼せず、強制的に従うしかなかったという溜まりに溜まった不満を吐き捨てるのです。そして兄は、財産を無駄に使ったような弟を父親が喜んで受入れている姿に納得がいかないし、どうして正しく仕えてきた自分には何もしてくれないのかと理不尽さを訴えるのです。その意味で兄息子もまた、父の愛から離れた状態であったと言えるでしょう。
父親は、兄息子が家に入ってこないので、自分から外に出て来て、兄息子に話しかけます。そして家の財産はすべてお前のものだと愛をもって語ります。ここにも親としての愛情深さが現されています。
兄息子は、自分に与えられている子どもとしての特権に気づかず、全てを与えてくれている父親の憐れみと愛を知ろうともしませんでした。その結果、兄息子は父親と同じような愛の心を持つことがなく、自分の価値観で物事を判断し、周りを非難していくのです。この兄の姿もまた、私たちの心の一面を現しています。兄息子の姿は、愛がなく、周りを批判し、自分の正しさを主張し、人を裁いてしまう私たちの姿でもあるのです。イエス様は、すでに信仰をもって歩んでいる人に対して、あなたは、主なる神様の憐れみと赦しと愛の心を持っているだろうかと私たちに問いかけているのではないでしょうか。皆さんは、いかがでしょうか。
父親は、放蕩三昧だった弟息子も不満を抱きながら渋々仕えていた兄息子も同じように愛していました。神様は、私たち一人ひとりを愛しておられます。あなたはこの神様の愛を知っているでしょうか。
父親は、悔い改める弟息子を大きな憐れみをもって受入れ、すべてを赦しました。主なる神様は、罪を悔い改める私たち一人ひとりに対して大きな憐れみを示してくださり、私たちの罪をすべて赦してくださいます。悔い改めて主に立ち返りましょう。
私たちは、憐れみと赦しの神様の大きな愛に愛されている者として、そのような愛をもって歩んでいるでしょうか。今週の御言葉を読みましょう。「主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださる。」イザヤ書55章7節
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。私たちは、神様の愛に気づかず、神様を悲しませてしまうことの多い者です。どうかお赦しください。神様の憐れみと赦しを心から感謝いたします。私たちは、神様を信じ神様の愛に答えて、憐れみと赦しの心をもって歩みます。どうか導いてください。そして天の御国で喜びが溢れているように、私たちの心にも、私たちの人生にも神様からの喜びが満ち溢れますようにとお願い致します。
この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」