<子どもたちへ>
皆さんは、家にお客さんが来たことがありますか?我が家ではお正月に家族が集まったりしました。お客さんが来ると、家をきれいに掃除したり、お料理や飲み物を用意したり、なかなか忙しいものです。大変だなあ、と思うこともあります。でも大変だけれど、家がきれいになって良かった、と思うことにしています。
さて今日は、イエス様が自分の家に来ることになった2人の女の人たちのお話です。どんな風にイエス様をお迎えしたのでしょうか?見ていきましょう。
ある村にイエス様とお弟子さんたちが入っていきました。すると、マルタという女の人がニコニコしてイエス様に言いました。「イエス様、ようこそいらっしゃいました。お疲れでしょうから、どうぞ私の家に来てお休みください。おいしいお食事も作らせていただきます!」そう言ってイエス様一行を家に案内しました。「さあ、まずはお料理をしこまなくっちゃ!」マルタは大張り切りです。「お水もくんでこなくちゃいけないわ。マリア、マリア!…あら?どこに行ったのかしら?」マルタが姉妹のマリアを探すと、マリアはイエス様のそばに座り込んでお話を聞いています。それを見るとマルタはイライラしてきました。
(私がこんなに忙しいのにマリアったら!イエス様もイエス様だわ!)そう思ったマルタはプンプンしてイエス様に言いました。「イエス様、私の姉妹が私にだけ働かせているのを何とも思わないのですか?私の手伝いをするよう言ってください!」…よくこんなことをイエス様に言えたものだなあ、と思いますが、マルタは本当に言ってしまったのです。
しかしイエス様はマルタの顔を見て優しく言いました。「マルタ、マルタ。あなたはいろいろな気づかいで心を乱していますね。でも必要なことは一つだけなのですよ。マリアはその良い方を選んだのです。」
これはイエス様のそばでお話を聞くことこそ本当に必要なことだ、という意味です。イエス様はなぜマルタとマリアの村まで来られたのでしょう?それは罪を悔い改めてイエス様を信じることで赦される、という福音を知らせるためです。イエス様に会えるチャンス、そして福音を聞くチャンスは少ないのです。それを聞いて信じることこそがマルタとマリアにとってどうしても必要なことです。また、イエス様が本当に望んでおられることです。マルタのもてなしは素晴らしいことですが、そのせいでイエス様の救いの福音を後回しにして聞きそびれたら、意味がないのです。イエス様はそのことを、優しくマルタに教えてくださいました。
私たちはどうでしょうか。あれもこれもと心が乱れ過ぎていないでしょうか。こうだったら素晴らしい、あれもしたい、とつい頑張りすぎてしまいがちです。その結果、人を責めたり神様に文句を言いたくなって、失敗してしまいます。私たちがどうしても必要なのは、イエス様から救いを頂き、イエス様のお言葉に養われて生きていくことです。マリアのように本当に必要なただ一つのほうを選んでいきましょう。イエス様もそれを望んでおられるのです。
<祈り>
「神様、今日の礼拝をありがとうございます。イエス様のみことばをしっかり聞くことの大切さを教えてくださり、ありがとうございます。自分の理想を追求するよりも、イエス様が望んでおられることを大切にして行きたい、と教えられました。イエス様に心を向けて歩ませてください。御名によってお祈りいたします。アーメン。」
「必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」 ルカの福音書10章42節
<適用>
今日はマルタとマリアの記事です。場所がはっきり書かれておりませんが、恐らくはベタニア村、死からよみがえらせていただいたラザロの姉妹と考えて差し支えないでしょう。そして、もしかしたらこの箇所はイエス様と出会って間もない頃のことだったかもしれません。わずか5節のお話ですが、私たちに大切なことを教えてくれます。それは、イエス様と生きる時間をどう過ごすか、ということです。それは彼女たちのイエス様の迎え方、仕え方のうちに見ることが出来ます。今日主は、本当に必要なことを選び取って生きるようにと、私たちにも語っておられます。共に学んで参りましょう。
1.マルタの仕え方
38節を見ますと、村に来られたイエス様一行を、マルタが家に迎え入れました。これは彼女の発案ですから、張り切っていたことでしょう。
大切な客人をお迎えするということで、当時の礼儀にのっとって足を洗い、家の主人(姉妹の父か、兄弟ラザロか、不在ならマルタ自身でしょうか)が客人の頭に油を注いだことでしょう。そしてここからが主イエス様訪問の目的になりますが、みことばが語られたのです。当時ユダヤ教の教師ラビの話に同席したのは男性たちがメインだったと考えられます。女性たちは食事の支度にあたるのが当然と考えられていました。
しかしそこで、姉妹たちの行動に差が出ました。イエス様を招き入れた当人であるマルタは、当時の役割分担を当然として台所で立ち働きました。しかしマリアはと言うと、客人の足もとで話を聞くことに没頭していた、と言うのです。これがマルタの心に揺さぶりをかけました。
聖書は彼女の心について記しています。「マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず...」(40)。そのいらだちが、傍目にも見て取れるほどだったのでしょう。ついに彼女はイエス様に不平を言ってしまったのです。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
これはマリアにはきつい一撃だったでしょうし、イエス様に対して失礼な物言いです。不穏な空気が流れました。
もてなし、と訳されていることばは「仕える」という意味があります。本来イエス様に良い奉仕をしていたはずなのに、マルタの思いはすっかり乱れました。イエス様への態度も乱れ、この度の訪問も台無しとなりかねませんでした。イエス様への奉仕を捧げている最中にも、このような心の乱れ、誤った態度に陥る危険が私たちにはあるのです。本当に注意深くなければなりません。
しかしイエス様はマルタを叱らず、諭すように語られました。親愛の情を込めて「マルタ、マルタ」と呼び、言われました。「あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです」(41,42)。マルタは自分の心が乱れたのは、マリアのせいだと思っていたことでしょう。しかしイエス様は、彼女の心の乱れの大元は、内に抱えている思い煩いだ、と指摘なさったのです。食事の支度、という事情だけでない、彼女が引き受けていた多くの事柄が、神のことばの妨げになるほど肥大していた、ということではないでしょうか。
皆さん、私たちはどうでしょうか。それぞれが、これをしなければならない、これも大切だ、と多くの事柄を抱えていることと思います。そのいくつもを両立すべく、私たちは戦っています。しかしその戦いの中で、マルタと同じ過ちを犯す危険がいつもあるのではないかと思わせられます。この時のマルタは、マリアを従わせ、イエス様すら支配しようとしてしまいました。
この過ちから守られるには、主が望んでおられるのは何か、に立ち返って整理することです。手の中に抱えているものを置いて、主の下さるただ一つのものを受け取るのです。それは前向きな意味で何かを諦める、ということなのかもしれません。「ただ一つのこと」と相容れない現実は手離す勇気が必要なのでしょう。
主はマルタにも平安を与えたいと願っておいででした。思い煩い心乱れやすい、そんな者に語りかけるために訪れて下さったのです。彼女は手を休め、みことばを聞くことに時を割くことが必要だったのです。
私たちは、主が下さる最良のものを見失うことがないようにしたいと思います。主の優しく諭す警告に心を留めて歩みましょう。
2.マリアの仕え方
マルタとマリア、どちらが姉でどちらが妹か、実は聖書には書かれておりません。2人の関係性から、マルタがお姉さんなのではないか、と読み取ることが多いようです。活発でしっかり者の姉と、内省的で物静かな妹、というイメージでしょうか。マリアは当時の慣例とは異なり、イエス様の足元に座り込んでそのみことばに聞き入っていた、とルカは記します(39)。当時ラビが家に来たなら人々が自由に入ることが出来たと言います。自分の家とはいえ、多くの男性たちに交じってラビの足元に座ることで、奇異の目を向けられたことでしょう。もちろん食事の支度に加わらないことで、マルタのご機嫌も損ねる危険もありましたし、実際その通りになりました。
マリアが鈍感な人だった、とは私は思いません。むしろ、他者の目に良く思われないことを分かったうえで、この行動をとったのだと思います。何故でしょうか?イエス様はそれを「彼女はその良いほうを選んだ」(42)と言われました。彼女が意識的に選んだのです。周りに波風立てない生活、立派に役割を果たしているという賞賛と承認。それらを捨てて、イエス様のみことばを聞くことを選んだのです。彼女にはイエス様が語られる罪の赦しと滅びからの救い、永遠の命の福音が、どうしても必要だったのです。彼女はそれに飢え渇いており、何としても教えを受けたかったのです。みことばを聞くために、彼女もまた戦っていたのです。
主のみことばを聞くための戦いを通って来た女性は、この日本にもおりました。皆さんもご存知の細川ガラシャ夫人という方がいます。彼女は戦国大名細川忠興の正室でしたが、父明智光秀の謀反が失敗により、過酷な日々を過ごすことになります。その中でキリスト教に関心を持ち、洗礼を受けキリスト者として生きることになりますが、彼女が教会に行った回数は何回だったかご存知でしょうか。実は、生涯にただ一回だけしか行けなかったというのです。夫忠興が豊臣秀吉の九州征伐に同道した留守の時に、秘密裏に大阪の教会に出向いて教えを受けたそうです。彼女は対話の中で洗礼を強く望んだそうですがその時は叶わず、後に先に信者になった侍女を通して洗礼を受けています。その後再び教会に行くことは叶わなかったといいますが、彼女の飢え渇きに神様は答えて下さり、以後彼女は信仰に支えられて生き、最後には悲劇的な死を迎えます。あの時代を真摯にみことばを求め救いを求めた姿に、今も私たちは感銘を覚えるのではないでしょうか。
マリアの姿はマルタ的に見ると「ちっとも動こうとしない困った人」となってしまいますが、それが間違っていることは既に見ました。ガラシャ夫人も当時の武家社会の常識からしたら困った行動だったでしょう。しかしマリアもガラシャ夫人も、戦って戦って、本当に求めた者を得ることが出来ました。そして主が最も望まれることを選びました。主イエス様が十字架に命を捨ててまで成し遂げようとしている救い。それを真剣に受け止める以上に、主が望んでおられることはありません。彼女たちは聞くことで主に仕えたのです。そして彼女たちが求めてやまないただ一つのもの、神からの救いを手にしたのです。
聖書に戻りますが、イエス様は旅から旅へ移動され、次にみ教えを受けられるのはいつか、保証はありませんでした。もしかしたらわずかに1~2時間で去って行かれるかもしれなかったのです。マリアは限られた時間の中で、最も必要としていた救いを優先して求めました。
現代の私たちの人生でも、真剣にみことばに向かい合える時間と機会は実は有限かもしれません。いつか時間が出来たら、いつかチャンスがあれば、では機会を失ってしまうかもしれません。今この時、主のもとに集いみことばに向かい合いましょう。マリアのように貪欲に「主よ、教えて下さい。語って下さい」と求めましょう。主は「それが彼女から取り上げられることはありません」(42)と約束して下さいました。戦いは尽きませんが、主に聴くことを選ぶ私たちとならせて頂き、祝福をうけさせて頂きましょう。
<祈り>
「天の父なる神様、マルタとマリアの姿から学ぶ時をお与え下さりありがとうございます。私たちは皆、それぞれ多くの責任を負っております。しかし多く抱え過ぎて、主に向かうことを妨げるほどに肥大していないか問われました。あなたが語ろうとなさるとき、多くのものを脇において、その御声に聞き入る私たちとなれますように、お導き下さい。主に聴くことの戦いを厭わぬ私たちとならしめてください。主イエス様の皆によってお祈りします。アーメン。」