2024年12月1日(日)アドベント第1週 礼拝説教 ルカの福音書1章67-80節 「約束を成就される神」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>
 教会では、今日からアドベントという期間に入ります。アドベント(待降節)というのは、救い主イエス様の誕生を記念し喜び感謝して心から礼拝するという期間です。先週クリスマスの飾りつけをしましたね。これもクリスマスを迎える大切な準備の一つです。クリスマスと聞くと、ケーキやプレゼントと思い浮かぶでしょうか。それも大切なことかもしれませんが、クリスマスはイエス様の誕生日という最も大切な時です。今日は、イエス様の誕生のために神様が準備をされたことを見ることにしましょう。神様は、旧約聖書の時代から救い主イエス様のために準備をしておられましたが、ルカは具体的な神様の準備があったことを教えています。

 エルサレムの神殿で神様のために奉仕をする祭司の中にザカリヤと言う人がいました。奥さんはエリサベツです。二人は、子どもが与えられるように祈っていましたが、子どもが与えられないまま年を重ねて、おじいちゃんとおばあちゃんになりました。ザカリヤとエリサベツの二人は、心から神様を信じ従っていました。ある時、「さあ、エルサレムの神殿で神様の前で奉仕をする人を決めよう。」と声がかかりました。祭司たちは、いくつかのグループに分かれていて、当番で神殿の仕事をしていたのです。「今回は、だれが神殿に入って神様の御前で香をたく奉仕をするのだろうか。」みんなドキドキしながら、くじ引きをします。「あ~外れた。今回も当たらなかった。」とみんな残念そうでした。その中で「自分が当たりました。」と祭司のザカリヤが手を上げました。ザカリヤは、この特別な役目に喜び感謝にあふれて神様の御前に祈りをささげていました。

 すると「ザカリヤ。ザカリヤ。」と呼ぶ声が聞こえます。なんと目の前に主の使いが現れたのです。「あーー、私は死んでしまう。神のみ使いを見てしまった。」とザカリヤは恐れました。当時は、神様を直接見た者は滅ぼされると言われていました。ぶるぶる震えているザカリヤに対してみ使いが言います。「怖がることはありませんよ、ザカリヤ。あなたの祈りが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みますよ。名前はヨハネと名付けなさい。その子は、あなたがたにとって喜びとなります。そして神様のために大切な働きをするようになります。」
 「いや~待ってください。もう私たちは年寄りです。エリサベツは子どもを産むことなど出来ません。そんなことが起きるなんて何によって証明されるのでしょうか。不可能ではないでしょうか。」思わずザカリヤは言ってしまいました。み使いは、言いました。「私は、主なる神様に仕えるみ使いガブリエルです。神様から良い知らせを伝えるために遣わされたのに信じないのですね。分かりました。それでは子どもが生まれるまでザカリヤ、あなたは口がきけなくなり、何も話すことが出来なくなります。」その瞬間からザカリヤは、み使いの言葉の通り何も話をすることが出来なくなってしまいました。

 しばらくして、エリサベツは身ごもりました。そして男の子が生まれました。名前を付ける時、人々は父親の名前をつけようとしました。けれどもザカリヤは、板をもってきて「その子の名前は『ヨハネ』」と書いたのです。バプテスマのヨハネの誕生です。そしたら、ザカリヤはまた話をすることが出来るようになって喜びと感謝の賛美をしました。この時生まれたヨハネは、人々に神様の御前に悔い改めることを教え、イエス様のお働きのために準備をする人となりました。
 神様は、ザカリヤとエリサベツの二人を忘れないで、二人に大きな恵みと祝福を与えてくださいました。神様は、僕たちのことを忘れず、大きな祝福を与えて真実をもって確かに守り導いてくださいます。そのことを信じましょう。そしてイエス様のことを知っているみんなは、お友達にイエス様の救い、神様の愛を伝えるという素晴らしい働きが出来ます。お友達にイエス様のことを伝え、お友だちがイエス様を信じ、罪の赦しを受けることが出来るように祈りましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様は、イエス様が生まれる前に、バプテスマのヨハネの誕生という準備をされました。ザカリヤとエリサベツを覚えていた神様は、僕たちのことを忘れず、導いてくださることを感謝いたします。クリスマスを迎えるこの時、神様の愛に感謝し、救い主イエス様を心にお向けして歩むことが出来るように導いてください。お友だちが教会に来ることが出来、イエス様を信じることが出来るように導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「ほむべきかな、イスラエルの神、主。主はその御民を顧みて、贖いをなし、救いの角を私たちのために、しもべダビデの家に立てられた。」
                              ルカの福音書1章68-69節

<適用>
 今年も早いもので、アドベント第1週目を迎えました。先週はクリスマスの飾りつけにご協力くださりありがとうございました。私が子どもの頃、私の母教会では、パーティーのようなクリスマスの飾りつけをしていました。私が中高生の時に、中高生会を中心に飾りつけをさせてもらいました。私たちは、教会にある飾りをすべて飾りましたが、毎年同じような飾りではつまらないだろうと考えました。私は、「この壁には何を飾ろうか、階段の手すりはどうしようか、窓ガラスに何か出来ないだろうか」などと毎日考えました。そして考え付いたものをすべて飾りました。毎日増えていくクリスマスの飾りにとうとう牧師から「もう十分だから増やさなくてもよい」という声がかかり、渋々止めたことを覚えています。クリスマスは、教会にとって大切な時ですが、私にとっても、とても楽しいイベントの一つでした。
 今年もクリスマスの季節を迎え、共にイエス様の誕生をお祝いできる恵みを心から感謝します。神様は、救い主イエス・キリストを約束の通りに世に遣わされました。

Ⅰ;私たちを顧みてくださる

 救いの約束を成就される神様は、私たちを顧みてくださるお方です。ザカリヤは、御使いの言葉の通りに、生まれた子どもを「ヨハネ」と名付けました。すると彼は、口が開かれて話始めることが出来ました。そしてザカリヤは、聖霊に満たされ開口一番主なる神様の御名を賛美するのです。
 ザカリヤは、最初、御使いを通して語られたことを信じることが出来ませんでした。ザカリヤの「そのようなことを、何によって知ることができるでしょうか(18)」の言葉は、そんなことは信じられないし、それが起こる証拠は何かと言うことでした。ザカリヤは、不信仰ゆえに神様の言葉を信じることが出来ず、神様からの証拠をもとめたのです。その結果、そのしるし(証拠)として、ヨハネが生まれるまで話をすることが出来ないということとなりました。
しかしザカリヤは、話せない期間たくさんのことを思い巡らしたのではないでしょうか。特に与えられる子どもが「エリヤの霊と力で、主に先立って歩みます(17)」という御使いの言葉に現れている神様のご計画を思い巡したことでしょう。そしてザカリヤは、イザヤ書40章の御言葉を思い出したに違いありません。今日の交読文で読みましたが、イザヤ書40章には「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。荒れ地で私たちのために、大路をまっすぐにせよ。すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平になる(イザヤ40:3)』」とあります。これは救い主が来られる前に準備をする者が現れ、救い主のために道を備えるということです。御使いは、この預言の成就の時がやって来たのだと語りました。ザカリヤは、イザヤの言葉を思い巡らいつつ、救い主預言の成就の時がいよいよやって来るのだと知ったのです。だから彼は、ヨハネの誕生の時に「ほむべきかな、イスラエルの神、主。主はその御民を顧みて、贖いをなし」と心から喜びをもって主なる神を賛美するのです。

 このザカリヤの賛美の中には、ザカリヤがイザヤの預言の言葉だけではなく、神様がアブラハムと結んでおられた契約の言葉にも心を向けていたこと、またイスラエルの歴史の中で明らかにされた神様の数々の憐れみと導きを思い巡らしたことがちりばめられています。神様は、アブラハムと結んだ契約「地のすべての部族は、あなたによって祝福される(創世記12章3節)」を覚えておられました。そして神様は、ダビデに対して「あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王国はとこしえまでも堅く立つ(Ⅱサムエル7章16節)」と約束しておられました。そして預言者イザヤは、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ(イザヤ書11章1節)」と預言しました。神様は、これら救い主に関する約束の一つひとつを確かに覚えてくださっていました。

 神様は、今も私たちのことを覚えていてくださり、顧みてくださいます。「顧みて」と訳されたギリシャ語には、「目を覚ます、起こす、復活させる、引き上げる」などの意味があります。ここでザカリヤは、主なる神様が、私たちのことを心に留めて顧みてくださり、起き上がらせてくださり、引き上げてくださるお方であると歌います。救い主イエス・キリストを遣わすという約束を成就するお方は、私たちのことを顧みてくださり、私たちを罪とサタンの支配から解放し起き上がらせ、引き上げてくださるお方です。神様は、あなたのすぐそばにいて救いを与えてくださるお方です。信じて主を見上げましょう。

Ⅱ;道を整えてくださる

 救いの約束を成就される神様は、私たちのために救いの道を備えてくださいました。バプテスマのヨハネの誕生です。このバプテスマのヨハネは、御使いの言葉によると「主の御前に大いなる者となり、ぶどう酒や強い酒を決して飲まず、まだ母の胎にいるときから聖霊に満たされ、イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます(ルカ1:15-16)」と言う働きをします。

 ザカリヤは、ヨハネが生まれるまでの期間、御使いの言葉や旧約の預言の言葉を思い巡らし、主の御心を求めていたからこそ、ヨハネに与えられる使命を確信することが出来ました。だからザカリヤは、神への賛美の中で「幼子よ、あなたこそ、いと高き方の預言者と呼ばれる。主の御前を先立って行き、その道を備え、罪の赦しによる救いについて、神の民に知識を与えるからである(ルカ1:76-77)」と歌うのです。
 その言葉の通りにバプテスマのヨハネは、ヨルダン川で宣教し、救い主の前触れをするのです。また旧約聖書の最後マラキ書4章5節には「見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」と預言されていました。この預言は、バプテスマのヨハネのことで、イエス様は、バプテスマのヨハネこそ来るべきエリヤだと言われました(マタイ11:12-14)。ヨハネは、救い主ではありませんでした。ヨハネ自信が「私は、水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません(ヨハネ1:26-27)。」と証言しています。バプテスマのヨハネは、人々に救い主イエス様を指し示す役割を果たしました。まさに、人々の心を神に向けさせる働き、救い主のために人々の心を整える働きです。バプテスマのヨハネは、その生涯の中でイエス様を前面に押し出し、人の歩みはイエス様によって確かにされることを信じていたのです。

 ヨハネは、私たちのために救いの道を整えてくれました。私たちが、この地上にお生まれくださったイエスこそ、救い主と信じることが出来るためです。神様は、このように私たちの心にも大路を整え、心の様々な思いを平らにして平安を与えてくださいます。あなたの進むべき道を主なる神様にゆだねませんか。神様は、あなたのために道を備えてくださいます。
 そしてバプテスマのヨハネの姿から私たちが覚えるべきことはもう一つあります。それは、イエス様を証しするということです。クリスマスを迎える今、私たちは、自分の生活の真ん中に、人生の真ん中に、そして教会の真ん中にイエス様をお迎えしましょう。その時、イエス様が私たちの前面に立って、ご自身の栄光を現してくださいます。 

Ⅲ;私たちを訪れてくださる

 救いの約束を成就される神様は、私たちのためにイエス様を遣わしてくださいました。イエス様は、私たちを訪れ、私たちの只中に来てくださいました。
 ザカリヤは、ヨハネの使命を明らかにした後、次のように歌います。「これは私たちの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く(ルカ1:78-79)」
 78節の「訪れ」は、68節の「顧みて」と同じギリシャ語の言葉が使われています。と言うことは、救い主イエス様は、私たちを罪とサタンの支配から救い出し、引き上げ、立ち上がらせ、新しい命に生かしてくださるということです。そのために救い主は、私たちの光となって私たちを照らすのです。79節は、イザヤ書9章2節の預言の成就の宣言です。イザヤは、「闇の中を歩いていた民は 大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に 光が輝く。」と預言していました。
 私たちは、罪の暗闇の中を手探りして歩まなくて良いのです。何の希望もないとうなだれる必要もありません。私たちは、イエス様を信じる前は、自分の考えや価値観を中心に好きなように生きていると思っていたことでしょう。しかしそのような生き方は、実は、不安と恐れに縛られ、希望を見出そうと懸命になり、光はどこかと探し求め続けるものだったのではないでしょうか。だから人は、自分の気持ちを紛らわすためにお酒におぼれ、ギャンブルにはまり、欲望を満足させることに時間を費やすのです。それでも本当の解決を見出すことは出来ません。

 神様は、闇の中に、死の陰に輝く大きな光を与えてくださいました。それが救い主イエス様です。イエス様は、私たちが闇の中を歩き、死の陰の地をさまよい歩いていることを知ってくださいます。そして救い主イエス様は、私たちを顧み、訪れてくださるのです。と言うことは、イエス様ご自身が私たちの人生を一緒に歩んでくださるということです。なんという救い、なんという恵みでしょうか。私たちは、「イエス様、私と一緒に人生を進んでください。私の足を平和の道、平安の道に導いてください。私をイエス様の光で包んでください」と祈りつつ歩むことが出来ます。その一歩を踏み出しましょう。
 救いの約束を成就される神様は、私たちを顧みてくださいます。約束を成就される神様は、ヨハネを通して救い主の道を準備してくださったように、私たちの人生の道を整えてくださいます。約束を成就される神様は、私たちを訪れ、引き上げ、立ち上がらせ新しい命に生きる者としてくださいます。イエス様は、私たちの人生を照らし、導き、平安を与えてくださいます。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様は、旧約から語られて来た救いの約束を忘れず、その前触れとしてバプテスマのヨハネを遣わされました。神様が私たちを顧みてくださり、訪れてくださり、立ち上がられ、新しい命に生かしてくださることを心から感謝いたします。私たちは、イエス様の大きな光に照らされ、希望をもって歩むことが出来ます。イエス様、私たちの人生を一緒に歩んでください。
 クリスマスを迎えるこの時、この救いの恵みを多くの人に証しすることが出来るように導いてください。私たちの家族、友人、職場の人たちが、イエス様を信じ、心に平安を得ることが出来るように導いてください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」