2025年1月1日(水)新年礼拝説教 テモテへの手紙第二 4章1-15節 「福音を証しする」 説教者:赤松勇二師

 明けましておめでとうございます。2025年を迎え、こうして共に主を礼拝できる恵みを感謝致します。今年もよろしくお願いします。1月1日は、「新年」を迎えた素晴らしい時です。と同時に私は、ルカ2章21節を思い起こします。そこには、「八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子の名はイエスとつけられた。」とあります。私たちは、12月25日イエス様の誕生を感謝し、クリスマスをお祝いしました。それから8日目は、1月1日です。私たちは、幼子がイエスと名付けられた日に、新年を迎え主を礼拝するために集まりました。この一年が神様の恵みで溢れますようにと祈ります。
 新年を迎えて、「この一年の抱負は?」とよく言われます。以前出会った高齢の方は、「新年の抱負は特に持たない。」と言っていました。「そういわずに何かあるのではないですか。」と私が聞き返しても、その方は、「一日一日同じ日々を過ごすだけだから特にないのです。」と言っていました。今の私の年齢は、その方の年齢よりは若いのですが、何となくその方の言っていたことが分かるような気がします。これまで私は、「今年はこうしよう」とか考えていたのですが、今年は、「一年を元気に過ごそう」という単純な願いになっています。皆さんはいかがでしょうか。
 そして私たちは、教会として、一人のクリスチャンとして、パウロの言葉に耳を傾けて、「福音を伝える、証しする」という基本に立ち返りたいと願います。

 Ⅰ;時が良くても悪くても

 パウロは、言います。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」私たちは、「福音を証しする」ことを心がけて一年を過ごしましょう。しかも、時が良くても悪くても証ししましょう。
 今から20年位前になるでしょうか、一人の姉妹から未信者のご主人に伝道してほしいと言われました。ご主人は、とても重い病気のために入院し手術を受けることとなっていたのです。私もご主人に会いに行くつもりだったので、「ぜひ行きましょう。」と答えました。そして、病院の入り口で待ち合わせて彼の病室に向かいました。するとその姉妹は、歩きながら「実は主人は、これまで私が聖書の話しをすると不機嫌になり聞いてくれなかった。もしかしたら、今日も先生の話に対して不機嫌になり追い返されるかもしれない」と話してくれたのです。私は、その情報はもう少し早く、昨日聞いておきたかった、と思いました。がしかし病室の前まで来ています。私は、「追い返されてもしかたない、御言葉を語り、伝えるべきイエス様の十字架をしっかり伝えよう。神様守ってください」と心の中で祈りながら病室に入りました。するとご主人は、始めて会う私を笑顔で迎えてくれたのです。それだけではなく、静かにうなずきながら御言葉に耳を傾けてくれたのです。姉妹は、とても驚いていました。私たちは、今は時が良いとか、悪いとか勝手に考えてしまうことがあります。しかし私たちの目には時ではない、状況としては悪いのではないかと思うような時でも、相手にとっては、何よりも神様にとっては良い時であり最善の時であることがあります。だから私たちは、時が良くても悪くても、都合が良くても悪くても、御言葉を伝える準備をしておくことが必要なのです。

 これは、パウロがテモテに与えた命令で、自分にはあまり関係ないのではないか、と思うかもしれません。確かに、テモテへの手紙はパウロが書いた手紙の中でも最後のものであり、パウロが殉教する前に弟子であるテモテにどうしても伝えなければならないことが書かれています。けれども、時が良くても悪くてもしっかりやらなければならない理由を見るならば、テモテだけではなく、私たちにも語られていることだと理解できるのではないでしょうか。
 パウロは、いつでも御言葉を伝えるべきである理由を「人々が健全な教えに耐えられなくなり、我慢できなくなり、耳に心地よい話を聞くことを切に求める時代になるからだと言っています。パウロは、自分自身の伝道活動の中で、福音に耳を傾けない人々からの反対を受けていました。そのパウロが、さらに健全な教えに耳を閉ざし、耳触りの良い教えを聞くために教師を集めるようになるというのです。時代は一層悪化し、人々の心が福音からそれていくというのです。

 現在は、パウロの時代よりもさらに状況は、深刻なのではないでしょうか。人々は、いつでも占いに頼ります。血液型による占い、好きな色の占い、おみくじ、星座占い、カード占いなど際限がありません。そして自分にとって不利と思える結果を出す占いは無視し、自分の気持ちを引き上げてくれるものを信じるといった具合です。その理由は、人というのは、嘘でも良いから自分の気持ちを楽にさせる情報を好むからではないでしょうか。また人は、自分の罪が示されること、戒められること、悔い改めを迫るようなことを嫌います。誰もが、本当の自分の姿を知ることが嫌だからです。その結果「真理から耳を背け、作り話(空想話)にそれて行く」のです。
 そのような状況は、福音を証しするには適さないのではないかと思うかもしれません。しかし、そのような時代だからこそ、福音を語るべき時なのです。なぜならば私たちが、手にしている福音は、私たちの人生を絶望から希望へ、罪の呪いから主の祝福へと変える真理の言葉だからです。私たちは、時が良くても悪くても、福音を証ししましょう。

Ⅱ;忍耐の限りを尽くして

 私たちは、福音を証しましょう。パウロが、「時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」と言う時、「何が何でも俺の話しを聞け」的なやり方をしなさいということではありません。パウロは、「忍耐の限りを尽くし」と教えてくれました。これは、「寛容な心で」と言い換えることが出来ます。相手の状況や態度に対して忍耐の限りを尽くし、寛容な心で接する時、御言葉を宣べ伝える道が開かれていきます。

 私たちが福音を証しする方法は、「絶えず教えながら、責め、戒め、また勧める」と言うことです。これは、何も「よーし、教えてやろう!」と生き込むことではありません。また「そんなんじゃ駄目じゃないか」と、ことさら相手を責め立てることでもありません。パウロは、忍耐し、愛と寛容をもって相手に伝えるようにと言っているのです。愛と寛容をもって御言葉を語るならば、その言葉は相手の心に届きます。しかし愛のない言葉は、相手の心を傷つけるだけで何も生み出さないのです。そして愛のある言葉は、それを語る人の生き方によっても明らかになっていくものです。
 さらに言うと、もし私たちがクリスチャンとして聖書の御言葉に聞き従い、神様の御心を求めて生きているならば、その生き方が福音の証しとなります。そしてそのように生きる私たちの生き方が、相手の心に届くようになります。また私たちが御言葉を大切にして、神様の御心を求めるならば、そのような生き方が、相手の目に留まり変化を与えるようになります。するとそのような一つひとつのことを通して、私たちの周りの人たちが、神様からの教えを受け、罪が示され、悔い改めに導かれるようになるのではないでしょうか。そして私たちが神様の恵みを証しすることによって、聞く人たちが慰めを受け、励ましを受けることになるのです。
 同じようなことをすでにパウロは、テモテに書いています。それは、Ⅱテモテ3章16節です。「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」私たちが今、手にしている聖書は、神様の言葉です。神様は聖書を通して私たちに罪を教え、私たちにイエス様の救いを示し、私たちに神様ご自身の愛を明らかにしておられます。聖書の御言葉、福音は、全ての人の人生にとってとても大切な、聞くべきものなのです。

 私は、教会に来る子どもたちを見ているといつも新鮮な思いがします。ある子どもは、教会に来るたびに着ている洋服や靴下のことを教えてくれます。またある子どもは、バッグや靴、書いてきた絵を見せてくれます。私は、その一つ一つを見せてもらい、教えてもらう時間がとても好きなのです。なぜかというと、子どもたちは自分の身に着けている大好きなものを教えたいという熱い思いがあるからです。彼らは、洋服に描かれているキャラクターを紹介したいのです。見てもらいたいのです。そして、自分が書いてきた絵を見てもらいたいのです。それは決して自慢したいということではなく、自分の好きなこと、好きなもの、自分の持ってきたものを知ってもらいたい、それを共有したいと心から願っているのです。だから私は、彼らの話を聞くと嬉しくて、嬉しくて、ワクワクするのです。

 皆さん、私たちはそのような感情を忘れていませんか。私たちも子どものころ、持っているもの、身に着けているものを話したくてうずうずしていたのではないでしょうか。私たちは、自分が知っていること、学んだ知識を話したいという衝動に駆られる時があるでしょう。私たちは、それ以上の素晴らしいものを知っています。私たちは、この世界で一つしかないイエス様の救い、天地創造の主なる神様の愛と恵みを知っているのです。2024年度の御言葉には、私たちが祈る時どんなことが約束されていると言われているでしょうか、「すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます(ピリピ4:7)。」と言われているのです。私たちは、この世の知恵や知識や努力では決して得られない、本当の平安、神の平安を得ることが出来るのです。そしてそれを今、私たちは知っているし、心が平安で満たされるという素晴らしい神様の恵みで溢れているのです。私たちは、この感動を自分だけのものにするのでしょうか。「神様ってこれほど素晴らしいんだよ。神様によって自分はこれほど平安を与えられるんだ。」ということを、声を大にして言わなくてはいけないのではないでしょうか。それをしないとするならば、私たちはそれほど感動してないし、感謝もしていないし、喜んでもいないということになるのではないでしょうか。こう話しながら、私自身心を新たにして、主の御言葉に従うことが大切だと改めて教えられています。私たちが、喜んで感動して話をするならば、その素晴らしさは必ず相手に伝わると信じます。

 これは、私たちが自力で頑張ることではありません。神様が、福音を証しする力と知恵を与えてくださいます。パウロは、そのこともテモテに教えていました。「神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊を与えてくださいました(Ⅱテモテ1:7)。」聖霊なる神様ご自身が、私たちに福音を証しする力を与えてくださるのです。私たちは、忍耐の限りを尽くして、愛と寛容をもって福音を証ししましょう。

Ⅲ;救いを得させる神の力

 私たちは、福音を証しし続けましょう。福音は、信じる全ての人に救いを得させる神の力です。これは、パウロが声を大にして主張していたことの一つです。ローマ人への手紙1章16節です。「福音は、ユダヤ人をはじめギリシアにも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。」この「神の力」の「力(デュナミス)」という言葉は、英語のダイナマイト、ダイナミックという語の元とまった言葉です。

 福音の力、神様の力は、爆発的で、活動的であるということです。福音は、私たちを罪の縄目から解放し、罪の誘惑を打ち破る神の力です。私たちは、パウロが言うように「すべての人は罪を犯して、神の栄誉を受けることができず(ローマ3:23)」罪の暗闇に捕らわれていました。私たちは、神様の光に背を向け、自分の陰を見つめ暗闇と裁きと苦悩を見つめて生きているようなものでした。しかし福音は、私たちの心に一筋の光を放ちます。それは、神様の愛、イエス様の十字架による救いと言う光です。この神様の光は、太陽が夜の暗闇を一瞬に打ち消すように、私たちの心の闇を照らし、輝かせてくださるのです。イエス様の十字架の救いによって私たちは、もはや罪の暗闇、神の裁きではなく、心が神様の光によって輝き歩むことが出来ます。

 福音は、私たちを励まし力づける、神の力です。私たちは、様々な事柄で時に悲しみ、傷つき、時に挫折し力なく打ちひしがれてしまうことがあります。心に力が湧いてこないということもあります。そのような私たちに対してイエス様は、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます(マタイ11:28)」と優しく語りかけてくださいます。そしてイエス様は、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます(マタイ28:20)。」と約束してくださっているのです。

 このように福音は、信じる全ての人に救いを得させる神の力です。信じるすべての人は、神様の愛と救いによってダイナミックな力を受け、生きる希望と喜びを受けることが出来るのです。もう自分は小さくて、惨めだと思うことはありません。神様は、ダイナミックな人生を与えてくださいます。もし生きる力、生きる目的が欲しいと願うならば、爆発的で壮大な力を与え、人生の目的を与えてくださる神様を信じましょう。神様は私たちにダイナミックで、爆発的な力に満ち溢れた日々を与えてくださいます。
 これが福音です。すべての人がこの福音を必要としています。だから私たちは、御言葉を宣べ伝えましょう。福音を証しましょう。そして私たちは、「福音を証しする」と宣言して歩みましょう。「私は、時が良くても悪くても、福音を証しする」、「忍耐の限りを尽くして福音を証しする」と積極的に宣言する一年としましょう。福音は、救いを得させる神の力です。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。2024年の歩みを守ってくださり、こうして2025年を迎えることが出来ました。心から感謝いたします。神様、2025年も私たちと共にいてお守りください。私たちが、受けている福音を力強く証しすることが出来るように導いてください。私たちは、家族、知人、職場の同僚たちに福音を証しします。神様、私たちの身近にいる人たちが、イエス様を信じることが出来るように、私たちを用いてください。
 神様、今日から始まった一年、御前に集いました一人ひとりの生活、仕事、健康を支え守ってください。能登半島地震から一年を迎えます。能登半島では豪雨による災害もあり、まだ大変な中にあります。どうか神様、被災された一人ひとりに恵みと憐れみを注いでください。
 世界に目を向けると戦争や紛争が絶えることがありません。神様、この地の上に平和を与えてください。一刻も早く戦争や紛争が終わりますように。神様、世界の国々、地域に立てられているリーダーたちが正しい政治を行い、世界の平和のために動くことが出来るように導いてください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」