<子どもたちへ>赤松由里子師
今日から主人公がかわります。その人の名前は、ヨシュアさんです。先週のお話で、カナンに行くのは無理だとみんなが言ったとき、「そこは素晴らしい土地です。神様の約束を信じて上っていきましょう!」と言った人です。その後イスラエルは神様を疑った罰として、40年間荒野をさまよいました。みんな年をとりました。モーセもカナンの手前で亡くなりました。今日はそのあとのお話です。
新しいリーダーとして神様から選ばれたのがこのヨシュアでした。ヨシュアは、モーセのお手伝いをしてきた人です。神様はヨシュアにおっしゃいました。「さあ今、ヨルダン川を渡って、カナンに行きなさい。その土地はあなたがたのものとなる。」「おお、神様...!」。ヨシュアは緊張しました。何十万人ものイスラエル人を連れて行くことになります。「こっちに来るな!」と立ち向ってくる土地の人たちがいます。緊張するのも当然です。
その時神様が言われたのが今日のみことばです。「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない」(ヨシュア1:9)。続きにはこうあります。「あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。」神様はこうヨシュアを励まして下さいました。それでヨシュアも勇気をもらって、イスラエルの人に言いました。「3日後にヨルダン川を渡ります。神様が約束の土地を私たちに与えて下さいます。みんなが答えました。「はい、ヨシュアさん。モーセに従ったように、みんなあなたに従います。どうか強く雄々しくあって下さい」。
3日後、ヨルダン川を渡る日が来ました。橋も舟もありません。歩いて渡っていくのです。出来るでしょうか?ヨシュアがいいました。「祭司は契約の箱をかつぐように!先頭にたってわたりなさい。」ヨルダン川は山からの雪解け水が流れ込んで、ごうごうと音を立てています。バシャバシャ、と水が溢れています。でも祭司たちは神様を信じて、流れのはやい川に足を踏み入れました。するとどうでしょう。水の流れが止まったではありませんか。聖書に「水がせきとめられて立ち上がった」とあります。
続いてイスラエルの全員が川を渡っていきました。最後の人が渡り終わるまで、水は止まったままでした。これは神様の奇跡です。こうして全員が川をわたり終えました。ちょうど、エジプトを出る時に、海が分かれてそこを逃げることが出来たのと同じですね。神様は約束通りイスラエルの人を守って下さいました。こうして人々は、神様が確かにヨシュアと一緒におられることを知りました。
私たちも、一人で強い心を持ち続けることは難しいです。一緒にいて支えてくれる存在が必要です。それは一緒にいてほっとできる人かもしれません。お父さんやお母さん?おじいちゃんおばあちゃん?先生や友達、かもしれません。そういう人がいないまま生きている人もいるかもしれません。でも知って欲しいことがあります。私たちに本当の安心と心の強さを与えて下さるのは神様です。私たちを作って下さった神様は、私たちを愛して、一緒に居続けて下さるお方です。神様に背を向けて「もう結構です」と言わない限り、いつも助けを頂くことが出来ます。目に見えないけれど、この神様を信じていっしょに歩んでいきましょう。
<祈り>
「天の父なる神様。あなたが私たちと一緒にいて強めて下さることを感謝します。心配になる時、不安を感じる時、神様が近くで助けて下さい。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」
「強くあれ。雄々しくあれ。恐れはならない。おののいではならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。」
ヨシュア記1章9節
<適 用>赤松勇二師
私は、ヨシュア記1章を開く時に必ず言っていることがあります。それは、私にとってヨシュア記1章6節や9節は、記念すべき御言葉だからです。私は、「赤松勇二」と言いますが、この「勇二」と言う名前は、「雄々しくあれ」の「雄」から取られています。本来なら聖書の通り「雄二」とするところですが、それは恐れ多いという事で、父は「勇(いさましい)」を使ったそうです。「強くあれ。雄々しくあれ。恐れはならない。」とありますから、恐れ多いと言わず、聖書の言葉の通り「雄」の字を使ったらよかったのにと思いますが、「勇気」の湧き上がるような御言葉ですから、「勇二」も良いなと思います。
ヨシュアをはじめイスラエルの民は、「強くあれ、雄々しくあれ」との神様の言葉を受けて、踏み出す力を得ることとなりました。
Ⅰ;主の励ましがある
ヨシュアは、「強くあれ、雄々しくあれ」という神様の励ましがあり、踏み出す力を得ることが出来ました。皆さんは、この時のヨシュアの心境を想像することが出来るでしょうか。
ヨシュアは、若い頃から偉大な指導者モーセの側について仕えていた人物です(出エジ24:13)。ヨシュアは、モーセがシナイ山で神様から石の板を授かる時に一緒に行動しています。ヨシュアは、モーセが祈りつつ、苦労してイスラエルの民を導いている様子を見ていました。イスラエルの民は、成人男性だけでも60万人と言われていますから、全体を含めると100万人以上になる大群です。その多くの人たちは、事あるごとにモーセとアロンに不平を言い、神様に対して背を向けるような状態でした。このような群衆の生活だけではなく、魂のケアーもしなければなりませんから、リーダーはどれほど大変なことでしょうか。ヨシュアは、この大変な役目をモーセに代わってしなければなりません。しかもヨシュアは、荒野での旅が終わり、いよいよ約束の地に入るための指導者となるのです。約束の地に入るためには、そこに住んでいる民族との戦いは避けられません。民の指導者としてヨシュアには、軍事面でも力が求められることとなります。さらには、神様が与えると約束している土地は、今のパレスチナの南部から北部のレバノンに至り、東はユーフラテス川まで、西は地中海までという想像を超える広範囲です。これを全て占領できたのはダビデとソロモンの時代のことですが、ヨシュアはその第一歩を踏み出さなければならないのです。ですから彼の心には、言いようもない不安と恐れが渦巻いていたことでしょう。
神様は、そのようなヨシュアに対して「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてならない。」と語りかけてくださったのです。そして神様は、励ましに加えて「わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。(5)」と約束を与えてくださったのです。なんと素晴らしい約束ではないでしょうか。モーセとともにいた神様がヨシュアと共にいるという事は、神様は、ヨシュアを通してご自身の力あるわざを行ってくださるという約束でもあるのです。これほど力強い言葉はありません。ヨシュアは、神様の励ましによって踏み出す力を得るのです。
皆さん、私たちも神様の御言葉によって踏み出す力を得ることが出来ます。イエス様は、復活後天にお帰りになる前に「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます(マタイ28:20)」と約束してくださいました。私は、「強くあれ、雄々しくあれ、恐れてはならない」や「あなたと共にいる」という神様の言葉には、「あなたは大丈夫だよ」と言う神様の励ましでもあるように思うのです。私たちは、誰かを応援する時に「頑張れ」という言葉を使います。ある野球の試合でのことです。その時のピッチャーは、ストライクがなかなか入らず、フォアボールが連続し相手に点が入ってしまいました。ピッチャーは、どうにかストライクを投げようと必死です。そこに「頑張れ」という応援の言葉かかります。でもピッチャーはストライクを投げたいのに、なぜかストライクにならないのです。ピッチャーの表情からは、「全力を出し切っていて、もう頑張りようがない」という気持ちが表れていました。私は、その応援の様子を見ていて、「大丈夫だよ」という言葉があったらいいのになぁと思いました。
神様は、私たちに「強くあれ、雄々しくあれ、恐れてはならない」と語りかけてくださり、モーセやヨシュアと共にいたように「あなたと共にいる」と約束をしてくださるのです。私たちは、この神様の励ましによって人生の一歩を踏み出すことが出来ます。
Ⅱ;主の御言葉を心に留める
私たちは、踏み出す力を得ることが出来ます。それは神様さまの励ましによることをまず見ました。二つ目は、主の御言葉を心に留めるということです。神様は、「強くあれ、雄々しくあれ」と語りかけてくださいます。私たちは、このように語りかけてくださる神様の教えから右にも左にも離れないで歩んでいくことが大切です。
ヨシュアは、約束の地を占領するという大事業を目の前に恐れを抱いていたので、「強くあれ、雄々しくあれ」と励まされる必要がありました。しかし実は、もう一つの面でも励ましが必要だったのです。それは、神様の御言葉を信じて従うという事柄です(7節)。モーセの従者として選ばれたヨシュアだから神様の御言葉を信じて従うことは当然と思うでしょう。けれどもヨシュアは、信仰が揺らいでしまう可能性に囲まれていたと言ってよいでしょう。そのような不安要素とは、イスラエルの民の信仰の不安定さであり、そこから来るストレスです。イスラエルの民は、何かと言うとモーセに対して不平を言い、神様につぶやいて不信仰になっていました。そんなことが何度となく繰り返されてきたのです。これからは、イスラエルの民の不平不満やつぶやきは、ヨシュアに向けられるのです。するとヨシュア自身も葛藤を覚え、神様を信じ信頼することが揺らぐ可能性があるのです。ヨシュアの信仰が揺れ動いてしまうと、彼は、モーセを通して与えられた命令をイスラエルの民の中に浸透させることが出来なくなる可能性があるのです。だから神様は、「強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。(7)」と励まして下さっているのです。そしてこの励ましにも神様の素晴らしい約束があります。その約束とは、「あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである(7)」と言うものです。8節ではもう少し具体的に「おしえの書を口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ」とあります。「口ずさむ」と訳されているヘブル語には「思い巡らす」という意味があります。これらの意味する事は、神様の教えを口ずさみ、思い巡らすことによって、その教えの意味を知り、実行することが出来るようになるという事です。そしてさらには、神様の教えに従うことが、神様の栄光を現すこととなり、神様の祝福の中を歩むことになるということです。
ヨシュアは、モーセの従者として、信仰者モーセの姿を間近で見ていた人です。ヨシュアは、40年前カレブと一緒に、約束の地カナンを占領できる、神様が与えてくださると力強く信仰を表明出来た人です。そのヨシュアでさえ、神様の御言葉に従い右にも左にもそれないで信仰の一歩を踏み出すために、神様ご自身の励ましを必要としたのです。そしてヨシュアが、主の教えを守り従うならば、神様は天からの祝福をもって栄えさせてくださるのです。
私たちは、ヨシュアと同じように神様の御言葉に従う事において「強くあれ、雄々しくあれ」と励ましを必要としているのではないでしょうか。私たちは、聖書の教えから、かけ離れた価値観の中で生きています。時として私たちがクリスチャンとして生きること、主なる神様を信じて聖書の教えに従って生きる事が、肩身の狭いことと感じ、周囲との違いに心くじけてしまうことがあるかもしれません。私たちは、家庭の中で、地域の中で、職場の中でも信仰の戦いをしています。サタンは、私たちの心から御言葉を取り除き、私たちの心から神様への信仰をなくそうと誘惑してきます。私たちは、知らず知らずのうちに、心が揺れ動き、主の教えから右に左にそれてしまうことがあります。私たちは、自分の力で信仰の戦いをするのではありません。「強くあれ。雄々しくあれ」と言ってくださる神様の励ましと御言葉に従うことによって、信仰の一歩を踏み出す力が与えられます。そのためにも私たちは、主の御言葉を心に留めて歩みましょう。
Ⅲ;主は共におられる(ヨシュア記3章)
私たちは、「主は共におられる」という信仰によって人生の一歩を踏み出すことが出来ます。
ヨシュアは、約束の地に入る前に、最初に攻め込むことになるエリコの町を偵察させました(ヨシュア記2章)。この時ラハブが、偵察した2人をかくまい、エリコの住民がイスラエルを恐れていることを知りました。こうして、ヨシュアをはじめイスラエルの民は、準備万端整っていざ約束の地へ入ることとなる訳です。しかしそのためには、ヨルダン川を渡る必要がありました。ヨシュア記には、「エリコに面したところを渡った(ヨシュア記3:16)」とあります。聖地旅行では、エリコに面したヨルダン川に立ち寄ることが多いのですが、今その場所は、十数メートルだけであり、簡単に超えられると思えるほどの川幅です。しかし、ヨシュア記の頃は恐らく川の流れが今とは違っていたのだと思います。さらにヨシュア記では、雪解け水によって水量が多く川幅が広がっていて、流れも強かったので、簡単に渡ることが出来ませんでした(ヨシュア記3:15)。けれども神様が言われる通り、祭司が契約の箱(神の箱)を担いでヨルダン川の水に足を踏み入れた時、大量の川の水が上流で堰き止められました。その場所は「アダム」と言う場所です。エリコから約30km程離れている場所です。それほどの広範囲で水が堰き止めらえたわけです。このことでイスラエルの民は、ヨルダン川の乾いた所を一気に渡ることが出来たのです。
この時ヨシュアとイスラエルの民に求められた事は、何だったと思いますか。それは、自分たちと共にいると約束してくださる神様を信じて従う事でした。特に神の箱を担ぐ祭司には、主が共におられ、みわざを行ってくださると信じる信仰が必要でした。ヨルダン川の水が川岸いっぱいに勢いよく流れているのですから、川に一歩を踏み出す祭司たちは、どれほど緊張をしたことでしょうか。神の箱を担ぐ祭司の足が、「水際の水に浸る」というのは、まさに記念すべき信仰による一歩だったという事です。この信仰による一歩がないと、民は前進することが出来ないのです。ヨシュアは、神様が言われた通りにする必要があり、イスラエルの民は、ヨシュアと共に主の臨在を見て、信仰の一歩を踏み出すことが求められたのです。
皆さん、私たちも「主は共におられる」という信仰をもって一歩を踏み出していきましょう。私たちは、今、大きな時代の変化の中に置かれています。世界情勢を見ても、この先どうなっていくのか分からないような状況です。日本国内に目を向けても最近、自然災害が多く発生していて、私たちの生活がどうなってしまうのか不安な事が多くあります。それだけではなく、人々の心も変化し続けているような気がします。このように私たちを取り巻く環境は、常に変化をしていて、私たちの心を不安と恐れで覆いつくしてしまいそうです。けれども、昔も今もとこしえに変わる事のない神様が、「強くれ、雄々しくあれ」と励ましくださいます。そして神様ご自身が、御言葉によって私たちの進むべき道を示してくださるのです。神様は、「わたしはあなたと共にいる」と約束してくださるのです。
私たちは、「強くあれ、雄々しくあれ」と励ましてくださる神様を、そして私たちの罪のために十字架にかかって救いを成し遂げてくださったイエス様を、「信じます」という信仰告白の一歩を踏み出すことが出来ます。私たちは、「強くあれ、雄々しくあれ。あなたと共にいる」と約束してくださる神様を見上げ、常に御言葉を思い巡らす歩みへと一歩を踏み出すことが出来るでしょう。私たちは、「強くあれ、雄々しくあれ」と語りかけて導いてくださる神様によって人生が導かれることを信じて、信頼し祈りつつ人生を踏み出す力をいただくことが出来ます。
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様が、ヨシュアを励ましたように、今も私たちに「強くあれ、雄々しくあれ、恐れてはならない」と励ましてくださることを心から感謝を致します。私たちは、神様の励ましと支えがなければ信仰をもって人生の一歩を踏み出すことが出来ません。私たちは、共にいてくださる神様の御言葉を心に留め、思い巡らしつつ踏み出す力を与えられて歩みます。どうか私たちの歩みを導いてください。
神様、今世界は混乱の中にあるように思います。どうか国々を治めるリーダーたちを導き、正しい判断をすることが出来るように助け導いてください。世界に神様の平和が与えられますようにとお願い致します。
日本に目を向けると地震や豪雨による被害を受けている地域があります。神様、被災している地域、そこに住む人々に平安と励ましをお与えください。
この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」