2024年8月11日(日)礼拝説教 出エジプト記2章1-10節 「苦難の時にも」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>
 皆は、自分が生まれた時のことをお父さんやお母さんから聞いたことがありますか。どの病院かな? 何月何日の何時ごろだろうか?(午前?午後?夜中?)、生まれて来るのにどれくらいの時間がかかったのでしょうか?僕の知っている人は、病院の人に自分の家に来てもられって、家で出産をしました。しかも家の中にプールを作って水を張ってその中で出産したそうです。皆は、生まれてからどんなことがあったのでしょうか?お父さんとお母さんは、どんな風に皆のことを見ていたのでしょうか?
 聖書の中に「モーセ」と言う人が出てきます。神様のお仕事をするようになった人ですが、そのモーセの生まれた時のことが聖書に書かれていますので、一緒に見ていきましょう。

 皆は、6月の礼拝と教会学校でヨセフのことを学びました。覚えていますか?アブラハムの子どもはイサクでした。イサクの子どもには、ヤコブとエサウがいました。ヨセフは、ヤコブの子どもの一人でした。このヨセフが、兄弟たちの妬みからエジプトに奴隷として売り飛ばされることとになったのでしたね。ヨセフは、エジプトで大変苦労しましたけれども、神様が一緒にいて助けてくださったので成功する人となって、エジプトの総理大臣にまでなりました。食べ物が何も取れなくなった時に、ヨセフがエジプトをはじめ周辺の地域を助けたのです。そのような中でヨセフは、兄弟たちと再会し、お父さんのヤコブや家族全員70人をエジプトに呼び寄せて暮らすことになりました。それから400年の間70人だったヤコブの家族は、エジプトで増えていきました。その数60万人以上です。

 イスラエルの人たちが増え広がって困ったのが、エジプトです。エジプトを助けたヨセフのことを知らない時代になってエジプトの王様は、外国人であるイスラエルの人たちに大変な作業を与えて苦しめることにしました。それでもイスラエル人が増えていくので、エジプトの王様は、重労働だけではなく、生まれてくる男の子を殺さなければならないという恐ろしい命令を出しました。出産を助ける助産師たちは、「エジプトの王様が出した命令を守ることは出来ない。主なる神様が与えてくださった命を守らなくてはいけない」と生まれてくる赤ちゃんを守りました。すごいことですよね。そこでさらに怒ったエジプトの王様は、「生まれて来る男の子はナイル川に捨てなさい」という命令まで出すようになってしまいました。

 そんな命令が出された中で誕生したのがモーセです。モーセの両親は、「子どもが生まれてくるまでは、男の子か女の子か分からない。けれども、生まれた子が男の子だとしても守ろう。」と話し合い、神様に祈ったことでしょう。生まれて来た子どもは、何と男の子でした。ナイル川に捨てなければなりません。しかし両親は、「この子を隠そう」と決意して守ります。両親は神様を信じていて、生まれた子をナイル川に捨てることは、神様の喜ばれることではないと知っていたのです。両親は、3か月間その子を隠しましたが、もう隠しきれなくなって、「川の中に捨てることは出来ない、水に沈まないかごを作って、流すことにしよう」と決めました。するとそこ子のお姉さんが、「私が見守ります」と言ってかごを見張ってくれまいた。どうなるのでしょうか。

 ちょうどそこに、エジプトの王様の娘(王女)がナイル川に水浴びに来ました。王女様は、赤ちゃんの泣き声がしているかごを見つけました。開けて見るとなんと男の子がいるのです。王女は、「かわいそうに、イスラエル人の子どもね。私が引き取って育てましょう。名前は、モーセとしましょう。」とすぐに決めました。そこにその子のお姉さんがやって来て、「私が、この子に乳を飲ませて育てることが出来る女の人を連れてきます」と申し出ます。こうしてこの子の母親は、王女様に代わって、自分の子どもをしばらく育てることが出来るようになったのです。これがモーセの誕生の時の出来事です。

 モーセが誕生して生きるためには、多くの人の助けがあり、何と言っても神様の守りと助けと導きがありました。皆が生まれてきて、成長し生きているのは、偶然ではありません。みんなの両親がいて、周りの人の助けがあり、何よりも神様が、いつも皆と一緒にいて、守り、助け、力になってくれているのです。赤ちゃんモーセを守ってくださった神様は、今も皆と一緒にいてくれます。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様は、モーセを守り支えてくださいました。今も神様は、僕たち一人ひとりと一緒にいてくれて、守ってくださることを感謝します。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「苦難の日に わたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出し あなたはわたしをあがめる。」                     詩篇50篇15節

<適用>
 私が、中学3年生の時のことです。学校では毎年マラソン大会が行われました。距離は、5.7㎞で、高低差100Mはあるだろう市内の道を走りました。私は、何とか走り切ることが出来るように練習を積み重ねました。マラソン大会当日、仲の良い友だちと、一緒に走ろう、そして一緒にゴールしようと約束をして走り始めました。途中で私は、疲れてしまいスピードを落とすことにしました。友だちはそのまま走れそうだったので、私は、「お前のほうが速いから先に行っていいよ。先にゴールしてくれ」とお願いしました。友だちは、じゃあゴールで会おうと言って勢いよく走っていきました。私は、途中で歩いたりして、自分のペースで進みましした。ゴールまで数百メートルまで来た時のことです。「赤松」と声をかける人がいました。一緒に走っていた友達です。私は、「あー良かったゴールしたんだ」と言ったら、「いや、まだだよ。赤松を待ってた。だって約束したじゃん」と言うのです。私は、疲れ切った体を奮い立たせて、彼と一緒にゴール目指して走りました。苦しい時に一緒に走ろうと言ってくれる友だちは、本当にありがたいものです。
 神様は、エジプトの国で苦しい状況になっているイスラエルの民を見捨てることはなさいませんでした。神様は、苦難の時にも、私たちを見ていてくださいます。

Ⅰ;神は手を差し伸べる

 神様は、苦難の時にも御手を指し伸ばして、守りを与えてくださいます。
 出エジプト1章8節で「ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった」とあります。これは、新しい王朝が誕生し、イスラエル人たちに対して敵対心のある王が誕生したことを意味します。このエジプトの王についてこれまでの翻訳では、「パロ」と言われますが、「新改訳2017」では、一般的に使われている呼び名「ファラオ」が使われています。ファラオは、イスラエル人たちを奴隷とし、彼らに重労働を課すこととしました。その理由は、増え続けるイスラエルの民が戦争の時に敵側について、エジプト国内で反乱を起こすことがないようにするためです。重労働を課すのは、人々に考える時間を与えず、反対運動を起こす気力をも失わせるためだと思います。ファラオは、イスラエルに重労働を与えるだけではなく、男の子が生まれたらすぐに殺すように命令を出すのです。ファラオは、イスラエル人を民族として消滅させようとしました。

 大きな国、強い民族が弱い国、弱い民族を占領・支配し、人権を奪うのは、いつの時代でも変わることはありません。そして国は国に、民族は民族に敵対することも、謀反を恐れて先手を打って攻撃することも出エジプトの時代でも現代でも変わることはありません。第二次世界大戦が終わり、日本が敗戦してから79年が過ぎます。日本に原子爆弾が落とされ、壊滅的な被害をもたらした戦争から79年、二度と同じようなことが起きないようにと願われた79年です。けれども、人は、世界は、また同じことを繰り返すかのように戦争を、武力衝突を繰り返しています。私たちは、今こそ神様の平和がこの地に満ち溢れるように祈り求めましょう。そしてこの平和は、国と国という大きな世界だけではなく、個人対個人という私たちの身の回りで形となるべきものです。私たちが、神様の平和を実現する一人ひとりとなりましょう。そのために神様から、愛と知恵をいただきましょう。神様は、私たちの人生の中で御手を指し伸ばしてくださいます。

 さて、エジプトの国で苦境に立たされたイスラエルの民の中にあっても神様は、御手を指し伸ばしてくださいました。神様の御手に支えられて大きな役目を果たしたのは、助産婦(助産師)たちでした。二人の名前が出ているのは、この二人が助産婦たちの代表だったからでしょう。彼女たちは、エジプトの地にあって真の神様を信じていました。イスラエル人がエジプトに移住して400年以上が過ぎています。400年と言うのは、イスラエルがエジプトの偶像礼拝の影響を受けるには十分な期間です。その後のイスラエルの姿を見るとエジプトの偶像礼拝の影響を受けていることがうかがえます。けれどもこの時、助産婦たちは、神様を恐れていました。彼女たちは、エジプトの王ファラオの恐ろしい命令よりも主なる神様の御心を行い、神様に喜ばれることを行うことが大切だと知っていたのです。ファラオの命令に従わないことは、命の危険が伴います。けれども彼女たちは、神様に従う道を選び取っていたのです。それは、神様ご自身が彼女たちの信仰を強め、ご自身の御手を差し伸べて守っておられたからです。神様は、彼女たちの信仰に答えて、彼女たちの家を祝福し、守ってくださいました。
 皆さん、神様は私たちが苦難を通る時にも、御手を指し伸ばしてくださり、私たちを支えてくださいます。

Ⅱ;神の計画は進む

 苦難の時にも神様の計画は進んでいきます。人は、神様を信じていれば苦しみも困難も問題もなく生きていけると思うかもしれません。でもそれは、間違った考え方であることを知らなくてはいけません。主なる神様を信じていれば、苦労、悲しみも悩みもない人生を送れるということはありません。聖書は、そのようなことを教えてはいません。それでは、神様を信じても無意味ではないか、と思うでしょうか。それも間違いです。確かに私たちは、問題を経験し、困難や悩みに押しつぶされそうになってしまうことがあります。時には、直面する現実を受け止めきれずにうなだれてしまうことがあります。聖書は、私たちがそのような苦しみ困難を経験することがあると教えています。と同時に、そのような時に神様は、私たちにどのようにかかわってくださるのかを教えています。

 詩篇118篇5節には「苦しみのうちから 私は主を呼び求めた。主は答えて、私を広やかな地へ導かれた。」とあり、詩篇119篇71節には「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。それにより 私はあなたのおきてを学びました。」とあります。私たちが苦しみの時に祈り求めるならば、神様は答えてくださいます。私たちが直面する苦難の中には、主の慰めがあるのです。私たちは、苦しみを通して実に多くのことを学び、神様を知ることになるのです。そして神様が私たちの人生にかかわってくださり、私たちに対してご計画を持っておられることを知るようになるのです。
 モーセの両親は、まさに命がけの困難な中にあって信仰をもって歩み、神様のご計画に目を向けていた人たちと言うことが出来るでしょう。へブル人への手紙11章23節では、「信仰によってモーセは生まれてから、3か月の間、両親によって隠されていました。」とあります。モーセの両親は、我が子可愛さだけではなく、神様への信仰がありました。両親は、困難の中で、主なる神様を恐れ、信じ、神様の御心を求め、神様の喜ばれることを行うことこそ大切だと学んだのではないでしょうか。

 私たちは、誰も人生の中で起こる困難を避けることは出来ません。しかしそのような時、どのように対処するのかによって、私たちの歩みは大きな違いが出てきます。私たちは、苦難の中で嘆き悲しみ、不平不満を言って、周りを批判し絶望するでしょうか。それとも困難の中で、全能の主なる神様に祈り求めるでしょうか。詩篇50篇15節には「苦難の日に わたしを呼び求めよ。」と勧められています。私たちは、一人でもがき苦しむのではなく、主なる神様を呼び求め、祈ることが出来るのです。そうすると、どうなるのでしょうか。「わたしはあなたを助け出し あなたはわたしをあがめる。」と言われています。私たちが祈り求め、叫び求める時、主なる神様は御手を指し伸ばし、私たちを助けてくださるのです。こうして私たちは、神様のご計画の中を歩むことが出来るのです。「わたしをあがめる」というのは、神様を礼拝するということです。神様を礼拝するということは、そこに感謝が溢れ、喜びが溢れるようになるということです。私たちは、下を向いてしまうのではなく、主を見上げ、主なる神様を礼拝して歩みましょう。神様は、私たちへのご計画をもってかかわってくださいます。

Ⅲ;助けがある

 苦難の時にも、私たちには神様からの助けがあります。それは、神様の変わらない約束です。
 中学3年生の時のマラソン大会の出来事には続きがあります。ゴール直前で待っていた友だちは、「約束したから」と私に言ってくれました。確かに私たちは、「一緒にゴールしよう。でも順位があるから、ゴール直前でじゃんけんして勝ったほうが先にゴールしよう。」と約束を交わしていました。私は、「そんな約束どうでもいいじゃないか。僕よりもお前が速かったのだから、先にゴールするべきだよ」と言うと、彼は「いや、約束通りじゃんけんしよう」と譲りません。走りながら話していますから、すぐにゴールになります。私は、仕方なくじゃんけんしました。するとなんと私が勝ってしまい、先にゴールすることになってしまいました。私は、気まずいような、どこまでも約束にこだわってくれた友だちに嬉しいような、複雑な気持ちでした。皆さんが、じゃんけんをして順位を決める生徒を見つけたら厳重注意することでしょう。でも私は、これほどの友情を示してくれた友だちの気持ちが嬉しかったのを覚えています。

 私たちは、友人同士だから約束を守ったと言えるかもしれません。けれども皆さん、神様は、罪人である私たち、信仰が弱く、欠点の多い私たちに対して、どこまでも、何があっても約束に忠実なお方です。神様は、アブラハムに約束の地カナンを与えると言われました。そして神様は、アブラハムの子孫が寄留者となり、400年間奴隷として苦しめられること、そこから脱出することを語っておられました。神様は、アブラハムへの約束の通りにイスラエルの民を導き、助けの御手を差し伸べたのです。モーセが、エジプトの王女の子として育てられるようになったのには、このような神様の偉大な御手の助けがあったのです。
 今週の御言葉をもう一度読みましょう。「苦難の日に わたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出し あなたはわたしをあがめる。」詩篇51篇15節

詩篇46篇1節には「神は われらの避け所 また力。苦しむとき そこにある強き助け。」とあります。
イエス様は、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」マタイ11章28節と約束してくださいました。
 神様は、私たちが罪人だから、イエス様の十字架による救いを与えてくださるのです。神様は、私たちの信仰が弱く躓きやすいから、私たちを助け、守ると約束してくださっているのです。イエス様は、たとい私たちが苦難を経験する時にも、私たちが弱らず、倒れず、迷わないように、私たちと共にいてくださり、助けの御手を指し伸ばしてくださるのです。この主なる神様の約束を信じて、信仰をもって歩みましょう。
 私たちが苦難を経験する時にも神様の御手は、私たちに差し出されています。私たちが苦難を経験する時にも神様の計画は、進んでいて、私たちは主に祈り求め、叫び求めることができます。私たちが苦難を通る時、私たちは一人悪戦苦闘するのではなく、神様の助けを受けることが出来ます。神様は、いつでも、どんなことがあっても、あなたと共におられます。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様は、イスラエルの民が苦境に直面しても、見捨てることをせず、御手を差し伸ばしてくださいました。今も神様は、私たちの祈りに答えて、助けを与え、導き、守ってくださることを信じます。私たちは、神様のご計画があることを信じます。神様の祝福と守りの約束は変わることなく、私たちに注がれていることを感謝し、歩みます。どうか私たちの信仰を強め導いてください。
 神様、私たちが生きているこの世界には争いが絶えず続いています。どうか神様の平和をお与えてください。また私たち自身が、神様の平和を実現することの出来るように、愛と恵みで満たしてください。
 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」