2024年7月21日(日)礼拝説教 ヨハネの福音書6章1-15節 「永遠のいのちに至る」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>
 皆は、学校の給食でどんなメニューが好きですか?みんなのクラスでは、何が一番人気のメニューでしょうか?お友だちと食べる給食は楽しいですよね。遠足や運動会の時に食べるお弁当の時間も嬉しい時間ですよね。
 イエス様も周りに集まっていた人たちもある時、皆で食事をしたことがありました。でもそれは、とっても不思議な出来事でした。イエス様が行かれるとこには、いつもたくさんの人たちが集まっていました。ある時イエス様が、お弟子さんたちと山に登り座っているとそこにたくさんの人たちが集まって来ました。イエス様に病気を治してもらったり、イエス様のお話を聞くためです。

 夕方になっても多くの人が、イエス様の周りに集まっていました。イエス様は、弟子のピリポに言いました。「ピリポ、この人たちのためにどこからパンを買って来て、食べさせたら良いだろうか?」イエス様に聞かれたピリポは、ビックリです。「えっ!イエス様本気ですか?こんなに大勢の人の分を買えるほど余裕はありません。無理です。」とピリポはすぐに計算して持っているお金では無理と判断しました。なんとその場には、男の人だけでも5,000人もいたのです。全員では10,000人近くになっていたでしょうか。
 この話を聞いていたほかの弟子たちも「いやー、無理でしょう。」と答えたことでしょう。でも弟子のひとりアンデレは、群衆の中を探し、一人の少年を見つけました。少年は、パン5つと魚(焼いた魚)2匹を持っていたのです。少年の夕ご飯だったのでしょうか。少年は、自分の持っているすべてをイエス様の必要のために差し出しました。でもアンデレは、「5つのパンと2匹の魚では足りないし、意味がないですよね。」と諦めモードです。

 イエス様は、少年の差し出した5つのパンと2匹の魚を喜んで受け取ってくれました。そしてイエス様は、「さあ、食事をしよう。人々を座らせなさい。」と言いました。イエス様は、差し出された5つのパンを取って神様に感謝の祈りをして分け始めます。魚も同じように感謝の祈りをして分けます。するとどうでしょうか、分けても、分けてもパンも魚もなくなりません。不思議なことに増え続けていくのです。こうしてその場にいた全員がお腹いっぱい食事をとることが出来ました。イエス様は、「余ったものを無駄にしないように、集めなさい。」と言われました。弟子たちが集めてみたら、なんと12のかごがいっぱいになるほど余ったのです。
 これは、イエス様の奇跡の力です。その場にいた人たちは、「イエス様がいれば、食べるものに困ることなく、なに不自由なく生きているね。イエス様こそ、ユダヤ人の王様になるべきだ。」と言ってイエス様を王様にしようとしました。イエス様は、すぐに人々から離れていきました。そしてイエス様は、「皆は、パンを食べてお腹いっぱいになったから喜んでいるのでしょう。皆が食べるパンや魚はなくなってしまうものです。大切なことは、決してなくならない、永遠のいのちを与えるパンを求めることです。」と、大切なことを教えてくださいました。

 イエス様は、皆を罪から救い、永遠のいのちを与えてくださる救い主です。イエス様は、永遠のいのちのパンを食べなさいと言われたのです。永遠のいのちのパンを食べると言うことは、イエス様を救い主と信じることです。聖書の言葉を読んで、心に蓄えることです。そしてお祈りをすることです。僕たちは、日曜日だけではなく毎日、聖書を読み、祈り、神様から力をいただきましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様は、僕たちの罪を赦し、永遠のいのちを与えてくださる救い主です。僕たちはイエス様を信じます。僕たちの心を神様の言葉で満たし、導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「イエスは言われた。『わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。』」                  ヨハネの福音書6章35節

<適用>
 私が英語を勉強したのは中学生になってからです。その時最初に覚えるのは、「This is a pen.(これはペンです)」でした。何回も繰り返して覚えましたが、私は、外国の方々との会話で「これはペンです」を使った記憶がありません。それよりも「I am Yuji Akamatsu(私は赤松勇二です)」という自己紹介の方を多く使っているような気がします。今では小学生から英語の授業が取り入れられていて、この自己紹介を学んでいます。
 聖書では神様がご自分について語っている箇所があります(出エジ3:14「わたしはある」)。そしてヨハネの福音書には、「エゴー エイミー(わたしは・・・・です。)」というイエス様の自己紹介が書かれています。今日は、そのうちの一つ「わたしがいのちのパンです。」の御言葉を中心に学びましょう。

Ⅰ;決して飢えず、渇かない

 永遠のいのちに至る道があります。それはイエス様ご自身です。イエス様は、「わたしがいのちのパンです」と言われました(35)。イエス様のもとに行く時、私たちの心は飢えることも渇くこともありません。私たちは毎日肉体に必要な食物を食べ、健康を維持するための栄養を摂取しなければ生きていけません。栄養が偏ると健康のバランスまで崩れてくるのです。だから好き嫌いなく食べることが大切だと言われるのでしょう。人によっては、栄養補助食品などで満遍なく摂取するようです。けれどもどんなに沢山食べても、またお腹がすいてくるものです。人は、肉体の健康のために、「食物」について沢山の時間を費やします。それに比べて私たちは、霊的な心の健康のためにはあまり時間を使っていないのではないでしょうか。その必要性にも気付いていなかもしれません。けれども多くの場合、心が荒れ果て、飢え渇き、霊的に不健康になっているので精神的にも肉体的にも問題を抱えてしまうのです。まさに現代は、心の病そのものではないでしょうか。

 今世界の幾つかの国々は、飢餓状態にあります。この食糧の飢餓については、多くの国々が協力して援助しようとしています。同時に世界中が今、心の飢餓状態にあります。多くの人々が、愛に飢え渇き、喜びがなく、人生の拠り所を見出すことが出来ないのです。その心の穴埋めをするかのように人々は、病的に沢山の娯楽に走り、罪の虜になっています。また、ある人々は様々なこの世の教えに振り回されて、身も心も疲れ果ててしまっています。数年前、ある刑務所から一人の受刑囚が脱獄したという事件がありました。その人が捕まってから脱獄した理由が報道されました。その人が脱獄した理由は、逃げたかったからではなく、「刑務所内の人間関係に疲れたから」でした。そこにも、やはり心の飢え渇きが影響しているということではないでしょうか。私たちは、心の飢え渇きをこの世の何によっても補うことが出来ない状況を見ています。

 イエス様は、何と言ってくださっているでしょうか。イエス様は、「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。(35)」と言っておられます。イエス様は、私たちに永遠のいのちを与えてくださる、いのちのパンです。イエス様は、私たちの心を完全に満たすことが出来るのです。私たちがイエス様のもとに行く時に、私たちの心は常に満たされ潤されるのです。どんなに荒れ果てた砂漠のような心でも、イエス様はいのちを与え、オアシスとなって潤し、平安を与えてくださいます。心が砂漠のように渇ききっているなら、イエス様のもとに行きましょう。心に活力が足りないと感じるならイエス様のもとにいきましょう。イエス様はいのちのパンです。

Ⅱ;信じる者を決して捨てない

 永遠のいのちに至る道、それはイエス様です。いのちのパンであるイエス様のもとで初めて私たちは、安定した心の安らぎを得ることが出来ます。なぜなら、イエス様を信じる者をイエス様は、決して見捨てることはしないからです。ヨハネ6章37節でイエス様は、「父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。」と言ってくださいました。この37節の最後の部分を新改訳聖書第三版では、「わたしは決して捨てません。」と訳されていました。「聖書新改訳2017」では、「決して外に追い出さない」と訳されています。第三版と新改訳2017の両方から理解すると良いと思います。イエス様は、私たちを決して捨てないし、イエス様の恵みから私たちは追い出されることはないのです。私たちがどんなに孤独感に襲われても、イエス様は決して私たちを見離すことはしないのです。ある聖書は、37節を「私のところに来る者を私は決して退けない(ひとりも絶対に拒否することはない)」(詳訳聖書)と訳しています。このイエス様の言葉は、何と力強い言葉でしょうか。皆さんは、この「決して捨てない」「決して一人にはしない」「追い出さない」と言うイエス様の約束を体験しているでしょうか。イエス様が、そう言われるからには、確かなことなのです。

 もしかしたら、私たちは、人生の様々な出来事の中で、「いったい神様はどこにおられるのだろうか。自分は神様から見捨てられてしまったのではないか」と感じることがあるかもしれません。フィリップ・ヤンシーという人が「痛むとき、神はどこにいるのか」と言う本を書きました。その中でヤンシーは、大変な苦労をした人の言葉を紹介しています。「私は人生は理不尽だと学んだ。自分、妻、娘に起こった事、これはあまりに理不尽だ。でも神は神であり、人生は何が起こるかわからないものだ。私は、神と人生を混同しないようにしているんだ。人生は不公平で理不尽だけど、神は不公平で理不尽な方ではないと信じている。・・・私が涙するとき、神も涙していることを確信しているんだよ。そして神はそのようなお方であることも。(痛むとき、神はそこにいるのか12㌻)」

 私たちは様々なことを経験しますが、神様は神様で変わることなく私たちを導いておられるのです。そしてヤンシーは、友人の言葉を受けてこう述べています。「拡大鏡の中心は、とても鮮明に文字がみえます。けれども、レンズの周りに映る文字は、全部ぼやけます。私はその時、自分の信仰は今まで、この周りのぼやけて見えるところだけに目を向けていたのではないかと思いました。神に向かって、答えのわかるはずがない質問をしていたのではないだろうか、と。そのようなとき、私たちの信仰の中心であるイエス様に焦点を合わせる必要があるのです。(同14㌻)」

 皆さん、私たちは、あまりにも自分の経験していることが大きすぎて、イエス様の臨在が分からなくなること、自分ひとりで一生懸命生きていると思ってしまうことがあります。そのような時、私たちは自分の身の回りに(問題に)目を向け、色々考えます。しかしその視点は、レンズの中心が外れてしまい、ぼやけた部分を懸命に見ようとしているのではないでしょうか。ヤンシーは、自分が経験している物事の中心を見るべきだと言います。イエス様は、私たちが経験する様々な物事の中心に確かにいて下さり、私たちと共にいて、私たちを見捨てることはないのです。イエス様は、私たちに「わたしのもとに来る者を、わたしは決して追い出したりしない(37)」と約束してくださっています。

 それだけではなく、イエス様は、信じるすべての人を終わりの日によみがえらせてくださると約束をしてくださいました(40)。何という慰めでしょうか。イエス様は、父なる神の御心を行うために来たと言われます。その御心とは、イエス様の救いを信じる人に永遠のいのちを与えることなのです(38‐39)。この約束があるので、私たちは、どんなときにも主の慰めを祈り求めることが出来ます。そしてイエス様によって飢えず、渇かず平安を与えられている人は、天の御国への確かな希望をもって歩むことが出来るのです。

 私は、学院を卒業し伝道師として奉仕していた栃木教会の当時の主管牧師であった、中村京子先生のお姿を忘れることがありません。中村京子先生は、末期のすい臓がんでした。それが分かったのは、先生が牧師を辞めてからであり、主治医からは、数か月であると言われていました。余命宣告を受けていた中村京子先生、お見舞いに行くたびに痩せていく先生でした。でも私がお見舞いに行くと中村京子先生は、いつも笑顔で迎えてくれました。そして先生は、お見舞いに来る人たちを励まし、力づけていたのです。中村京子先生曰く「神様のもとに行くから大丈夫。」と言うことでした。先生は、イエス様を信じ、決して追い出すことをせず、天の御国に迎えいれてくださるイエス様の約束を確信しておられたので常に平安があったのです。
 私は、この確信は、素晴らしいと思いました。イエス様は、確かに約束してくださったのです。この約束を胸に信仰をもって主を見上げてまいりましょう。私たちは、イエス様に見離されるということは決してありません。イエス様こそ、永遠のいのちに至る道です。

Ⅲ;イエス様を信じよう

 イエス様は、永遠のいのちに至る道です。イエス様のもとに来る人の心は飢えることなく渇くことがありません。そしてイエス様は、私たちを決して捨てることはありません。イエス様は、私たちの心を潤し満たしてくださるのです。そしてイエス様は、決して追い出すことをせず、永遠のいのちを与えてくださるのです。この約束をしっかりと受け取るために必要なことは、何か、それは「信じること」です。

 群衆は、永遠のいのちに至る食物を得るために何をすべきかとイエス様に質問しました(27)。その時にイエス様は、「わたしを信じる」ことだと言われたのです。イエス様は、神のわざを行うのであれば、「わたしを信じること」だと言われました(29)。
 群衆は、永遠のいのちを得るために何かをしなければいけないと考えたのです。彼らは、自分の力や努力、修行などで手に入れられると考えました。人々は、「自分は永遠のいのちを手に入れるほどすごい人間なんだ」と誇りたいだけなのです。でも私たちが罪の赦しを受けて、永遠のいのちを得るためには、人の努力など必要ありませんし、知恵を用いることも必要ありません。必要なことは、「イエス様を信じる」ことだけです。これは、単純ですけれども、非常に難しいことだと思います。なぜならば、イエス様を信じるということは、私たちの持っている基準や価値観を手放して、神様の救いのみわざを信じ、信頼することだからです。

 私たちは、イエス様を救い主と信じ告白することを遅らせてはいないでしょうか。または、私たちは、私たちの経験する様々な事柄をイエス様に委ね、イエス様を信頼することを止めてしまうということはないでしょうか。私たちは、イエス様を救い主と信じたその瞬間、本当に素晴らしい約束の中を歩むことになります。その約束とは、イエス様によって、私たちの心が決して飢えず渇かないという約束です。そしてイエス様は、私たちを決して見捨てず、恵みの外に追い出すことはないという約束です。さらには、イエス様を信じる時、私たちは、罪を赦され、永遠のいのちを与えていただき、復活の希望、天の御国への希望が与えられるという約束です。

 イエス様は言われました。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。(35)」「わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。(37)」この救いの約束を信じましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様はいのちのパンであり、私たちに救いを与え、恵みを与え、永遠のいのちを与えてくださるお方です。私たちは、イエス様を信じる者が決して飢えず、渇くことがないと信じます。イエス様が、私たちを決して見放さず、恵みの外に追い出さないと約束してくださっていることを感謝します。今、神様が一人一人の心に触れてくださり、イエス様を信じる信仰を豊かにお与えください。
 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」