2024年10月20日(日)礼拝説教 ヨシュア記7章1-12節 「罪を捨て救いを受ける」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>
 皆は、アニメの「ドラえもん」知っているでしょう。主人公はのび太君と未来からやって来たドラえもんです。のび太君がいじめられたりして大変な状況になると、「ドラえも~ん」とのび太君がドラえもんに助けを求めます。するとドラえもんが「テレレレッテレ~」と四次元ポケットから便利な道具を出して助けてあげる話が多いですね。ドラえもんが便利な道具を出してくれるものだから、のび太君は、ドラえもんが教えてくれた注意事項を無視して、ドラえもんには内緒にして自分勝手に使ってしまうことがあります。その場合、のび太君の周囲では大問題が発生し、ドラえもんに叱られることになります。アニメの話しだから「のび太君はしょうがないなぁ」で終わるのです。けれどもヨシュア記には、神様の命令に違反したことで罪の裁きを受けることになった人が出てきます。

 イスラエルの人たちは、エリコの町を回り、勝利の声を上げるという神様の方法で、エリコの町を占領することが出来ました。勢いに乗ったヨシュアは、次に攻めとるべき町を選びました。それは「アイ」と言う町でした。ヨシュアは、アイを攻める前に「お前たちは、アイの町に行って調べてきなさい。」と偵察隊を遣わしました。ヨシュアの部下は、「はい、分かりました。僕たちはしっかりアイの町を調べてきます。」と言って出かけていきました。しばらくして、偵察隊が戻って来てヨシュアに報告します。「ヨシュアさん、僕たちはアイの町を調べてきました。アイの町はそれほど大きくなくて、そこに住んでいる人も多くはありません。全員で攻め込む必要はないでしょう。2、3千人くらいで十分なのではないでしょうか。」と報告をしました。

 この報告を聞いてイスラエルの人たち3千人が、アイの町に攻め込んでいきました。するとどうでしょうか。なんとイスラエルはアイに負けてしまい、逃げ帰って来たのです。これには、ヨシュアをはじめイスラエルの長老たちも大ショックです。ヨシュアは、「神様、どうして負けてしまったのでしょうか。どうしてこんな事になってしまったのでしょうか。」と祈りました。神様が、ヨシュアに言われます。「イスラエルの中に大きな罪がある、イスラエルの民の中で、エリコを攻め落とす時に命じた神様の命令を守らず、神様のものを盗んだ者がいる。だからアイの町に打ち負かされたのだ。罪を犯した者に裁きを下す必要がある。」
 エリコの町を攻める時神様が出していた命令は、エリコの全てを神様のものとしてささげるということでした。エリコの人たちをはじめ町の中のものは、すべて神様のものなのです。だから全てのものを神様のものとしてささげることが求められることとなりました。けれどもある人が、神様にささげるべきものを自分のものとして取ってしまったのです。ヨシュアは、神様が言われるように、くじ引きで誰が犯人かを調べました。するとユダ部族のゼラフの子のザブディの子のカルミの子のアカンが犯人だと分かりました。

 ヨシュアが「アカン、お前は何をしてしまったのか。」アカンに問いただします。アカンは、「私は罪を犯しました。私は、神様にささげるべきものの中に、とてもきれいな上着を見つけました。そして銀と金の延べ棒も見つけました。私はそれが欲しくなって盗んで、隠しました。」アカンは、自分が神様から盗んでしまったものを隠し通せると思いました。しかし神様は、全てご存じで、アカンとその家族にとても厳しい裁きをくだしました。
 アカンは、サタンの誘惑に負けてしまいました。僕たちも気を付けていないとサタンの誘惑に負けてしまい、神様に背を向け、罪を犯してしまいます。神様は、「あらゆる形の悪から離れなさい。」(テサロニケ人への手紙第一5章22節)と教えてくださっています。僕たちは、「悪口、嘘、盗み、喧嘩」などから離れて、神様の喜ばれることをしていきましょう。あなたの心にもし罪があると分かったら、「神様、ごめんなさい。」と素直に悔い改めましょう。神様は、あなたの罪を赦してくださいます。

<お祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。アカンは、神様に対して罪を犯してしまいました。神様、僕たちの罪をお赦しください。僕たちがサタンの誘惑に負けることなく、いつも神様の喜ばれることをすることが出来るように助け導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「あらゆる形の悪から離れなさい。」   テサロニケ人への手紙第一 5章22節

<適用>
 私たちは、気持ちを落ち着けたい時や新鮮な空気を吸いたい時などに「深呼吸」をします。深呼吸をする時に大切な動作があります。それは、まずすべてを吐き出すことです。もし肺の中に前の空気が残っていたら新鮮な空気を吸うことは出来ません。すべてを吐き出して息を吸うことで一気に新しい空気が肺の中に入っていくのです。
 私たちの心も罪をすべて捨てることで、初めて神様の救いを受けることが出来ます。

Ⅰ;罪は心を鈍らせる

 私たちは、罪を捨て救いを受けましょう。罪は、私たちの心を鈍らせます。アカンは、「ほんの少しくらいバレないよ。きれいな上着を燃やしてしまうなんてもったいないだろう。銀や金だって取ったって大丈夫だよ。」というサタンのささやき(誘惑)に負けてしまいました。神様は、エリコの町の全てを聖絶するようにと命じておられました。そして神様は、聖絶のものについて注意を与えていました。「あなたがたは聖絶の物には手を出すな。あなたがた自身が聖絶されないようにするため、すなわち、聖絶の物の一部を取ってイスラエルの宿営を聖絶の物とし、これにわざわいをもたらさないようにするためである(ヨシュア6:18)。」
 聖絶というのは、先週も説明しましたが、すでに神様のものとされているという意味です。これは、神様の正しさやきよさを示すためであり、全ての人が神様の主権と正しさ、きよさを知って信じるようになるためでもありました。そして聖絶のものを自分のものとして手に入れるということは、手に入れた人自身が聖絶のものとなってしまうのです。そうならないようにと言われていたにもかかわらず、アカンは、聖絶の物に手を出してしまいました。人は、見てはダメ、触れてはダメと言われると、見たくなり触れてみたくなる習性を持っています。私は、「静かに自習をしていなさい」とか言われると、騒ぎたくなる衝動に駆られることがありました。気を付けないといけないですね。

 神様は、イスラエルの宿営が聖絶の物になってしまうと注意を与えていました。聖絶の物に手を出したのは、アカン一人でしたが、実は、この霊的な堕落は、イスラエルの民全体に悪影響を及ぼしていたのです。私は、アカンをはじめイスラエルの民は、サタンの誘惑に負けてしまったと考えています。それは、アイを偵察に行ったヨシュアの部下の言葉に見られます。ヨシュアがアイを攻める前に、アイがどのような町で、防御はどうなっているのかを知ることは重要なことです。そのための偵察には意味がありました。しかし、偵察隊は、帰って来てヨシュアに「アイは、簡単に攻め落とすことが出来ます。全員で攻める必要はありません。自分たちには簡単です」という報告をします。これは、「難攻不落と思われたエリコを攻め落とせた自分たちイスラエルにとっては、アイの町なんかは小さくて簡単に攻めることが出来るでしょう。」という彼らの高慢な心の現れです。
 イスラエルの民は、自分たちの力でエリコを占領することが出来たのでしょうか。そうではありません。彼らは、神様の励ましを受け、神様の不思議な方法で、神様の力で勝利をすることが出来たのです。それなのに、イスラエルの民は、神様の奇跡を忘れ、自分たちの力で勝利をしたと思い込んでしまったのです。これがサタンの誘惑であり、罪によって心が鈍ってしまった証拠です。

 アカンの霊的堕落は、知らず知らずにヨシュアにも影響を及ぼしてしまいました。ヨシュアは、偵察隊の報告を聞いて、具体的な戦略を立てていません。おそらく具体的な指示を出すことをせず、3千人をアイに派遣したのではないでしょうか。その結果は、予想外の敗北でした。ヨシュアは、何をするべきだったのでしょうか。ヨシュアは、神様の御心と神様の方法を求めて祈るべきでした。ヨシュアが祈ったら、きっと神様は、「今は勝利することは出来ない、何故ならばイスラエルには罪があるからだ。」と言ったことでしょう。しかし、ヨシュア記7章には、「ヨシュアは、神様に祈った」と書かれていませんので、ヨシュアは祈らなかったのです。これがヨシュアの心が、鈍くなってしまった姿です。
 ヨシュアは、アイに敗北した後にやっと祈りました。そして神様は、祈りの中でヨシュアの心を開いてくださり、イスラエルに罪があることを教えてくださいました。そしてその罪を明らかにして、聖絶の物に手を出した者に裁きを下さなければならないと命じたのです。ヨシュアは、神様の言われた通りにして、アカンが罪を犯してしまったことをしりました。アカンは、聖絶の物に手を出し、神様の物を盗んでしまったので、聖絶のものとしてアカンとその家族と所有物全部が神様の裁きを受けることとなってしまいました。

 こうして罪が取り除かれて初めてヨシュアは、神様からの作戦を受けてアイの町を攻めとることが出来たのです。アカンに対する神様の裁きは、厳しすぎると思うかもしれません。しかしイスラエルの民は、神の民として国をスタートするのです。その第一歩として神様は、あらゆる悪から離れることを示すために厳しくされたのです。アカンは、ヨシュアがイスラエルの罪の原因を探していたし、それが自分であることに気づいていたはずです。けれどもアカンは、自分の罪を隠しました。隠し通してごまかそうとしていたのです。あなたには、神様の御前に隠している罪がないでしょうか。もし悔い改めていない罪、隠している罪があるなら、それを神様の前に悔い改め、捨てる必要があります。罪は、私たちの心を鈍らせ、私たちの信仰を弱らせてしまいます。私たちは、どんな罪からも離れましょう。

Ⅱ;イエスによる救い

 私たちは、罪を捨て救いを受けましょう。今、私たちには、イエス様の十字架による救いがあります。神様は、私たちの罪を見過ごすことはなさいませんが、私たちがイエス様の十字架による救いを受け取ることを望んでおられます。
 神様は、聖書の御言葉を通して罪とは神様に背を向けることであると教えています。ヨシュア記7章11節に罪を示す言葉出てきます。まず、「イスラエルは罪ある者となった。」の部分です。これは、「イスラエルは的を外した」と言う意味です。そしてもう一つは、「彼らはわたしが命じたわたしの契約を破った」の部分です。「破った」と言う言葉には、「踏み外した」という意味があります。聖書で教えている罪とは、神様の御言葉から道を踏み外し、的外れな生き方をすることです。神様の御言葉に従わないので、人は、自分勝手に自己中心に生き、様々な罪を犯し的外れな歩みをしています。人は、神様の示してくださる道から踏み外すので、人生に迷い、何の目的も平安もなく生きることとなるのです。このように考えると人は、誰もが罪人ということとなります。そして神様は、罪に対して永遠の滅びと言う裁きを定めておられます。

 人間は、罪と言う問題に対して、どうにかして自分の罪を取り除こう、神に近づいて天国に入ろうします。けれども人の知恵や力や努力などでは罪の問題を解決することは出来ません。神様ご自身が唯一の解決の道を示してくださいました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである(ヨハネの福音書3章16節)。」
 パウロは、ローマ人への手紙6章23節で、「罪の報酬は死(永遠の滅び)です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」と教えています。神様に対して罪があるのは私たち自身です。神様の裁きを受けるべきなのは私たち罪人です。しかし神様は、私たちを罪ありと裁き、断罪するのではなく、私たちが罪赦され救いを受けられるようにしてくださったのです。そのためにイエス・キリストをこの地上に送ってくださったのです。イエス様は、私たちの罪をすべて背負ってくださり、私たちに代わって罪の罰を受けてくださいました。それがイエス様の十字架です。
 「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました(ローマ人への手紙4章25節)。」イエス様は十字架で神様の裁きを受けて死なれましたが、私たちに永遠のいのちを確かに与えるためによみがえられ、今も生きておられます。そして信じる全ての人の罪を赦し、永遠のいのちを与え、天の御国への希望で満たしてくださるのです。

 私たちは、自分の心の内側をしっかり見つめましょう。パウロは、「肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。(ガラテヤ5:19-21)」と教えています。そしてパウロは、「あらゆる形の悪から離れない(Ⅰテサロニケ5:22)」と勧めています。私たちは、罪を悔い改めて罪を捨てましょう。そして私たちは、神様がイエス様によって与えてくださる救いを感謝して受け取りましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。アカンは、聖絶の物に手を出し、罪を犯しました。そして神様の裁きを受けました。神様、私たちは、罪を隠すことなく悔い改めます。神様、私たちがサタンの誘惑に負けて罪を犯すことがなく、どんな形の悪からも離れられるように守ってください。私たちは、罪を捨て、イエス様の十字架の救いを受け取ります。神様、私たちの罪を赦してくださり、私たちの心を救いの恵みで満たしてください。
 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」