2024年7月28日(日)礼拝説教 マタイの福音書14章22-33節 「イエスを見つめて歩む」 説教者:赤松由里子師

<子どもたちへ>
 今日もイエス様の不思議な力のお話をします。ここはガリラヤ湖という湖の上です。舟の中にはお弟子さんたちがいて、湖の向こう岸にいこうとしています。でもイエス様は乗っていません。イエス様は弟子たちと別れて、一人で山へお祈りに行っていたのです。

 ギーコ、ギーコと舟をこぐ音がひびいていました。すると、ビューっ!と強い風が吹いてきました。「おいおい、なんてひどい風だ。ちっとも前に進まないじゃないか!」お弟子さんたちは大弱り。夕方から湖に出たまま、なんと夜中を過ぎて次の日の明け方になってしまいました。それでも風はやみません。
 するとその時です。「お、おい。なんか見えるぞ?あれは何だ?」遠くに水の上を歩く人の姿が見えます。「ゆ、幽霊だあ~!こっちに来るぞお!」弟子たちは怖くなって悲鳴を上げました。すると、その人影が話しかけました。「しっかりしなさい。私だ。恐れることはない。」ん…?誰でしょう?聞きなれたこの声は…そう、イエス様です。イエス様が水の上を歩いてやって来られたのです。

 弟子たちはあっけにとられて何も言えませんでした。ペテロだけがこう言いました。「イエス様、本当にあなたなら、私にも『水の上を歩いてここまでおいで』と言って下さい!」面白いことを言う人ですね。
 イエス様はにっこりして、「来なさい」とペテロに言って下さいました。ペテロは舟を出て、イエス様のことを見ながら歩き出しました。「おお、水の上を歩いているぞ!」自分でもびっくりしていると、ビューっと強い風が吹いて、波しぶきがバシャーンとかかりました。風や波を見たとたん、ペテロはこわくなりました。するとどうでしょう、足がズブズブと水に沈み始めたではありませんか。「イエス様、助けて下さい!」ペテロが叫ぶと、イエス様は手を伸ばしてペテロの手をつかみ、助けて下さいました。「信仰の薄い人だな。どうして疑ったのか?」そういうとペテロと一緒に舟に乗り込みました。さっきまでの強風は、うそのように静かになりました。弟子たちは、イエス様の前にひれふしてこう言ったとあります。「あなたは確かに神の子です」。

 皆さん、イエス様は不思議な力を持っておられますね。水の上を歩く力、ペテロに水の上を歩かせてあげる力、強い風を静まらせる力。どれも神様としての力です。ペテロさんは、力あるイエス様から目を離さないでいた時は大丈夫でした。でも問題に気をとられて信じることを忘れると、沈みかけました。今日のみことばを読みましょう。「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(へブル12章2節)。イエス様のことをいつも思い出して、信じることが大切です。
 私たちにも、急な強風のように困ったこと、つらいことが起きてくることがあります。その時このみことばと今日のお話を思い出して下さい。たとえ小さな信仰であったとしても、イエス様は私たちを助けて下さいます。

<祈り>
「天の父なる神様。いつも私たちを守って下さってありがとうございます。水の上を歩くという不思議な力のあるイエス様が、私たちを強くし助けて下さることを感謝します。困りごとや悩みだけを見てしまうのでなく、イエス様のことを思い出し信じて行きたいです。私たちの信仰は小さいかもしれませんが、私たちを守って下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」

「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」
                                ヘブル人への手紙12章2節

<適用>
 パリ・オリンピックが開幕しました。私は興味の持てる競技だけを、部分的に見させてもらおうかと思っています。冬の競技の話で恐縮ですが、私はフィギュアスケートが好きでした。その芸術的な要素が好きなのですが、ジャンプの技術も得点では大事なようです。近年では男子なら4回転は当たり前、4回転半あるいは5回転に挑むようになりました。ある選手のインタビューで、ジャンプをして目が回りませんか?という質問がありました。すると、「1か所に視線を合わせていると目が回らないんです」と答えていました。あれだけ回りながらどこに視線をおいているのか不思議ですが、意識に芯を持つ、ということはスポーツでも大切だということなのかもしれません。
 さて、今日の箇所はペテロの水上歩行も印象的な物語です。このエピソード自体はなくてもお話が通じるものですが、あえてここに記されたことに意味があるように思います。そこでクローズアップされるのは、イエスを見つめて歩む、ということです。信仰の芯であるイエス様に私たちの視線は向いているでしょうか。イエスを見つめて歩むということを、2つの点から共に学んで参りましょう。

1.神の御力を知る

 第一に、イエス様を見つめて歩むとは、イエス様の神としての御力を学びつつ歩む、ということです。
 この時の弟子たちは、5つのパンと2匹の魚の奇跡を体験したばかりでした。「人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、十二のかごがいっぱいになった。食べた者は、女と子供を除いて男五千人ほどであった」(14:20,21)。ヨハネの福音書を見ると、この時人々はイエス様を王にしようとした、と書かれています。しかしイエス様は「それからすぐに…弟子たちを舟に乗りこませ」ました(14:22)。新改訳聖書の第三版はここを、「強いて舟に乗りこませ」と訳しています。この世的な王とする動きに巻き込まれることを、防ぎたかったのかもしれません。また、マルコはこの出来事を次のように語っています。「彼らはパンのことを理解せず、その心が頑なになっていたからである」(マルコ6:52)。
 つまり、神としての奇跡をまざまざと見せて頂いたのに、それだけでは弟子たちの信仰は成長しなかった、というのです。これは私たちに、大切なことを教えています。私たちは、主ご自身とその御力を、学び続けなければなりません。

 ガリラヤ湖は海抜マイナス213mで、世界で最も海抜の低い死海に次いで低い位置の湖だそうです。地形的に高地に挟まれた形のため、しばしば強烈な風がふきつけることがあるといいます。弟子たちの何名かはこのガリラヤ湖の漁師でしたから、強風は経験済みだったでしょう。ガリラヤ湖の横断は、通常2~3時間で可能だそうです。しかしこの時は、おそらく10時間近く立ち往生していました。主に導かれたはずなのに、何故こんなことになるのだろう?そう思ったかもしれません。そしてこういうことが、私たちにもしばしば起こります。神様はいじわるだ、神様が間違っているのだ、と考えるでしょうか。いいえ、これは神様からの訓練と言えます。彼らはイエス様が、その力ある御手を自分たちのために差し出して下さることを知らなければならなかったのです。

 イエス様ご自身が、嵐に難儀する弟子たちの元に来て下さいました。けれど彼らはイエス様を見て喜んだでしょうか?いいえ、恐れた、というのです(26節)。私たちの弱さがここにあるように思います。イエス様が来て下さるのに恐れを感じるとしたら、それはイエス様を十分に知らないからなのかもしれません。不信仰をさばく方、失敗を赦さない方、私たちから遠く立って腕組みしている方…そんなイエス様理解は私たちに恐れしか与えないのです。
 イエス様は言われました。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」(27節)。この「わたしだ」と言う言葉は「エゴ―エイミ」というギリシャ語が用いられています。神ご自身を示す時に用いられる言葉であると言われています。旧約聖書をギリシャ語に訳した古代アレキサンドリアの70人訳聖書でも、神の御名を示す時に「エゴ―エイミ」が使われています。つまりイエス様は、神としての自分があなたがたと共にいるのだ、だから恐れるな、とおっしゃっているのです。あなた方を守るのはわたしなのだ、というメッセージです。

 主は訓練の嵐の中にも共にいて下さるお方です。私たちの傍らに愛をもって近づいて下さり、神としての力をもって助けを与えて下さる主を、更に知るようみことばに学び続けましょう。

2.イエスへの信仰を働かせる

 第二に覚えたいことは、イエス様への信仰を働かせ続けて歩む、ということです。
 ペテロが水上歩行に挑戦した、というのは何とも彼らしいですが、この話がなくてもイエス様の御力は伝わります。実際、マルコの福音書ではペテロのエピソードは記されず、ただ水上を歩いて来られ御言葉とともに舟に乗りこまれたイエス様のことが語られるだけです。ここでペテロの姿から学べることがあります。私たちはイエス様に心の目をしっかり向けて信仰を働かせなければ、歩みのおぼつかないものである、ということです。それは、意志を働かせて、「主イエスに信頼するのだ」と魂に言い聞かせて歩む、と言うことでもあります。

 勇二先生と車に乗っているとき、大変驚いたことがありました。それは、高速道路の運転中にも関わらず、会話をしている人の方を見て話してくれることです。一瞬ではありますが、運転中に真横を向いて話すのですから、怖いのです。私だけでなく主人の妹も同じことを言っていましたので、前からの癖だったのでしょう。「こっちを見てくれなくても大丈夫だから、前を見て下さいね」と何度も声をかけてきました。さて、癖は抜けたでしょうか?

 私たちは、同時に二つのものを見ることは出来ません。目にぼんやり映るだけなら複数のものが見えますが、集中して見ることが出来るのは一つだけです。私たちの心も同じです。神様のことばよりも人のことば、自分の心の声の方が大きく響いていることはないでしょうか。そして、否定的な声に、足を取られそうになってはいないでしょうか。主のお言葉にのみ、心の目と耳を向けましょう。「主は全能にして愛なるお方だ」と心に語りかけ、主イエス様だけをみつめましょう。イエス様への信仰によって、強くして頂きましょう。

 また、もう一つ大切なことがあります。イエス様が舟に乗りこまれた時、風はやみました。これは、弟子たちに平安が必要であることに、イエス様がご配慮下さったのだと思わされるのです。ご自分のためには奇跡をなさらないイエス様が、弟子たちのためには自然をも従わせました。イエス様が来てくだささるならば、嵐はやみます。平安を与えることをイエス様が良しとしておられるからです。この愛のお方を人生の舟にお迎えすることが、私たちにはどうしても必要です。ペテロのように「主よ、助けて下さい」と申し上げることがゆるされています。「信仰の薄いもの」であったペテロも、主は助けて下さいました。今ある信仰で良いのです。イエス様を人生にお迎えしましょう。そして弟子たちのように「まことに、あなたは神の子です」(14:33)、と信仰を告白しようではありませんか。

<祈り>
「天の父なる神様、あなたを礼拝する民に加えて下さったことを感謝いたします。信仰生活を送る中でも、逆境や嵐の訓練を経験することがございます。そんな時助けを下さる主を、信仰をもって待ち望むことを教えられました。力と愛に富む主を更に深く知っていくことが出来ますよう、お導き下さい。また、信仰を働かせて、イエス様ご自身とそのみことばから目を離さず歩みたく願います。弱いものですが、助けて下さり、平安の中へと私たちを導いて下さい。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。」