2024年11月17日(日)礼拝説教 ヨハネの福音書8章1-11節 「愛と赦しの宣言」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>
 皆は、お父さんやお母さん、時々おじいちゃん、おばあちゃん、または学校の先生そして保育園の先生から注意されることがあるかもしれません。僕は、子どものころ学校の先生から注意されることをして叱られることがありました。皆は、注意された時どうしますか。その時には素直に「ごめんなさい」と言うことが必要ですね。
 同じように僕たちは、神様に対して「ごめんなさい」と言うことが必要です。その時イエス様は、僕たちを赦してくださいます。

 イエス様が、エルサレムの神殿で人々に教えておられた時のことです。イエス様の周りには、イエス様のお話を聞くためにたくさんの人たちが集まっていました。皆、イエス様のお話を静かに聞いています。すると、ザワザワとなんだから騒がしくなってきました。
「先生、イエス様、私たちは、ある女性を捕まえました。この女性は、神様の教えに違反して罪を犯したのです。律法の教えではこのような人は、石を投げつけて殺すようにと言う厳しいさばきが決められています。あなたは、どのように言われますか?」律法学者やパリサイ人というユダヤ教の学者たちが、一人の女の人をイエス様のところに連れてきました。イエス様のところに押しかけて来た人たちは、全員が一斉に「どうするのか」と問いかけました。イエス様は、大声で訴える人々に背を向けるようにして、女の人の隣に座って指で地面に何かを書き始めました。人々は、イエス様と女性を取り囲みながら「どうするのか、イエスよ、何とか言ったらどうか」と言い続けています。

 イエス様は、すっと立ち上がって一言、「あなたがたの中で罪を犯したことがない人、悪いことを一回もしたことがない人が最初に石を投げなさい」と言われ、また座って地面に書き始めました。「え~っ、つ、罪のない者が石を投げろだと」大声で訴えていた人たちの声が急に小さくなりました。そして「罪のない者などいるはずがない。皆、神様に対して罪を犯しているだろう。」と年上の人から石をその場に捨てて、一人また一人と立ち去っていきました。神様に対して罪を犯したことがない、悪いことをしたことはないと言い切れる人は、一人もいないのです。
 騒いでいた人たちがいなくなった時、イエス様と女性だけが残されました。「あなたのことを、罪を犯した悪いことをしたと騒いでいた人たちはいなくなりましたね。」とイエス様。「はい、先生誰もいません」と女の人が答えます。イエス様は、「わたしもあなたをさばきません。罪に定めません。これからは罪を犯さないように、神様を信じて歩んでいきなさい。」と女の人にやさしく声をかけてくださいました。

 イエス様は、女の人の罪をなかったことにしたのではありません。イエス様は、女の人が罪を犯したことを知っていました。けれどもイエス様は、女の人が悔い改めていることも知ってくださったのです。女の人は、イエス様とお話をしながら、「自分の罪をごめんなさい」と言うことが出来たのです。
 イエス様は、僕たちの罪のために十字架にかかって、神様の罰を受けてくださいました。イエス様は、三日目によみがえり今も生きておられます。そしてイエス様は、イエス様を信じる全ての人の罪を赦してくださるのです。だから僕たちは、神様の前に「ごめんさない」と悔い改めて、イエス様の救を信じて歩みましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様は、罪を犯した女の人の心を見てくださり、赦してくださいました。イエス様、僕たちの罪をお赦しください。イエス様を信じて歩んで行きます。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」        ヨハネの福音書8章11節

<適用>
 私が中学生のところ、クラスで問題があり全員が担任に注意されるということがありました。問題行動について、先生が一人ひとりに確認をします。私の番となり、私は「問題となることはしていません」と答えました。すると担任は、「正直に答えなさい」と、私の言葉を信じませんでした。すると何人かの友だちが「赤松はしていませんよ」と証言してくれました。複数の証言で担任は、理解してくれました。
 今日の箇所では、イエス様の前に連れてこられた女性に対して弁護してくれる人がいなという状況となりました。そこには、律法学者やパリサイ人たちの悪巧みがありました。ヨハネ8章1-11節の出来とは、福音書全体の中で実際にどこに位置するのか判明していない事柄です。また、この部分を含まない古い写本がありますし、同じことが全く違う箇所に挿入されている写本も多くあるそうです。ですから新約聖書では鍵括弧のなかに入っているのです。しかし、この出来事は、イエス様のご生涯の中で起こったのは間違いのないことです。この一連の出来事の中で、イエス様は、「愛と赦しの宣言」をしてくださいました。

Ⅰ;恥を覆ってくださる

 イエス様は、「愛と赦しの宣言」をされました。それは、私たちの恥を覆うこととなりました。8章1節では「オリーブ山に行かれた」とありますから、イエス様はいつものようにオリーブの園で夜を過ごされたのです。そしてイエス様が教えておられたのは、エルサレムの神殿と言う事になります。どうしてイエス様がエルサレムにおられたのか、このエルサレム滞在がイエス様の公生涯の中でいつの頃なのか誰にもわかりません。ただはっきりしていることは、イエス様がエルサレム神殿で教えておられる時に、この出来事が起きたと言う事です。
 律法学者やパリサイ人たちが一人の女性を連れてやってきました。その女性とは、姦淫の現場で捕らえられた人でした。律法学者たちは、女性を人々の真ん中に置いて「旧約聖書の律法では、姦淫の罪を犯した者は石打の刑(死刑)にするように定められている。あなたは何と言われるか」とイエス様に問いかけました。申命記22章23-24節には、姦淫の罪を犯した男女とも石打にされなければならないと言われています。

 姦淫の罪とは、結婚相手以外と性的な関係を持つことです。神様は、「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである(創世記1章24節)」と教えています。神様は、結婚した二人の間に性的な関係をお許しになり、結婚を祝福されました。姦淫はこの神様の祝福を台無しにする行為です。性的な関係が結婚した二人に与えられた祝福ですから、結婚する前にそのような関係を持つこともまた神様に対する罪となります。今は、恋愛関係にありお互いに好きならば、性的な関係を持っても良いではないかと言われる時代です。しかしそのような考え方は、サタンに支配されたこの世の考え方です。神様の恵みからは遠く離れてしまうことになります。私たちは、主の前に注意しつつ、若い人たちが誘惑から離れ、神様によって守られるように祈りましょう。

 イエス様の前に引き出された女性はどうなったのでしょうか。そもそも律法学者たちは、女性しか連れて来ませんでした。本当ならば、相手の男性も連れだされなければならないはずです。しかし女性だけが引き出されてきました。このことからも彼らの訴えは、明らかに悪意のあるものであることがわかります。彼らは、イエス様を捕まえる口実を見つけようとしたのです。当時のローマの社会では、死刑を宣告できるのはローマ政府だけでした。もしここでイエス様が、死刑を認めれば、ローマ政府に対しての犯罪行為となり、イエス様を捕まえるチャンスとなります。またイエス様が、女性を赦すと言えば、石打を定めているユダヤ律法を守らず神を冒涜する者と言う事になります。イエス様は、律法学者たちの思惑をご存知で、身をかがめて地面に何かを書かれたのです。

 イエス様が座って地面に書かれたのは、律法学者たちの訴えを無視する行為となりました。しかし、私はこのイエス様の行為の中に、私たちの恥を覆ってくださるイエス様の憐れみを見出すことが出来るのです。姦淫の現場で捕らえられたということは、この女性にとって相当恥ずかしいことです。誰も堂々とそんなことはしないし、隠れて、誰にも知られないようにと行動するでしょう。なぜならそれは、自分の行いが恥ずかしいことだと知っているからです。この女性もそうでした。しかし彼女は、捕らえられただけではなく、人々の前に連れ出され、さらし者にされたのです。イエス様は、そんな女性の側に近寄り座ってくださったのです。このイエス様の行動は、女性にとってどれほど嬉しかったことでしょうか。イエス様は、彼女の恥を覆い、彼女を憐れんでくださったのです。

 私たちは、神様を信じて御言葉に従って歩みたいと願いつつも、失敗をしてしまう者です。また私たちは、恥ずかしい思いを経験することがありますし、罪の誘惑に流されてしまうこともあります。時には、立ち直りに時間のかかる時もあります。そんな時イエス様は、私たちにどのように接してくださるでしょうか。イエス様は、私たちが失敗や罪に押しつぶされ、恥を感じていることを知って、私たちの傍らに腰を下ろして、語りかけてくださるのです。詩篇71篇1-3節に「主よ 私はあなたに身を避けています。私が決して恥を見ないようにしてください。あなたの義によって私を救い 助け出してください。・・・。私の避け所となってください。いつでもそこに入れるように。」とあるように私たちは、神様のもとに身を避けることができ、イエス様は私たちの恥を覆ってくださいます。私たちは、このように愛と赦しを宣言してくださるイエス様と共に歩むことが出来ます。

Ⅱ;自分を見つめさせる

 「愛と赦しの宣言」をされるイエス様は、私たちの心に語りかけ、私たちが自分自身の心を見つめるようにと導いて下さいます。
 イエス様が身をかがめ何かを書き、女性に話している間、律法学者たちは、しつこく問い続けました。そこでイエス様は、「罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい(7節)」と言われました。この言葉が発せられた瞬間、大声で訴えていた人たちは、訴えられる立場になったのです。イエス様は、「女性の罪を暴き、裁きを訴えるあなたがたはどうなのだ。あなたがたには罪がないのか」と訴えたのです。イエス様の言葉をきっかけに、その場にいた誰もが嫌でも自分を見つめ直すことになりました。その結果、年長者から始めて、みな徐々にその場を離れたのです。その場にいた誰一人として、自分は正しい者だと言い切れる人はいなかったのです。女性を訴えていた人たちは、みな離れていき、イエス様と彼女だけが残されました。

 律法学者たちへのイエス様の言葉は、私たちへの戒めの言葉でもあります。人は、とかく他人の罪や欠点、短所などには敏感に反応するものです。けれどもいざ自分のこととなると、甘くなり、自己正当化を始めます。イエス様は、私たちが自分の罪に気づき、悔い改めに導かれるために、私たち自身が自分の心を見つめるようにと促してくださるのです。私たちが、もし自分の罪に気づかないとしたらどうなるでしょうか。私たちは、高慢になり、人の罪や失敗を責めてばかりいることとなるでしょう。私たちが自分を正当化し始めたら、聖書の御言葉に耳を傾けなくなります。御言葉を通して罪が指摘されても、それを自分ではなく他の人に当てはめてしまうこともあるでしょう。その結果私たちは、他人のあら捜しや、欠点を見つけることに敏感になり、自分の罪には鈍感になっていくのです。

 パウロは、ローマ人への手紙2章1節で、「すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。」と警告をしています。ですから、私たちは、イエス様が勧めてくださっているように、自分自身の心を見つめ、悔い改めるべき罪があるかないかを確認することが必要となります。あなたには、悔い改めるべき罪がないでしょうか。イエス様は、罪を認め悔い改める者に愛と赦しを宣言してくださいます。

Ⅲ;私たちの罪を贖う

 「愛と赦しの宣言」をしてくださるイエス様は、私たちの罪を贖ってくださる方です。
 姦淫の女性を訴えていた人たちは、みな彼女を置いて宮を出て行きました。イエス様は、そのことを確認して「わたしもあなたにさばきを下さない(あなたを罪に定めない)」と言ってくださいました。このイエス様の言葉は、彼女の罪を責めないと言う事でも、彼女の罪がなかったかのように罪を見過ごすと言う事でもありません。イエス様は、彼女の罪を認めつつも彼女の悔い改めの心を見られたのです。さらにイエス様の宣言は、イエス様の十字架と深いつながりがあります。イエス様は、この女性を含めて全ての人類のために十字架につけられ、罪の贖いをしてくださるのです。その救いの恵ゆえにイエス様は、さばきを下さないと言われたのです。

 イエス様は、姦淫の現場で捕らえられた女性だけではなく、彼女を訴えていた人たちの罪のためにも十字架上で神の罰を受けてくださったのです。さらにはイエス様の贖いは、私たち一人一人のためでもあります。このイエス様の十字架の身代わりという贖いがあるからこそ、私たちは自らの心を見つめることが出来、罪の悔い改めに導かれるのです。そしてイエス様の贖いがあるからこそ、私たちの罪の恥が覆われ、慰めを得られるのです。

 もし自分の心に罪を見出したなら、素直に神様の御前に罪を悔い改めましょう。悔い改めとは、180度向きを変えることです。私たちは、罪に目を向けて誘惑に心を奪われるのではなく、神様に心の目を向け悔い改めて信仰を表明することが大切です。イエス様は、信じる全ての人に対して「あなたの罪は赦された。あなたにさばきを下さない。罪に定めない」と「愛と赦しの宣言」をしてくださいます。このイエス様の愛と赦しの宣言をいつも受け取りながら歩みましょう。そして私たちは、イエス様から愛と赦しの宣言を受けた者として、イエス様の言われたように「これからは、決して罪を犯さない」歩み、神様の御心に従って歩むことが出来るように祈りましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様、私たちは罪によって神様の御心から離れてしまいやすい者です。どうか私たちの罪をお赦しください。私たちが罪を離れ、神様に喜ばれることを行い続けることが出来るように導いてください。
 イエス様の愛と赦しの宣言を受け取りながら歩む日々を過ごすことが出来るように祝福を注いでください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」