<子どもたちへ>
先週は、エジプトを出発したイスラエルの人たちに、神様から十戒(じっかい)という10の大切な教えをもらったお話でしたね。実はその後残念なことが起きてしまいました。今日はその元となった、「『を』の神さま」と、「『が』の神さま」の違いもお話したいと思います。
モーセはもう一度、神様に呼ばれて山に登っていました。もう40日も経っています。イスラエルの人たちは山のふもとで心配そうに話しています。「おいおい、モーセはいつになったら戻ってくるんだ?」「山で何かあって、帰れなくなってるんじゃないか?」みんな心配で心配で落ち着きません。人間「を」造った聖書の神様がここまで連れてきてくれたのに、目に見えないと不安になってしまうのですね。
みんなはモーセのお兄さんのアロンにいいました。「モーセがどうなってしまったかわからないから、私たちを導いてくれる神様を造ってくれよ。」あれあれ、この間聞いた十戒の中で、「偶像(人間『が』つくった神様)」を造ってはいけない、って言われていたのに、とんでもないことを言っていますね。
「人間『を』造った神さま」こそ本当の神様です。でも、木や石や金属などで「人間『が』つくった神様」は、神ではないよ、と聖書は教えています。イスラエルの人たちはそれがよく分からなかったのです
アロンは言いました。「では金の耳飾りを集めなさい」。そしてそれを溶かして金の子牛の像を造ってこう言いました。「さあみんな、これがあなたをエジプトから導いてきた神様だ!」人々は大喜びして子牛を拝み、その周りで食べたり飲んだり、大騒ぎをしました。「人間『を』つくった神さま」はこれを見て悲しみ、怒ったと書いてあります。
さて、山の上では神様がモーセにこう言われました。「山をおりなさい。イスラエルの民が、子牛の像を造って拝むという罪を犯している。なんと強情な悪い民だろうか。彼らを滅ぼして、モーセよ、あなたの子孫を代わりの大いなる民にしよう」。モーセはびっくりしました。「神さま、どうか思い直して下さい!」神様はモーセの必死のお祈りを聞いて、彼らへの災いを思い直して下さいました。
急いで山をおりてみるとどうでしょう。モーセが思っていたよりもひどい光景が広がっていました。みんなだらしなくお祭り騒ぎで子牛を拝んでいます。それを見たモーセは激しく怒りました。「何をやっているんだ!」その手には神様が山で下さった2枚の石の板があったのですが、それを粉々に砕いてしまいました。アロンを問い詰めて「どうしてこんなことをしたんだ!」と聞くと、アロンは「この民がしつこく頼んだのです。みんなから集めた金を火に投げ込むと、この金の子牛が出てきたのです。」と言い訳しました。子牛が勝手に出て来たかのように嘘をついたのです。
モーセはこんな困った人たちのためにもう一度神様にお祈りしました。「神様、私の命と引き換えに彼らを赦して下さい。」神様はモーセの身代わりは受け入れませんでしたが、お祈りを聞いてくださいました。滅びずに済んだのです。
皆さん、「人間『が』つくった神さま」である偶像をおがむのは、「人間『を』つくった神さま」が悲しむ罪です。本当の神様はただ一人だからです。今日のみことばを読みましょう。私たちの周りにも「『が』の神さま」はたくさんあります。でも私たちは「私たち『を』つくって愛してくださる神さま」だけを礼拝して信じていきましょう。
<祈り>
天の父なる神様。いつも私たちを守って下さってありがとうございます。私たちは不安になると目に見えるものを頼りにしたくなってしまいます。でも、「人間『を』つくった神さま」だけを頼りにして信じていきます。私たちを偶像から守って下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
「子どもたち、偶像から自分を守りなさい。」 ヨハネの手紙第一 5章21節
「したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」
ヘブル人への手紙7章25節
<適用>
19章から今日の箇所にいたるまで、聖書の舞台はシナイであります。シナイは、エジプトとカナンの南方に位置する荒野です。そこには出エジプトをしたイスラエルの民が宿営しました。またシナイ山は神様がお姿を現された特別な山でした。シナイ山でモーセはこう言われていました。「あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジプト19:6)。これが出エジプトの目的でもありました。
そして20章で民を整える十戒(十のことば)が与えられました。先週学んだ通りです。そして人びとは「主の言われたことはすべて行います」(24:3)と答えたのでした。
そんな特別な場所で、特別な経験をしたにも関わらず、イスラエルの民は大きな過ちを犯してしまいます。しかし、聖書はとりなしの祈りが罪人の救いに大きな力を持つことを記しています。今日はモーセの命をかけたとりなしの姿を学んで行きたいと思います。
1.深刻な罪
イスラエルの民が偶像を求めた様子が32:1に出て参ります。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造って欲しい。」悪びれもせず、目に見える神々が欲しいとアロンに要求しました。モーセがいなくなった時、彼らの不安は抑えられなくなったのです。そして民全体が滅びの瀬戸際に置かれるような、深刻な罪を犯してしまったのです。
アロンが造ったのが子牛だった、というのが当時の宗教的な状況を反映しているように思われます。古代エジプトでは牛の姿の神々が広く崇拝されていましたから、イスラエルの民のイメージ通りだったことでしょう。そしてこの子牛に偶像礼拝をし、十戒の第二戒を破ってしまいました。神様に告げられた通りのいけにえのささげ方をしつつも、性的な戯れも含めた飲めや歌えの大騒ぎをするという、乱れた有様に陥ちいってしまったのです。神さまを見る機会すら与えられたシナイ山のふもとにあって、どうしてこのようなことになってしまったのでしょうか。イスラエルの民は特別に邪悪な民だったのでしょうか。
私は神学生時代に聖地旅行に行かせて頂いた、ことがあります。ぜいたくなようでもありますが、働きに出るとなかなか機会があるかわからないと思い、思い切って参加しました。大沢バイブルチャーチの関根辰雄先生が団長で、まずエジプトに入り、シナイ山で一泊してイスラエルに入る、という旅でした。シナイでは皆さん朝暗い内に山を登って、山頂で日の出を見る、というプログラムがありました。私は当時不整脈があり、旅の疲れもあったので、宿に残ることにしました。そして近くを散策して、祈りの時を持ちました。そこは、とにかく静寂な場所でした。だからこそ神様の顕れにふさわしかったのでしょう。本当に何もないその地に身をおいて感じたことがありました。それは「イスラエルが特別に邪悪だったから罪を犯したのではない。罪人はみな罪を犯すのではないか」という思いでした。
もちろん彼らは神様からこう言われています。「わたしはこの民を見た。これは実に、うなじを堅くする民だ」(9)。これは「強情」という意味でありましょう。罪の性質が現れています。しかしこれを他人事と考えてはいけないと思います。
申命記9章にはモーセが後にこの金の子牛事件を振り返って語る説教が書かれています。そのところでモーセはこう言っています。「知りなさい。あなたの神、主は、あなたの正しさゆえに、この良い地をあなたに与えて所有させて下さるのではない。事実、あなたはうなじを固くする民なのだ。」(申命9:6)。私たちは、イスラエルと比べて自分が正しいから、今神様の恵みを受けているのだ、と思ってはなりません。罪と隣り合わせ、罪に満てる世界の中に、私たちもまた住んでいます。罪のまどわしを避けるには、みことばを指針にした歩みが必要です。他人事と思わず、油断をせず、みことばに教えられやすい心を祈り求めて参りましょう。
2.命をかけたとりなし
2つ目に見たいのは、モーセの命をかけたとりなしです。32章でモーセは2度とりなしの祈りをささげています。一度目は11節からのところで、アブラハム契約を思い出して下さい、と祈ります。神様はその祈りを受け入れて、わざわいを思い直してくださいました(14)。
しかし百聞は一見にしかず、山を下りて民の乱痴気騒ぎを見るなりモーセの感情は爆発しました。「宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして、手にしていたあの板を投げ捨て、それらを山のふもとで砕いた」(19)。十戒が神の筆跡で刻まれた聖なる2枚の板を、モーセは割ってしまいました。これは神様との契約のしるしでしたから、民のこの状態では契約は不可能と判断せざるを得なかったのでしょうか。モーセは義憤にかられて3千人を粛清したと書かれています。
けれど、それで終わらないのがモーセという人でした。30節「翌日になって、モーセは民に行った。『あなたがたは大きな罪を犯した。だから今、私は主のところに上っていく。もしかすると、あなたがたの罪のために宥めをすることができるかもしれない』」。
この「宥め」と訳されている言葉は、罪を贖う、罪を赦すという意味があります。神様がシナイ山で教えられたいけにえの規定には、「宥め」にはいけにえが必要、と教えられています(出エジプト29:36)。モーセは宥めのために、自分自身を身代わりに差し出すつもりで山に登っていったのです。
モーセの祈りを読みましょう。「ああ、この民は大きな罪を犯しました。じぶんたちのために金の神を造ったのです。今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら―。しかし、もしかなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください」(出エジプト32:31,32)。モーセの言葉にならないうめきに、皆さんは何を感じるでしょうか。神の御前に、赦しを要求するなど出来ないことです。それでもなお、赦しと憐れみを頂くために、神の書物から自分の名が消されてもよい、とモーセは申し出るのです。聞き届けられれば自分が滅びる祈りです。富岡教会で牧師をされていた臼田信興先生は、この祈りは「贖いの祈りである」と神の福音誌に書いておられました。これは誰にでも祈れる祈りではありません。私の知る限り、モーセ、使徒パウロ、そしてイエス様だけが祈り得た祈りであります。
モーセは振り返ってこの時の心境を語っています。「こうしたのは、主が激しく怒ってあなたがたを根絶やしにしようとされたその怒りと憤りが、私には怖かったからであった。しかし、そのときも主は私の願いを聞き入れてくださった」(申命記9:19)。
モーセには、罪に対する神さまの怒りとさばきへの恐れがありました。これは私たちが持つべき聖なる恐れです。私たちの神様は優しいだけのお方ではなく、罪を嫌うさばきの神でもあられるからです。
この時のモーセのとりなしは、詩篇106篇でも取り上げられています。そこではモーセのとりなしを「御前の破れに立」つ、と表現しています(106:23)。破れは常に恥であり、見られたくないものであり、あってはならないものです。罪は神の前にあってはならない破れ、だというのです。この破れが露見した時に、罪をあげつらうのでなく、破れ口にたってかばうのがとりなしです。
私たちは、罪人を待ちうける神の裁きを思って、聖なる恐れを持つ者でありたいと願います。と同時に、破れ口に立つとりなし手とならせて頂きましょう。主はとりなす者を求め、その祈りを受け入れて下さいます。
3.贖いうるのはキリストのみ
最後に、本当の意味で贖いうるお方はイエスキリストお一人であることを覚えたいと思います。神はモーセを「贖う者」として求められませんでした。それは、いかに優れた信仰者であったとしても、モーセ自身も罪人であるからです。彼には贖いに自分を差し出す資格がないのです。旧約聖書を代表するモーセにも、新約の使徒パウロにも、思いはあったとしても贖いの代価となる資格はありません。
ただお一人、罪のない神の御子イエス・キリストだけが、贖いの代価としてご自身を差し出す資格のある方でした。そしてイエス様は、実際に贖いのため十字架にいのちを犠牲にして下さったのです。
ローマ人への手紙にはこうあります。「正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:7,8)。罪人のために贖い、とりなしを可能にするのは、愛です。神様は罪ある私たち一人ひとりを愛しておられるので、この贖い主イエス様を送って下さったのです。私たちはこの大きな広い愛のゆえに、救いの道に招かれています。自分も、また周りの一人ひとりもです。一人でも多く共に救いに与れるように、とりなしの働きに励むお互いとなりましょう。
<祈り>
天の父なる神様。礼拝へと招いて下さり、御前に礼拝者として加えて下さったことを感謝します。罪に満ちるこの世に生きる私たちは、罪のまどわしに囲まれています。どうぞ注意深く歩み、みことばを指針とし罪から守られて歩めるようお導き下さい。また、モーセが自らを贖いの代価にしようとした命がけのとりなしを学びました。その姿に圧倒されますが、わたしたちも自分に出来ることもって、破れ口に立つとりなしの働きをしていく者とならせて下さい。本当に贖いうるのはイエス様を、遣わして下さって感謝いたします。あなたのご愛の中に堅く信仰に立って歩み続けます。どうぞ私たちを守り、あなたにお仕えする人生を歩ませて下さい。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。