2024年12月22日(日)クリスマス礼拝 ルカの福音書2章8-20節 「栄光神に 平和地の上に」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>
 メリー・クリスマス!!クリスマスおめでとうございます。私たちの救い主イエス様の誕生を心から感謝します。
 クリスマスを迎えると、「クリスマスケーキ」とか「クリスマスプレゼント」とかいろいろなことがありなんかワクワクしますよね。特に皆は、クリスマスプレゼントを期待しいるかもしれません。一番のクリスマスプレゼントは神様がすでにくださっています。イエス様がダビデの町ベツレヘムで生まれた日の夜のことです。そのことが羊飼いたちに伝えられました。

 「今日も一日ご苦労様。」、「羊たちも全員いるし、皆、良く眠っているよ。」、「僕たちも夜番をしながら順番に寝ることにしようか。」羊飼いたちが、夜、焚火を囲み羊たちを見守りながら話をしています。すると突然主の栄光が羊飼いたちを照らしました。なんと御使いが現れたのです。とってもまぶしい光に包まれて羊飼いたちは、心臓が飛び出るのではないかと思うほどビックリしました。
 御使いは言いました。「怖がることはありませんよ。私はこの民全体に与えられる、大きな喜びを知らせに来ました。今日、ダビデの町ベツレヘムで救い主がお生まれになりました。この方こそ救い主キリストです。ベツレヘムに行くと布にくるまれて飼い葉桶に寝ている赤ちゃんを見つけることが出来るしょう。」羊飼いたちは、目を丸くしたまま、何も言えずに見上げています。すると今度は、天の軍勢が現れました。聖書には「おびただしい数」とありますから、数えることも出来ないほどの大軍勢が現れて神様を賛美しました。その賛美の言葉が今日の聖句です。週報にありますから一緒に読みましょう。「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和が みこころにかなう人々にあるように(ルカの福音書2章14節)。」このように賛美して御使いと天の軍勢は、羊飼いたちから離れていきました。

 御使いが去ったあと、羊飼いたちは、また暗い夜の中にいます。でも羊飼いたちは、喜びでいっぱいでした。そして「みんな、ベツレヘムに行こう。救い主がお生まれになったんだから礼拝に行こう。」、「そうだね、御使いが教えてくれたことをちゃんと確認しよう。」、「目印は、家畜小屋にある飼い葉桶だ!」羊飼いたちは、急いでベツレヘムの町に行って、「すみません。今日家畜小屋で赤ちゃんが生まれませんでしたか?」聞いて回りました。「この家畜小屋かな?いや誰もいないや」、「こっちの家畜小屋も動物だけだよ。」一生懸命探し回ります。そして、「この家畜小屋だ、飼い葉桶の中に赤ちゃんがいるよ。」ようやく見つけました。「やった、見つけた!」、「この子が救い主キリスト様か!」羊飼いたちは、家畜小屋に入って生まれたばかりのイエス様にお会いし、御使いの言葉をヨセフとマリア、そして町の人たちに伝えました。ヨセフもマリアもびっくりしましたが、マリアは、羊飼いたちの言葉をしっかりと心に留めていました。

 羊飼いたちは、御使いの言葉の通りに救い主イエス様に会うことが出来て、大喜びで神様を賛美して帰っていきました。クリスマス(イエス様の誕生日)は、神様が僕たちの罪を赦してくださるために、救い主イエス様を僕たちにプレゼントしてくれた素晴らしい日なのです。だから、僕たちは、羊飼いのように心からの感謝の気持ちをもって神様を賛美しましょう。

<祈り>
 「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様がお生まれくださったクリスマスを心から感謝いたします。イエス様の誕生を知り、大喜びした羊飼いのように僕たちも喜びをもって神様を賛美します。クリスマスの喜びで満たしてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和が みこころにかなう人々にあるように。」                ルカの福音書2章14節

<適用>
 世界には、「クリスマス島」があるのをご存じでしょうか。一つは、ハワイ諸島から南に三千㎞のところにあるキリバス領のクリスマス島です。1777年12月24日のクリスマスイブの日にキャプテン・クックによって発見され「クリスマス島」とつけられました。もう一つは、オーストラリア領のクリスマス島です。こちらは1615年12月25日に発見され「クリスマス島」とつけられました。
 では、日本にクリスマス市があることを知っていますか?もちろん日本地図に「クリスマス市」を見つけることは出来ません。実は、山口県山口市のことです。山口市は、毎年12月には「クリスマス市」と名乗ります。そして様々なクリスマスのイベントを行っています。なぜかというと、日本で最初にクリスマスが祝われたのが、山口市だからです。
 山口市だけではなく、12月は日本中、世界中がクリスマスのお祝いムードになります。クリスマスを迎えている今、私たちはお祝いムードも良いですが、御使いが賛美したように、神様の栄光が現され、地の上に平和が与えられるように祈りましょう。

Ⅰ;神の栄光の現われ

 クリスマス、それは神様の栄光が現された出来事です。救い主イエス様は、預言者ミカが預言した通り、ベツレヘムでお生まれになりました(ミカ5:2)。救い主がベツレヘムでお生まれになったちょうどその日、ベツレヘム周辺で野宿をしながら、羊を見守っている羊飼いたちがいました。神様は、この羊飼いたちに歴史上はじめて救い主誕生の知らせを伝えることにしたのです。これは、実に素晴らしい憐れみであり、神様の愛の現れです。

 羊飼いたちが飼っていた羊は、ユダヤ人たちが用いるいけにえとして用いられていたことでしょう。羊飼いたちは、ユダヤ人たちに欠かすことのできない羊を飼っていました。けれども羊飼いたちは、ユダヤ人社会では地位が一番低く、見下されていた人たちでした。なぜなら羊飼いは、その仕事柄、ユダヤ人たちが大切に守っている「安息日」を守る事が出来なかったからです。また、エルサレムへの巡礼をしたくても、羊を置いて行くことは出来ないのです。このように羊飼いたちは、ユダヤ人たちが重んじる宗教的な儀式などを守ることは出来ませんでした。そのために羊飼いたちは、ユダヤ教の律法を守らない人たちと見なされていて、羊飼いたちは、ユダヤ人社会の中で軽蔑されていたと言って良いでしょう。おそらく住民登録の対象にもなっていなかったのではないでしょうか。

 しかし神様は、その羊飼いに目を留めて下さり、救い主の誕生を知らせてくださいました。御使いは言いました。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」。そのしるしは、「飼葉桶に寝かせられている」というものでした。もし救い主が王宮や大祭司の家で生まれたとしたら、羊飼いたちは、その知らせを聞いても心動かされることはなかったでしょう。なぜならば、彼らは、そのような地位のある人の家に入ることが出来ないからです。羊飼いたちからすれば、高官や大祭司などは立場が違いすぎるからです。けれども御使いは、救い主が「飼葉桶に寝かせられている」と言うではありませんか。飼葉桶がある場所は、当然家畜小屋です。家畜小屋ならば、羊飼いたちがよく知っている場所だし、近づくことの出来る場所なのです。救い主は、羊飼いが近づき礼拝できる場所、最も低い場所でお生まれになりました。だから羊飼いたちは、御使いの知らせを聞くとすぐ信仰をもってベツレヘムに行き、生まれたばかりのイエス様を見つけ出すことが出来たのです。

 この良い知らせを伝えた御使いは、天の軍勢と一緒になって神様を賛美しました。御使いは、まず「いと高き所で、栄光が神にあるように」と賛美しました。これは、イエス様がお生まれになったローマ帝国にあってはとても力強い宣言となりました。イエス様が生まれた当時は、ローマ皇帝が神であり、絶対的な力を持つ権力者でした。ローマ帝国内では、誰もがローマ皇帝の栄光を賛美していたのです。もちろん羊飼いたちは、人々がローマ皇帝を崇拝するその賛美を聞いていたことでしょう。しかし羊飼いたちは、イエス様がお生まれになった夜、数えきれないほどの天の軍勢が現れて、一斉に「いと高き所で、栄光が神にあるように」と賛美するのを聞くのです。これは、この全世界の中で神様の御名が高められ、神様の権威や威光、力が現されるようにという賛美です。先ほど、クリスマスは、神様からのプレゼントとして救い主イエス様がこの世に与えられた日だと言いました。私たちは、私たちのために救い主を与えてくださった神様の御名を声高らかに賛美し、全ての栄光が神様にあるようにと感謝の歌声をあげるべきなのです。

 羊飼いたちは、賛美しながら帰っていきました。彼らは、人々から見下され、のけ者にされている自分たちに神様が目をとめてくださり、救い主に出会わせてくださったことを喜んだのです。
 羊飼いに目を留めて下さった神様は、私たちにも目を留めてくださいます。夜の暗闇の中で夜番をしている羊飼いを主の栄光が照らしました。主の栄光は、太陽よりも輝き、誰もその光を遮ることは出来ません。神様は、今、私たちをご自身の栄光の光で照らし、包んでくださいます。私たちは、心からの感謝をもって主なる神様を賛美しましょう。

Ⅱ;平和が地の上にあるように

 クリスマス、それは、主を求める人々に神様からの平和が与えられる日です。天の軍勢は、「いと高き所で、栄光が神にあるように」と賛美し、続いて「地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように」と歌いました。今日賛美した新聖歌78番「荒野の果てに」の繰り返しは「グローリヤ インエクセルシスデオ」です。これは、ルカ2章14節の「いと高き所で、栄光が神にあるように」のラテン語となっています。クリスマス、私たちは、まず栄光が神にあるようにと感謝の賛美をささげ、主の御名をあがめます。と同時に、それがあるからこそ、私たちは平和が地の上にあるようにと願うことが出来るのです。今日は、特別賛美で「神よ、たまえ平和を」を歌っていただきました。私たちは、主なる神様による平和が実現するように願い求めましょう。そして願うだけではなく、私たちは平和をもたらす者となることが期待されているのです。なぜなら、救い主イエス様は、私たちと神様との間に平和を回復してくださるからです。

 今日の交読文でイザヤ書42章を開きました。イザヤは「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者(イザヤ42:1)。」と預言しました。イザヤは、救い主イエス様のこと指して預言しているのです。イザヤは、続くイザヤ書42章2節以降で、救い主イエス・キリストがどのようなお方なのかを語っています。「彼は、叫ばす、言い争わず、通りでその声を聞かせない。痛んだ葦を折ることもなく、くるぶる灯芯を消すこともなく、」と語ります。救い主イエス様は、痛んだ葦のように折れ曲がり、倒れるような人生を送っている人を切り捨てることをせず、立ち上がれるように支えるのです。ベツレヘムの家畜小屋にお生まれになった救い主イエス様は、くすぶる灯芯のように生きる力がなく、うなだれしまう人の心の灯を吹き消すことをしません。イエス様は、私たちの心が再び燃え上がり、輝くことが出来るようにと小さな火を見守ってくださるのです。このようにイエス様は、信じる人の心に平安を与え、力を与えてくださるのです。

 クリスマスの賛美と言えば、「きよしこの夜」ですね。この後賛美しますが、この「きよしこの夜」は、作曲がフランツ・グルーバーで、作詞がヨーゼフ・モールです。「きよしこの夜」という曲が作られた時、二人は同じ教会に通っていました。フランツ・グルーバーは教会のオルガニストでした。ヨーゼフは幼い時から美しい声で歌を歌うようになり、教会の聖歌隊で音楽を学びながら賛美をしていました。ヨーゼフの父親は、ヨーゼフが幼い時に家出をしてしまい、どこに行ったのか誰にも分かりませんでした。ヨーゼフは、音楽を学びながら、いつか父親に自分の歌を聞いてもらいたいという願いを持っていました。そんなある日、彼らの通っていた教会のオルガンが壊れてしまったのです。クリスマス祝会の数日前のことです。オルガンが壊れてしまっては、クリスマスの賛美が歌えません。グルーバーは途方に暮れてしまいました。そこで彼は、ヨーゼフに相談しました。
 相談を受けたヨーゼフは、祈りつつ、聖書にあるイエス様誕生の箇所を読み、自分を育ててくれた母親を思い返しながら歌詞を書きました。グルーバーは、書きあがった美しい歌詞を見てすぐにメロディーをつけました。オルガンが壊れていますから、伴奏はギターとなります。グルーバーは、ギターで作曲をします。こうして書きあがったのが「きよしこの夜」です。ヨーゼフの父親がこの曲を聴いたのかどうかわかりませんが、ヨーゼフは寂しい少年時代を過ごしていましたが、イエス様の救いを受けて、心に平安が与えられ、喜びと平和を与えられていたのです。そして父親に届くようにと願った曲が、ずっと歌い継がれ、世界中の人が歌うクリスマスの讃美歌となりました。(とっておきのクリルマスキャロル29-63㌻より/ボビー・ヴォルゲマス、ジョニー・エレクソン・タダ共著、辻紀子訳/いのちのことば者フォレストブック発行)

 今、私たちの心にも主からの平和が与えられます。御使いは「地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように」と歌いました。この平和「シャローム」は、主なる神様から与えられる平和です。そしてこの平和は、「栄光が神にあるように」と深いかかわりを持ちます。と言うのは、私たちは、もともと神様の平和を持っていないからです。多くの人は、神様に対して背を向け、神様なしの生き方をしています。天地を造られた神様を信じないで、神様に背を向けるということは、神様の光に背を向けるということです。そのような人生は、見るものすべてが闇に包まれています。そこには、平安がなく、平和がありません。神様なしの人生は、自我と欲望に満ち溢れるものとなります。そこには、争いが絶えず不安と恐れと絶望しかないのです。
 私たちは、どれほど努力しても神様に近づくことが出来ません。私たちの力や知恵では神様との関係を修復することは出来ないのです。なぜならば、私たちは罪人であり、神様の御心から外れ、私たちを愛してくださる神様を無視し続けるような者でしかないからです。私たちと神様との関係を結び付け、私たちが神様からの赦しを受けられるようにと道を開いてくださったのがイエス様なのです。ベツレヘムに赤ちゃんとして生まれてくださった救い主イエス様は、私たちの闇を照らし、神様と私たちとの間に平和を樹立してくださるのです。

 イエス様の救いを信じる時、私たちは神様との関係が修復され、神様からの平安を与えていただくことが出来るのです。神様の赦しをいただき、神様の愛を知ることによってはじめて私たちは、平和を実現することが出来るようになります。私たちは、御使いのように、栄光が神様にあるようにと心からの感謝の賛美をささげましょう。そしてそれだけではなく、神様に愛されている者、赦されている者として「地の上に平和があるように」と平和をもたらす者となるように祈りつつ歩みましょう。
 皆さんは、その歩みをいつから始めますか?御使いは「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました(ルカ2:11)。」と羊飼いたちに伝えました。この「今日」は、イエス様が誕生し、羊飼いがその知らせを聞いた日の「今日」ということですが、同時に今という「今日」を意味しているのではないでしょうか。今日、私たちは、救い主イエス様の救いを受けることが出来ます。そのためにこそイエス様は、お生まれになったのです。
 御使いの言葉は、私たちに問いかけています。「今日、あなたは神様との平和を持っているでしょうか。」、「今日、あなたの心は神様の愛と平和で満たされ、平和を実現する者となることが出来るでしょうか。」、「今日、あなたは神様の栄光を見上げ感謝の賛美をささげることが出来るでしょうか。」
 栄光が神様にありますように、地の上には平和がありますように。

<祈り>
 「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。救い主イエス様が、私たちのために人としてお生まれてくださったことを心から感謝いたします。今日、私たちは、イエス様の救いを受けることが出来る恵みを感謝いたします。私たちは、心から栄光が主なる神様にあるようにと主の御名を賛美し、ほめたたえます。私たちの心に神様から喜びで満たしてください。
 また私たちは、神様との平和を与えられている者として、「地の上に平和があるように」と祈ります。神様、世界中が神様の平和で満たされ、神様の愛で満ち溢れますように。そのために私たち一人一人の心を神様の平和で満たし、平和を実現することの出来るように導いてください。
 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」