<子どもたちへ>
ある時、僕の方をじっと見つめている人がいました。まったく知らない人です。僕は、少し目をそらして「えっ、あの人は誰だろう?よく知らないけれど、こっちを見てニコニコしている?前に会ったことがある人かな?」などと考えました。そして「よーし、誰だから分からないけれど、挨拶をしておけば間違いないだろう」と決めて手を振ろうとした瞬間、僕の後ろからその人に向かって挨拶をする人がいました。誰だか知らないその人は、僕の後ろにいる人を見ていて、ニコニコしていたのです。ちょっと恥ずかしかったですね。
みんなは、誰かに見られているって感じたことがありますか。もしかしたら、親やおじいちゃんおばあちゃんに見られちゃったということがあるかもしれません。
ある時イエス様が一人の男性を、じーっと見つめていました。その人は、生まれた時から目が見えないので、道に座っていました。
「イエス様、あの人の目が見えないのは、誰かが神様に罪を犯したからですか?どうして目が見えないのでしょうか?」と弟子たちがイエス様に質問しました。するとイエス様が答えます。「誰かが罪を犯したからというのではありません。神様の素晴らしいみわざが現れるためですよ。」そう言ってイエス様は、土で泥を作ってその人の目に塗ってあげました。「うわ、なんだ。誰かが僕の目に何かをぬっている!?誰だろうこの人は。そういえばさっき、『イエス』って聞こえたな。」目の見えない人は、驚きながら戸惑ってしまいました。
するとイエス様は、「さあ、シロアムの池に行って目を洗ってごらん。」と言われました。
目の見えない人は、一人ではその場所に行く事は出来ませんから、近くにいる人に助けてもらいながら、イエス様に言われた通りにシロアムの池に行って目を洗いました。「あーーーーっ!見えるぞ、見えるぞ」男性は、イエス様の言われた通りにしたら、目が開かれて見えるようになったのです。状況を全く知らない人が、「あなたは、目が見えなくて、道端に座っていた人ですよね。どうして見えるようになったのですか?」と質問します。すると見えるようになった人は、「いやー、イエスと言う人が突然目に何かをぬってくれて、シロアムの池で洗いなさいと言ったんだよ。言われた通りにしたら見えるようになったんだ。」と答えました。不思議なことでしたが、みんな大喜びです。
けれどもこのことをよく思わない人たちがいました。パリサイ人と言う人たちです。この人たちは、神様の事や聖書のことばを人々に教える人たちで、ユダヤ教の教師たちでした。パリサイ人たちは、イエス様が安息日にいやしを行ったことを律法違反だと考えていました。だからパリサイ人たちは、目が開かれた人を連れて来て、「お前はどうして目が見えるようになったのだ。」と厳しい口調で問い詰めるのです。この人は、「イエスと言う人が、見えるようにしてくれたのです。」と答えました。目が開かれて見えるようになった人が、イエス様が目を開けてくれて見えるようになったと、何度も何度も説明してもパリサイ人たちは信じませんでした。パリサイ人たちは、神様のみわざを行うイエス様を認めることも信じることも出来なかったのです。目が見えるようになった男性は、「目を開いて見えるように出来る人なんかこの世にはいませんよ。イエスと言う人は神様から遣わされた神の人に違いないのです」と話し続けました。とうとうパリサイ人たちは、この男性を会堂から追い出してしまいました。
イエス様は、このことを聞いて、目の見えるようになった男性を捜し出してくれました。そしてイエス様は、「あなたが見ている私は、救い主です。そのことをあなたは信じますか?」と質問しました。男性は、嬉しくなって「はい、信じます」と言ってイエス様を礼拝しました。イエス様は、男性の目を治し見えるようにしてくださっただけではなく、心にも光を与え、罪からの救いを与えてくださったのです。
イエス様は、僕たちの救い主です。救い主であるイエス様を信じる時、僕たちの罪は赦され、心が明るくなり、元気が与えられ、喜びが与えられます。「僕は、わたしは、イエス様を信じます」と告白をしてイエス様を礼拝しながら歩んで行きましょう。
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。目の見えなかった人は、イエス様によって目が見えるようになりました。それだけではなく、イエス様は、男性の心の目も開いてくださり、救いを与えてくださいました。
僕たちは、イエス様を信じます。イエス様、僕たちの心の目を開いてください。そして心に元気を与えてください。喜びをもってイエス様を礼拝しながら、歩み続けることが出来るように導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」
「彼は『主よ、信じますと言って、イエスを礼拝した。」 ヨハネの福音書9章38節
<適用>
以前住んでいた群馬県沼田市の小学校では、年に数回「星空観察会」を開催していました。小学校の理科の先生と群馬県立天文台から一人講師が来て望遠鏡で夜空を見上げるのです。私たち親子が参加した時、ちょうど日本の上空を国際宇宙ステーションが通過する時期でしたので、上空に光っている国際宇宙ステーションを見る事が出来ました。結構なスピードで通り過ぎていきました。これには、興奮したのを覚えています。その後、季節が春だったので、春の夜空の説明を受けて、月はもちろんのこと、金星、木星、その他の星を見ました(名前は忘れてしまいました)。中には、そのうち「北極星」になる星がありました。北の頂点となる北極星は、約2500年周期で変わっているそうなのです。
私たちは、滅多に見られないものを見る機会が与えられるとドキドキしたり、心を躍らせ期待したりします。私たちは、2025年の中で何か新しい事を見たり、知ったりすることがあるかもしれませんね。では、私たちは、神様のみわざに関しては、どれほどの期待を持っているでしょうか。実際に私たちの生活は、神様のみわざで満ち溢れていることを知ることは重要なことだと思います。
Ⅰ;常に私たちを取り囲む
神様のわざは、常に私たちを取り囲んでいます。
ある時イエス様一行が、道を歩いていると生まれつき目の見えない人が、物乞いをして座っていました。イエス様が、この人に注目していると弟子たちがとっさに「誰が罪を犯したからですか」と質問するのです。弟子たちは、彼の目が閉ざされているのは、誰かの罪が原因であると判断したのです。
当時のユダヤの社会では、人に何か不幸なことがあるとそれは、罪に対する神様の裁きであると考えられていました。イエス様ご自身も病を癒した後で、「もう罪を犯してはなりません。(ヨハネ5:14)」と言われたことがありましたので、時として罪が原因ということがあるでしょう。けれどもそれは、私たち人間には隠されたことです。周囲の人がどうこう言うことではなく、その人と神様との間の事柄であることを忘れてはいけません。
イエス様のお答えは、弟子たちの考えを打ち消すものでした。イエス様は、この人が盲目として生まれたのは、誰彼の罪ではなく、神様のわざがこの人に現れるためだと言われました。誰が見ても、彼の状況は、神のわざを感じさせるものではありません。そんな可能性すら感じられません。この人は、これまでの生涯光を知らず、視覚的な刺激を受けることなく過ごして来ました。彼は、家にいることが出来ず、道端に座って物乞いをして生活をしていたのです。この時彼が何歳か分りませんが、彼は、社会的に認められず、何も良いことがないと思われる人生を過ごしてきたのです。その彼の身に、どのようにして神様のわざが現されると言うのでしょうか。
唯一の可能性は、イエス様です。イエス様は「神のわざがこの人に現れるためです」と言われました。何もない、何も変わらない人生が、イエス様によって変えられ、神のわざが現されるのです。
皆さん、このイエス様の言葉は、今でも真実に私たちに語られています。私たちは、皆それぞれの人生を歩んでいます。大きな病気や大きな怪我などをすることもあるでしょう。また私たちは、問題、困難、逆境という経験もします。そのような経験の中で時として私たちは、なぜ自分にこのようなことが起こるのか、この苦境の意味は、今自分が経験している事柄にどんな目的があるのか分からないことがあります。
今から9年ほど前になりますが、一人の姉妹の娘さんが36歳で天に召されました。彼女は、乳がんであることが分かり、1年半の闘病の末に召されました。彼女が闘病中も、そして召されてからも、お母さんである姉妹は、その意味を神様に問いかけ、神様のしておられることを訪ね求めていました。私は、何度も闘病中の娘さんをお見舞いに行きました。お見舞いに行くたびに病状が改善していないのを見るのです。彼女は小さい時から御言葉を聞いていました。ですから私は、いつも御言葉を語らせていただきました。そしてある日私は、彼女に「イエス様は、罪を赦し永遠のいのちを与えるために十字架にかかってくださいました。イエス様を信じましょう」と勧め一緒に信仰告白のお祈りをしました。彼女は、その時、話しをしていると突然意識を失ってしまう状態になっていました。その日も心配しましたが、彼女は「イエス様を信じます」と祈った後、意識を失ってしまいました。私は、彼女の祈りを神様がお聞きくださったと信じて、そのことをお母さに伝えました。神様のみわざは、病床にあっても現されました。母親は、そのことを心に留めつつ、娘に起こった出来事を通して神様が何をしようとしておられるのかを祈り求めています。神様は、常にご自身のみわざを行ってくださいます。そのことを私たちは信じて主を見上げることが大切です。
私たちは、自分には理解できない事柄に直面することがあります。そういう時私たちは、「この人に神のわざが現されるため」というイエス様の言葉を思い出しましょう。私たちが、思い悩むよりイエス様に尋ねる時、そこに答えがあります。神様は、私たちが経験する出来事の中で常にみわざを現し、導いてくださっています。
Ⅱ;救いの恵みを通して
神様のわざは、私たちの心の目が開かれるという救いの恵みを通して現されます。
イエス様は、弟子たちの質問に答えながら、目の見えない人に神様のわざに期待するよう促しつつ彼に近づかれました。そしてイエス様は、地面につばきをして泥を作りその人の目に塗られました。イエス様は、彼の目に泥パックをされたのです。化粧品に使われる泥パックならその効果は予想できますが、地面につばきをして作った泥パックにどんな効果があるのでしょうか。弟子たちは、あっけにとられたのではないでしょうか。でもイエス様は、何も意味なくそんなことをしているのではありません。イエス様は、目の見えない人に「シロアムの池に行って洗う」という行動をさせるためにそのようなことをしたのです。イエス様は、直接さわってその場で癒すことをしませんでした。私などは、わざわざ池に行かなくてもその場で癒してあげたほうが良いのにと思ってしまいます。でもイエス様は、神様のわざが現されるために、彼の信仰を見られたのです。
目の見えない人は、立派でした。彼は、何も見えませんでしたが、イエス様が近くに来られて何かをしていたのはわかりました。彼は、目の上にごろごろしたものが塗られたかと思うと、シロアムの池に行って洗うように命じられたのです。このシロアムの池はエルサレムにありますので、この時イエス様はエルサレムにいたことが分ります。この人は、イエス様に何も言い返さず、素直に言われたことに従いシロアムの池で目を洗いました。彼は、イエス様を信じて、イエス様の言葉を信頼して従いました。すると目が開かれて見えるようになったのです。彼は、生まれてから何も見えなかったのに、イエス様によってすべてが見えるようになりました。もう今までの生活をしなくてもいいのです。彼は、家族と過ごし、自分で働き生活できるのです。目が開かれたことによって、すべてが変えられ、新しくされたのです。
それだけではありません。その後彼には色々なことがあり、イエス様は、彼のところに来て彼を明確な信仰に導かれたのです。
「イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。『あなたは人の子を信じますか。』その人は答えた。『主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。』イエスは彼に言われた。『あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。』彼は『主よ、信じます』と言って、イエスを礼拝した(35-38)。」
彼は、イエス様によって肉体の目が開かれ、そして心の目が開かれイエス様を礼拝する者と変えられたのです。これが、救いの恵みであり、神様のわざです。
そして私たちは、この救いの恵みという神様のわざの現れを知っているし、経験しています。イエス様を知る前の私たちの心は、目が閉ざされた霊的盲目という状態でした。霊的盲目の状態とは、神様を見る事が出来ず、自分の罪深さを認めず、知ろうともしない状態のことです。「自分には罪はない。神様など必要ない」と自分中心に生きている状態です。人は、このような状態を自由だと感じるかもしれません。しかし実は、心が罪の闇に覆われて、心の目が閉ざされている状態なのです。イエス様は、そんな私たちの心に御手を差し伸べてくださり、私たちの心の目を開き、イエス様の救いへと招いてくださるのです。ある人は「信仰とは、闇から光に移ることである(ティンデル聖書注解ヨハネの福音書127㌻)」を言っています。イエス様を信じ、信頼する信仰は、霊的盲目という闇から、イエス様の光という栄光の中へと私たちを移していくのです。この素晴らしい変化が、神様のわざなのです。私たちは、「主よ、信じます」という信仰の応答をし続けましょう。私たちは、目を開かれた人のように、イエス様によって闇から光に変えられているのです。私たちは、イエス様の救いの恵みによって、新しい人生、意味のある人生、恵みに溢れる人生という神様のみわざの中を歩むことが出来ます。
Ⅲ;私たちの証を通して
神様のわざは、私たちの証しを通して現されます。
目の見えなかった人の回りにいた人たちは、彼が癒されたのを見て、何故どうして、誰がと質問攻めにしました。パリサイ人も癒された人に質問しました。どうもイエス様が泥を作り目に塗り、彼が目を洗ったことが安息日の規定に反すると判断されたようなのです。パリサイ人は、神様の恵みのわざに心を開くことなく、当然、目が開かれたことを喜ぶこともありませんでした。その結果目が開かれた人は、ユダヤ人の会堂から追い出されてしまうのです。これは、ユダヤ社会からの追放を意味しています。男性が会堂から追放されたことを知ったイエス様は、彼を見つけ、彼を明確な信仰告白へと導きました。
癒された人は、自分の立場が不利になるような質問をされますが、彼は自分の身に起こった事をそのまま語りました。彼が知っていることは、イエスというお方が、目に泥を塗ってくれてシロアムの池に行って洗いなさいと言われたことです。そしてイエス様を信じて言われた通りにしたら目が見えるようになったと言うことでした(ヨハネ9:11)。彼は、人々の前やパリサイ人の前で大胆にそして堂々とその事実を証ししました。彼は、そんなに難しいことを言っているわけではありません。彼は、自分が受けた神様の恵みと自分に現された神様のわざをそのまま話しているだけです。以前は見なかったけど、イエス様を信じて従った今は、見えると言う事実を証ししたのです。「彼は答えた。『あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つの事は知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです(ヨハネ9:25)。」彼を通して神様の素晴らしいわざは、証しされ、表されるのです。
私たちもこの癒された男性のように、自分の証しを通して神様のみわざを表すことが出来ます。私たちは、証しをそんなに難しく考えなくていいのです。証しは、自分が受けた神様の恵みをそのまま話せばいいのです。目の見えなかった人は、「以前は見えなかったが、今は見えるのです(9:25)。」という事実をそのまま証しました。この事実こそ、彼の証であり、神様のみわざ、恵みなのです。私たちも同じように、証し出来るのではないでしょうか。私は、「以前は、罪の中にいたけれども、今はイエス様の十字架によって罪の赦しを受けている」という証しです。また、私たちは、今迄は神様の愛を知らなかったけど、今は神様の愛を知り、神様に愛されていると言う事実を知っています。神様は、私たちの一つ一つの証しを通してご自身のわざを現してくださるのです。
神様は、私たちが経験する様々なことを通してご自身のみわざを現して下さいます。神様は、私たちの心の目を開き、私たちの信仰の姿を通してご自身のみわざを現して下さいます。そして神様は、私たちは、自分の身に起きた神様のみわざを証しすることによって、神様のわざを表すことが出来ます。
私たちの歩は、神様のわざと臨在と導きにあふれています。私たちは、神様に信頼し、期待して、信仰を持って歩みましょう。
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様は、『この人に神のわざが現れるため』と言って目の見えない人を見えるようにしてくださいました。今も神様の恵みのわざは、私たちを取り囲んでいることを信じます。神様のなさることをしっかりと見て、受け取ることが出来るように導いてください。
私は、救い主であるイエス様を信じます。神様は、私たちに救いの恵みを与えてくださることを感謝します。だから私たちは、神様の恵みのみわざを証しします。神様がしてくださったことを一つひとつ証してみざわを表していきます。どうか私たちを通して多くの人が神様のみわざを知ることが出来ますように。 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。