2024年7月14日(日)礼拝説教 マルコの福音書5章21ー43節 「恐れず信じる」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>
 皆は、行列の出来るお店に並んだことがありますか?小川町ではあまり行列が出来ると聞いたことがありませんが、遊園地などで乗り物に乗るために並んだことがあるかもしれませんね。テレビでも行列のできる食堂などの特集をされることがありますね。食堂でたくさんの人たちが並んでいて、なかなか前に進まない時、「早く、進まないかな?お腹すいた。」などと待ちくたびれるということがあるかもしれません。

 会堂司のヤイロは、イエス様を自分の家まで連れて行くのにとっても時間がかかってしまいました。
 ヤイロと言う人は、会堂司といってユダヤ人の会堂で神様を礼拝するための必要な働きをする人でした。ヤイロは、イエス様が自分の住んでいる町に来てくれるのを今か今かと待ちわびていました。やっとイエス様が来た時、ヤイロはすぐにイエス様のところに行って、「イエス様!すぐに我が家に来てください。12歳になる娘が大変な病気になっていて、今にも死んでしまいそうなのです。どうかイエス様の手を娘の上に置いてやってください。そうすれば娘は、治ると信じています。」と頭を地面につけるような勢いでお願いしました。

 イエス様は、すぐにヤイロと一緒に出発しました。でもイエス様を待っていたのはヤイロだけではありませんでした。一目でもイエス様を見ようとする人、イエス様に病気を治してもらいたい人、イエス様のお話を聞きたい人などが大勢イエス様のところに押し寄せて来て、道路は人でいっぱいになりました。
 例えば、「歌のお兄さんやお姉さんが保育園にやって来た」とか「大谷翔平選手が学校にやって来た」としたら、どうなっちゃうでしょうか。皆が一斉に集まって保育園や学校は大騒ぎでしょうね。イエス様も町中から集まった人たちで囲まれてしまいます。「道を開けてください。イエス様がお通りになります。」と声をかける弟子たち。「すぐにでも家に行かないとダメなのです。どうか道を開けてください。」と叫ぶヤイロです。イエス様は、押し迫る群衆をかき分けて前に進むしかありませんから、思うように歩くことが出来ません。

 そこに一人の女性がやって来ました。この人は、大変な病気で苦しんでいました。彼女は、イエス様なら自分の病気を治してくれると信じて、群衆に紛れてイエス様の洋服に触りました。すると彼女は、その瞬間に病気が治りました。イエス様もそれに気づいて、「誰が触ったのですか。今病気が治った人がいるはずです」と探し始めました。彼女は、黙ってそっと帰ろうとしましたが、黙っていられないと思いイエス様に全てを話しました。するとイエス様は、「あなたが信じたから治ったのです。安心して帰りなさい」と優しく言ってくださいました。

 どれくらいの時間がかかったでしょうか。イエス様は、なかなか前に進むことが出来ませんでした。するとヤイロの家から「娘さんは息を引き取りました」という知らせがありました。ヤイロは、「やっぱり間に合わなかったか」と悲しみのどん底に突き落とされてしまいました。するとイエス様が言われます。それが今週の御言葉です。一緒に読んでみましょう。「恐れないで、ただ信じていなさい。」マルコの福音書5章36節。イエス様は、何をしようとしているのでしょうか。
 ヤイロの家では、娘の死を悲しむ人たちが集まっていました。イエス様は、その人たちを部屋の外に出し、ヤイロと妻、そして3人の弟子をつれて娘のいる部屋に入っていきました。そしてイエス様は、娘の手を取り「少女よ。起きなさい」と力強く声をかけました。するとその子は、目を開け、生き返ったのです。ヤイロはとってもびっくりしましたが、「イエス様、ありがとうございました。」と心からの感謝をしました。

 イエス様は、病気を治す力を持っています。いつでもイエス様に祈りましょう。イエス様は、命も支配するお方です。イエス様は、僕たちの罪が赦されるために十字架にかかってくださいました。イエス様は死んで終わりではなく、よみがえってくださいました。イエス様は、イエス様を信じる人に永遠のいのち、天国に続くいのちを与えてくださいます。どんな時にも、何があってもイエス様を信じて「イエス様助けてください」とお祈りしましょう。イエス様は、皆のことを助けてくださいます。

<祈り>
 「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様は、会堂司のヤイロに『恐れないで、ただ信じていなさい。』と言われました。イエス様は、今も僕たちに『恐れないで、信じていなさい』と声をかけてくださることを感謝いたします。僕たちは、イエス様を信じます、いつもイエス様に祈ります。どうかイエス様の助けと力を与えてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「イエスはその話をそばで聞き、会堂司に言われた。『恐れないで、ただ信じていなさい。』」                  マルコの福音書5章36節

<適用>
 皆さん、バンジージャンプをしている人を見たことがあるでしょうか。テレビでは、時々タレントがバンジージャンプに挑戦をする映像が流れることがあります。スカイダイビングする人もいます。私は、その映像を見るたびに、「どうしてあんなことが出来るのだろうか」と思うのです。私は、自分の体をワイヤー一本に委ねることなど出来ませんし、パラシュートに身を委ねることも出来ません。バンジージャンプをする人は、ワイヤーが切れたらどうするのか、と考えないのでしょうか。スカイダイビングする人は、パラシュートに穴が開いていたらとか、何かの不具合でパラシュートが開かなかったらということを考えないのでしょうか。私は、どちらも無理です。そもそも私は、高所恐怖症ですので考えただけでも足がすくんでしまいます。
 バンジージャンプもパラシュートも冒険と言う分野に入るかもしれません。ほとんどの人は、チャレンジすることはない冒険でしょうか。ある人は、人生は冒険だと言うでしょう。もし人生を冒険と言うとしたら、これは、全ての人が通るべき冒険となります。では私たちは、人生と言う冒険を、何を頼りに進むのでしょうか。私たちは、自分の人生を何に委ねることが出来るのでしょうか。私たちは、イエス様を頼りに、イエス様にすべてを委ねて人生の冒険を進むことが出来ます。私たちは、恐れないで、ただイエス様を信じて歩むことが出来ます。

Ⅰ;イエス様は声を聞かれる

 「恐れないで、ただ信じていなさい」と言われるイエス様は、私たちの声に耳を傾けて聞いてくださいます。だから私たちは、主なる神様に祈ることが出来るのです。
 会堂司のヤイロは、何を恐れていたのでしょうか。ヤイロは、自分の娘が死にかけていることを恐れました。同じことを記しているルカの福音書8章42節では、「彼には12歳くらいの一人娘がいて、死にかけていたのであった。」とあります。ヤイロとしては、大切な娘であり、娘の将来に多くの希望を持っていた事でしょう。もしかしたら、娘が生甲斐であり、娘の成長を楽しみにしていたし、夢を画いていたことでしょう。その娘が、病気だったのでしょうか、大変厳しい状況にあったのです。ヤイロは、娘の命が失われてしまうかもしれないこと、自分が思い描いていた希望や夢が砕け散ってしまうのではないかという事を恐れたと考えられるでしょう。ヤイロは、死にかけている娘を妻に託し、一人イエス様のもとに急いでやって来たのです。けれどもイエス様は、町にいません。舟に乗ってガリラヤ湖の対岸に行ってしまい、いつ帰って来るのかは分かりません。皆さんは、この時のヤイロの切羽詰まった状況、彼の心境を想像することが出来るでしょうか。

 ヤイロは、首を長くしてイエス様を待ちました。マルコ5章21節は、「イエスが再び、舟で向こう岸に渡られると、・・・。すると会堂司の一人でヤイロという人が来て、」と始まります。この短い言葉の中には、ヤイロの父親としての緊急を要する気持ち、いてもたってもいられない一刻も早くイエス様にお会いしなければいけないという状況があるのです。そしてイエス様が街にやって来たときのヤイロの行動からも、彼の思いを知ることが出来ます。会堂司という役目は、ユダヤ教の会堂で行われる礼拝のプログラム、聖書の朗読箇所、説教者を決め、全体を取り仕切る大切な仕事です。ですから会堂司は、ユダヤ人の間では地位があり、人々から尊敬されていたのです。その会堂司のヤイロが、自分の立場を投げすてイエス様の前にひざまずいて、頭を地面にこすりつけるようにして懇願するのです。

 このヤイロの姿勢は、切羽詰まったという急を要する状況から来る行動だけではなく、彼の信仰の姿勢を表しています。単にイエス様のうわさを聞いて知っているというのではありませんでした。ヤイロは、イエス様のことを聞いて、信頼する信仰をもっていたのです。その信仰は、彼の言葉からも分かるのではないでしょうか。イエス様は、彼の言葉、彼の心からの願いを聞いてくださいました。
 イエス様は、今でも信仰を持って祈る私たちの言葉を無視することはせず、私たちの言葉に耳を傾けて下さるお方です。私たちは、人生に切羽詰まったとしたら祈りましょう。私たちは、恐れを抱くことがあります。その時にも私たちは、「主よ。」と祈ることが出来ます。イエス様は、私たちの信仰による祈りの声に耳を傾けて聞いてくださいます。

Ⅱ;イエス様は窮地から救われる

 「恐れないで、ただ信じていない」と言われるイエス様は、私たちを窮地から救われるお方です。イエス様たちが、ヤイロの家に向かう途中、一人の女性がイエス様に近づいて衣の裾に触りました。彼女もまた恐れを抱いていたのです。この女性は、12年間も出血が止まらないという病でした。ルカの福音書8章には、「医者たちに財産すべてを費やしたのに、だれにも治してもらえなかった(43節)」とあります。彼女は、自分の病気を治すために出来ることをすべてやりました。彼女は、治療のために医者と言う医者を転々とし、すべての財産を使い切ってしまったのです。けれども結局治りませんでした。その結果、彼女はもう治らないかもしれない、ずっと病と闘い続け苦しみながら一生を終えなければならないという恐れがあっても当然でしょう。そして出血が止まらないというのは、ユダヤの律法では、汚れた人と言われ社会的生活は許されず隔離され続けることとなります。そして隔離されるということは、人との交わりからも切り離されるという事になります。時には、自分は汚れていますと公表して自分を避けるように人々に知らせなくてはならいのです。それが一生続くことを考えると希望などどこにもありません。

 そしてもう一つの恐れは、群衆の中に紛れ込んでイエス様に近づくという恐れです。彼女は、身を隠し、誰にも気づかれないように行動していたので、相当な勇気を必要としたはずです。もし自分のしていることが知られてしまったら、どんな非難を浴びるのか計り知れないのです。彼女は、イエス様の衣に触れた時に完全に癒されました。その時恐れていたことが起きました。イエス様が、今触ったのは誰かと探し始めたのです。病が癒されたとしても、その直前までは病があり、汚れた状態だったことには変わりありません。彼女にとっては、それは黙っていたいことです。しかしイエス様は、癒しを経験した人を捜しました。

 イエス様は、誰が触ったのかは分かっていたと思います。その上であえて、名乗り出るように言われたのです。なぜならば、彼女の恐れを取り除くためです。彼女は、癒されたとしてもどのようにして社会的生活を取り戻すことが出来るのでしょうか。彼女が癒されたことを誰が、信じて受入れてくれるのでしょうか。イエス様は、彼女がイエス様の前に進み出てすべてを打ち明け、癒されたことを証しするように促しました。そしてイエス様は、群衆の真ん中で彼女が癒されたことを保証されました。それはまた、彼女がきよめられたことを宣言することとなったのです。この事は、彼女のこれからの生活を大いに助けることとなったのではないでしょうか。
 イエス様が衣に触った人を捜したもう一つの理由は、イエス様が人を窮地から救われるのは、信仰によることを明らかに教えるためです。イエス様は、「あなたの信仰があなたを救ったのです。(マルコ5:34)」と言われました。彼女は、イエス様の衣に触ったから癒されたのではありません。「衣にでも触れれば、私は救われる(癒される)」と信じていたからなのです。この彼女の信仰が大切でした。イエス様のみわざを信じる彼女の信仰が、彼女を癒しました。そしてこのイエス様への信仰が、彼女を全ての窮地から救ったのです。

 私の知り合いで、人生のどん底と思えるような、窮地と思えるような状況になった人がいます。彼は、信仰をもって歩んでいましたが、その信仰が様々な誘惑や試練によって揺り動かされ、弱ってしまいました。そして何をしても上手くいかず、教会からも離れてしまいました。私は、その状況の時、数回ほど彼と会って話をしました。彼は、人生投げやりになり、聖書の話をしても馬耳東風という感じでした。そんな彼が、神様を信じることを再スタートしました。それは小さな信仰の一歩でした。でも小さな一歩の連続が心に力を与え、彼は神様による心の癒しを経験し、信仰が回復しました。
 私たちは、心が落ち込み、全てが上手くいかないと思えることがあるでしょう。また、人生が自分の思い描くようなことにならず、八方塞がりの状態になることもあるでしょうか。健康的な試みにあうこともあるでしょう。その時、私たちに力がなくてもイエス様には力があります。イエス様には、私たちを窮地から救う力があるのです。イエス様は、癒された女性に「安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」と言ってくださいました。イエス様は、私たちの人生に、私たちの心に、安心を与えて下さり、健やかでいなさいと祝福の御手を伸ばしてくださいます。

Ⅲ;イエス様は永遠の命を与えられる

 「恐れないで、ただ信じていなさい」と言われるイエス様は、私たちに永遠のいのちを与えてくださいます。
 イエス様が女性に時間を取っている間に、ヤイロの娘は息を引き取りました。ヤイロは、その知らせを受けた時どれほどショックだったでしょうか。ヤイロにとって全てだった娘が死んでしまったのです。ヤイロの夢も希望も打ち砕かれ、ヤイロの人生の支えが失われてしまった瞬間でした。しかしイエス様は、ヤイロに「恐れないで、ただ信じていなさい」と言われました。これは「信じ続けなさい」ということです。ヤイロは、イエス様を信じ続けました。イエス様は、ヤイロの娘を生き返らせました。イエス様は、創造主なる神として造られたすべてを支配しているだけでなく、病も命をも支配しておられます。イエス様に不可能な事はありません。

 ヤイロは、死が終わりであり、絶望でしかないという現実を前に恐れていました。人は、死に向かって生きています。そこにどんな希望を見出すことが出来るのでしょうか。イエス様の復活は、絶望と思える死に対して答えを与えています。イエス様は、私たちを罪から救うために十字架にかかり、死んでくださいました。罪から来る報酬は死、神の裁きです(ローマ6:23)。イエス様は、私たちの代わりに罪に対する神様の裁きを受けてくださったのです。それが十字架の死です。しかしイエス様は、人は死で終わるのではなく、罪の赦しがあり、永遠のいのちがあることを明らかにするために三日目によみがえられました。イエス様の十字架の死と復活によって、私たちは罪の赦しと永遠のいのちの約束、天の御国への希望を与えられるのです。

 ですから私たちは、恐れることなくイエス様を信じて全てを委ねて生きることが出来ます。私たちは、たった一度の人生という冒険を何も持たずに、迷いつつ恐れつつ、生きるのではありません。私たちは、「恐れないで、ただ信じていなさい」「安心して、苦しむことなく、健やかでいなさい」と言ってくださるイエス様によって生きることが出来るのです。
 今もし、恐れを抱くことがあるならば、イエス様に祈り打ち明けましょう。イエス様は、私たちの声に耳を傾けてくださいます。今もし、人生の窮地と感じることや将来への不安を抱えている人がいるならば、イエス様に委ねましょう。イエス様は、「恐れることない」「安心していきなさい」と私たちの手を取って窮地から救ってくださいます。そしてイエス様は、信じる全ての人に罪の赦しを与え、永遠のいのち、天の御国に続くいのちを与えてくださいます。私たちは、イエス様を信じ続け、信仰をもって歩みましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。私たちは、生きている中で恐れを抱き、この先どうなってしまうのか不安になり、時には窮地に追い込まれるということがあります。そのような時にも私たちには、イエス様がいてくださいますから感謝します。いつでもイエス様が、私たちの祈りを聞き、力強い御手で導いてくださることを信じます。そしてイエス様の救いと永遠のいのちを信じます。イエス様には不可能なことはないと信じます。
 神様、一人ひとりの今週の歩みを導いてくださり、すべての必要を満たしてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」