<子どもたちへ>赤松由里子師
やっと涼しい風が吹くようになりましたね。秋がくるなー、と感じられます。秋といえば、おいしいものがたくさんとれる季節です。なしやぶどうが取れます。さつまいもや栗も取れます。「ぶどう狩りに連れて行ってあげるよ」と言われたら嬉しいですが、「やっぱりごめん、都合で行けないよ」となったら残念ですね。人間の約束は、破るつもりがなくても守られないことがあります。けれど、神様の約束は必ず守られます。今日はそのことをお話します。また、今日でモーセさんのお話は一区切りになります。よく聞いて下さいね。
「おーい、みんな。代表者を選んでくれ。カナンの土地を見に行く偵察隊を作るんだ!」モーセが言いました。神様がこれからの行先、カナンの土地を見てくるよう言われたのです。「どんな人たちが住んでいるか、町や畑、作物の様子も調べてきてくれ」。「了解です。行ってきます!」偵察隊に選ばれた12人は、40日間もカナンの町や山、川などを見て回りました。最後に大きなぶどうを見つけました。「すごい!こんな素晴らしいぶどうは見たことないよ」。モーセたちに見せるために、切り取って持って帰りました。「よいしょ、よいしょ!」あまりに大きくて重いので、枝ごと肩にかついだそうです。他にも果物を持って帰りました。
さて、12人の偵察隊はモーセのところに帰ってきました。イスラエルの人たちも集まっています。「カナンの土地は素晴らしい土地です。作物もたくさんとれそうです。この果物を見て下さい」。それを見て人々は「おーっ!素晴らしい!」と喜びました。でも…12人のうち10人は顔を曇らせて言いました。「町は塀で囲んであって頑丈だし、強そうな人たちがたくさん住んでいました。私たちが入って行ってもとてもかないそうにありません。きっと打ち負かされて追い出されるでしょう。」これを聞くとイスラエルの人たちは「え~っ⁉そんなところなの?」「カナンで戦って死ぬくらいなら、エジプトに戻った方がましだよ」と言って騒ぎ出しました。大声でなく人まで現れたのです。
その時です。2人の人が立ち上がりました。12人の偵察隊の残りの2人、カレブとヨシュアです。「みんな、落ち着いて下さい!カナンの土地は素晴らしいところです。何より神様が、必ずその土地を下さると約束されています。神様を疑って、カナンの住民を怖がってはいけません。」でもみんな、神様の約束を信じませんでした。神様はこれをとても悲しんで、イスラエル人に罰を与えようとなさいました。
モーセは神様の前にひれ伏してお祈りしました。「神様、どうぞお赦し下さい。約束をなくす、とおっしゃらないで下さい。ここでイスラエル人が滅ぼされれば、外国の人たちは、神様をばかにするでしょう。」先週の金の子牛事件の時と同じように、モーセは必死にとりなしをしたのです。
神様は言われました。「よろしい。彼らをゆるそう。だが、何度も私を疑って信じなかった者たちには罰を与える。彼らは誰一人、約束の土地カナンには入れず、40年間荒野をさまようことになる。」
みなさん、神様のお約束は必ず守られる、ということをイスラエルの人たちは信じませんでした。それで罰を受けることになってしまいました。自分の見ていることだけで「無理だな」と判断するのが神様を知らない人には当たり前です。でも、神様と出会って、素晴らしいお約束を頂いた私たちは、「神様に出来ないことはない」と信じる信仰が必要なのです。神様に出来ないことはない、と信じて、勇気をもって進んで行きたいですね。
<祈り>
「天の父なる神様。私たちにたくさんの素晴らしい恵みを約束して下さっていることを感謝します。難しいと思えることがあっても、神様の約束を信じる心と進んで行く勇気をお与え下さい。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」
「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
へブル人への手紙11章1節
<適用>赤松勇二師
私が通っていた中学校では、運動会の時に組体操として中学3年生が五重塔を作り上げるということがありました。中学校の運動会のメインは、代表者リレーと五重塔でした。今ではあまりやらないかもしれません。私が中学3年生の時、五重塔を組み立てることとなりました。体の大きい生徒が何十人も集まり肩を組み土台となる輪を作ります。その輪の中には、体の大きな生徒が少し小さい生徒を肩車して隙間のないほど入り込みます。崩れても中にいる人がクッションとなるためです。私は、土台の中に肩車をして入る役目を与えられました。こうして土台が完成したら、その上に2段目、3段目と乗り上げます。一番上は一人が立ちます。何回も何十回も練習して本番を迎えます。練習中、失敗が続くと「もう無理かも」と思う人が出てきます。一人でも「無理だ」と思ったら途中で崩れてしまい五重塔は完成しません。だから「自分たちには出来る」「大丈夫だ」と前向きになれるように、皆で声を掛け合います。皆の思いが一つとなった瞬間、4、5メートルにもなる五重塔は見事に組みあがるのです。そしてみんなで、何とも言えない一体感と達成感を味わうことが出来ました。
さて、神様はモーセに約束の地を偵察するようにと偵察隊を派遣させました。その結果、神様を信じて前進するはずのイスラエルの民は、心がくじけてしまいました。何があったのでしょうか。
Ⅰ;物事の見方の違い
私たちは、神を信じて前進することが出来ます。しかしその時、私たちが直面する物事の見方に違いがあることも事実です。
モーセは、約束の地カナンに12人の偵察隊を派遣しました。この時モーセは、細かく指示をしていますが、偵察の主な目的は、約束の地がどのような土地であるのかを調べるためです。戦略的な目的もあったと思いますが、偵察隊は、カナンの地が神様の約束された通りの「乳と蜜の流れる地」と言われる土地であるのかどうかを調べることが主目的だったのです。
偵察隊は、40日間カナンの地を隅々まで調べて、その土地の果物を持ち帰りモーセをはじめイスラエルの会衆に報告しました。偵察隊は、見てきたことをそのまま報告しました。偵察隊は、約束の地カナンの現状をしっかりと把握することが出来ました。カナンの地は、作物が豊富に収穫できる地域で、「乳と蜜が流れている」と表現できるほど素晴らしい土地でした。神様が約束された通りです。しかし、大きな問題がありました。偵察に行った10人にとっては衝撃的な事実だったことでしょう。その問題は、カナンの地に住んでいる先住民族でした。その民は、力強く、町は城壁で囲まれ、非常に大きいものでした。またそこには、体格の大きいアナクの子孫がいることが分かりました。民数記13章33節の「私たちの目には自分たちがバッタのように見えたし、彼らの目にもそう見えただろう。」と言うのは、誇張した言い方であり、絶望感を煽るような言い方です。そしてこの表現は、自分たちには無理だ、カナンの地は簡単には、攻め込むことが出来ないと報告したことになるのです。
12人の偵察隊は、自分たちが見たことを正確に理解し、報告することが出来ました。しかしその事柄についての見方は、二つに分かれたのです。偵察隊の10人は、カナンの地を占領することはどう考えても不可能だと受けとめ、2人は、可能だ、恐れることはないと表明することが出来ました。一人でも無理だと感じるとマイナスに流れてしまう可能性があるのに、12人の偵察隊のうち10人が無理だと言ってしまうのです。こうなったら2人が大丈夫だと言ったところで、その声はかき消され、イスラエルの民は、すぐに「無理だ。絶望的だ」というマイナスな考え方に支配されてしまいました。この物事の見方の違いは、何を基準として見ているのかによって生じます。
私たちは、様々なことを経験し、色々なことを感じて生きています。私たちは、一つの出来事に対して様々な反応をします。時には積極的なものとなり、ある時には消極的なものになります。その時、私たちはどのような視点で物事を見ているのかが重要になります。そしてその視点は、私たちが神様を信じて前進することが出来るのかを左右するのです。
Ⅱ;御力を信じて
私たちは、神様の御力を信じて前進する歩みをしていきましょう。12人の偵察隊のうち10人は、自分たちが見て来た事実を報告するのですが、それに加えて「あの民のところには攻め上れない。あの民は私たちより強い(31)」と報告しました。そしてこの報告は、イスラエルの民全体に影響を及ぼし、彼らは、「ああ無理だ。」と受けとめました。そしてなんと彼らは、「自分たちはエジプトで、あるいは荒野で死んでいたら良かった。なぜ、主なる神様は、自分たちをエジプトからこんな荒野に連れて来たのか」とモーセとアロンに対して不平を言うのです(民数記14章2節)。それだけではなく、「さあ、新しい別のリーダーを立ててエジプトに帰ろう」とまで言い出す始末です(3節)。彼らは、数々の神様の不思議なみわざを見て来たのではなかったでしょうか。神様の起こしてくださった奇跡があったからエジプト軍から救い出され、水が与えられ、毎日の食べ物であるマナが与えられているのではないでしょうか。それでもなお彼らは、何か問題が発生するとすぐに、過去に逃避してエジプトに帰ろうと言い出すのです。彼らは、すぐに神様を疑い、神様を否定してしまうのです。そのような態度は、自分の考えの中に神様をしまい込み、神様でも無理という不信仰な態度です。
しかし、偵察隊のうちのヨシュアとカレブの2人は、騒然とする民を静めて必ずカナンの地を占領することが出来ると報告します。そして「ただ、主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。・・・。主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない(14:9)」と言い続けました。この二人の反応は、信仰による反応です。人々が騒ぎたち不信仰になっている時に、二人は主が約束の地を下さるという信仰に立っていました。二人は、主の御心にかない、主に背かずに従うならば、カナンの地を占領できると信じ切っていたのです。どうしてでしょうか。それは、神様ご自身がカナンの地を与えると約束をしておられるからです。ヨシュアとカレブは、神様の約束を信じ、神様の御力を信じて立ち上がるのです。この神様の御力を信じる信仰こそ、神様を信じて前進するために必要なこととなります。物事を見る視点で大切なことは、神様の御力を信じるということです。それは、また神様の導きを信じるということでもあります。
皆さんは、田原米子さんという人を知っているでしょうか。すでに天に召されましたが、彼女はクリスチャンとして多くの場所で証しし、多くの人たちを励ましました。米子さんは、高校生の時に新宿駅で電車に飛び込んでしまいました。一命をとりとめましたが、両足と左手を失いました。残った右手も指が3本残るのみでした。事故の後、米子さんは、宣教師と通訳の方の伝道により信仰に導かれクリスチャンとなりました。事故の直後は、「指が三本しかない」と思って絶望して自暴自棄になっていた米子さんでした。けれども彼女は、神様を信じてから見方が変わりました。米子さんは、「両足も左手も失ったけれども、右手の指が3本も残っている」と考えるようになったのです。この「しか」と「も」という視点の変換はとても重要なことです。そして米子さんが「指3本しか残っていない」から「指が3本も残っている」と変わったのは、彼女が神様を信じ、神様の導きと自分の人生を導こうとされる神様の御力を信頼したからこその変換でした。
皆さん、私たちはどのような視点を持って物事を見続けるでしょうか。自分の考えを優先し、自分の経験則と言う視点で考え、先に進めるか、問題を乗り越えることが出来るのかを考えるでしょうか。そして私たちは、「神様は何をしているのか。神様がいるなら何でこんなことになるのか。」と祈ることを忘れ、不信仰になってひたすらつぶやくでしょうか。その姿は、偵察隊の10人と同じです。
そうではなく、私たちは、今も主が共におられるという視点に立つことが出来るのです。この視点は、ヨシュアとカレブと同じ信仰の視点です。神様は、皆さんの人生の中で多くの助けを与え、祝福を与え、導いておられたはずです。私たちは、事あるごとに、この事実を思い返すことが出来るのです。
私は、人生は螺旋階段を上るように進んでいくものだと思っています。螺旋階段は、階段の位置は変わらず、ぐるぐる回りながら登っていきます。ですから階段から見る景色は、同じようなものなのです。螺旋階段を1階から2階に上っていくと、1階で見た景色を含めて2階からより遠くを眺めることが出来ます。私たちが経験する事柄は同じような事、似ているような問題など人生の景色はそれほど変わらないかもしれません。しかし人生の螺旋階段は、確実に1階から2階に上っているのです。私たちの人生の中で起こる同じような事柄でも1階から2階へ進んでいるのです。そして私たちは、同じような問題や悩みと同時に、これまでにあった神様の導きや神様の御力を見ることが出来るのです。これこそ私たちが持つべき信仰の眼差しです。私たちが信仰をもって主を見上げた時、目には見えなくても神様の確かな導きを確信することが出来ます。ヘブル人への手紙11章1節を読みましょう。
もし何か問題に直面する時、私たちはこれまでの神様の導きを思い返しましょう。あの時助け導いてくださった神様は、今も助け導いてくださるのです。私たちは、神様の御力を信じ信頼して歩み続けましょう。なぜなら神様は、昔も今もそしてこれからも変わることなく、私たちと共にいて御手を伸ばしてくださるからです。
私たちは、神様を信じて前進し続けるという人生を一歩ずつ進むことが出来るのです。
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イスラエルの民は、神様の導きを信じることが出来ず、神様の約束を信頼することが出来ませんでした。その結果、彼らは、神様を疑い、神様に背を向けてしまいました。
私たちは、神様を信じて見上げます。神様の御力と導きを信じて従います。神様は、昔も今もそしてこれからも変わらず生きていて私たちと共にいてくださるからです。
今週も神様の恵みが一人一人の上にありますように。神様、大きな地震の被害を受け、大雨で被害を受けている能登の地に、主の憐れみを注いでください。被災された一人ひとりの心に神様が寄り添い、恵みをお与えください。またこの世界に主の平和を与えてください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」