<子どもたちへ>
今日は、最初にクイズをしてみましょうか。絵と文字を使って算数をしてみたいと思います。これから文字(数字)と絵が書いてある紙を見せますので、それが何を意味しているのかを答えてくださいね。
例えば、「お+🐘🐘=????」これは、「お」と「ぞう2匹」で「おぞうに」です。お正月に食べたでしょう。
次は、引き算です。「🚂‐き=???」なんでしょうか?
「きかんしゃ」から「き」をひいて取りますから「かんしゃ」ですね。
最後に、掛け算をしてみましょうか。「🐜×10=?????」なんでしょうか。「あり」が「10(とう)」ですから、「ありがとう」ですね。
皆は、「ありがとう」と言う言葉をどれくらい使っていますか?例えば学校や幼稚園でお友だちに「ありがとう」って何回くらい言っているかな?今日は、イエス様に「ありがとう」を忘れなかった人が出てきます。
イエス様は、ご自分の働きの場であったガリラヤからエルサレムに行く途中に、ある村を通っていきました。するとそこに、重い皮膚の病気にかかってしまった人が10人いました。その10人は、イエス様を見ると、遠くのほうに立って「イエス様、私たちを助けてください。この病気を治してください。」と大声で、一生懸命に叫びました。この10人は、重い皮膚の病気のために汚れた人と言われ、家族からも友達からも離れて暮らす必要がありました。またこの人たちは、病気が治りきよめられるまで、外に出る時には「私は汚れていますから、近づかないでください。」と叫ばないといけないのです。つらいですよね。だから10人は、イエス様に近づくことをせず、遠くで叫ぶのでした。
10人の必死の叫びを聞いてイエス様は、「自分の体を祭司に見せに行きなさい。」と叫ばれました。この病気は、神様に仕える祭司が癒されているかどうかを判断します。だからイエス様は、このように言われたのです。10人は、「イエス様、分かりました。言われた通りにします。」と答え、「さあ、祭司のところに行って見てもらおう。」と急いで走り出しました。すると、10人は道の途中でいやされ、きよめられたのです。
「あれ、なんか体が今までと違うよ。」、「あっほんとだ、治っているみたいだね。」、「やったー、治っている」みんな大喜びです。そのうちの一人は、「やっぱりイエス様は、すごい人だ。自分は、イエス様の力によって治ったんだ。イエス様のところに戻ろう。そしてイエス様に感謝しなくては。」と考えました。そして、「イエス様!イエス様!治りました。見てください、きよめられました。イエス様、本当にありがとうございます。神様ありがとうございます。神様は素晴らしいお方だ!」癒された人は、大声で神様を賛美しながら、イエス様への感謝を叫びながらイエス様のところに来ました。
この人は、サマリア人でした。ユダヤ人とサマリア人は、お互いにかかわりを持つことはありませんでした。特にユダヤ人は、サマリア人を嫌っていたのです。癒されたサマリア人は、ユダヤ人であるイエス様が自分を癒してくださったことが嬉しかったので、少しでも早くイエス様に「ありがとう」と言いたかったのです。イエス様は、そのことをとても喜ばれました。でも病気だったのは10人ですね。戻ってきたのは1人です。ほかの9人は、どうしちゃったのでしょうか?彼らは、治ったことで満足しイエス様への感謝を忘れてそのまま行ってしまいました。イエス様は、心からの感謝をするために戻ってきた人に「あなたの信仰があなたを治しました。あなたを救ったのです」と言ってくださいました。このサマリアの人は、病気の癒しだけではなく、心の救い、神様の恵みを受けることが出来ました。
さて僕たちは、イエス様への感謝を忘れていないでしょうか。イエス様は、毎日みんなと共にいてくださり、どんなことがあってもみんなを守っていてくださいます。僕たちが、朝起きられるのも、元気に毎日過ごせるのも、風邪をひいても治る力が与えられるのも、毎日食べるものがあるのも、ぜんぶ、イエス様がみんなと一緒にいてくれるからです。だから僕たちは、毎日「イエス様、ありがとうございます」と感謝のお祈りをしましょう。
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様は、重い皮膚の病気にかかっている人を癒してくださいました。9人は、そのまま帰ってしまいました。1人だけイエス様に感謝をした人がいました。この人は、イエス様への感謝を忘れませんでした。僕たちもイエス様への感謝を忘れることがないようにします。僕たちは、イエス様が毎日一緒にいてくださり、守り支えてくださっていることを信じます。イエス様、ありがとうございます。
イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」
「すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」
テサロニケ人への手紙第一 5章18節
<適用>
私たちは、うっかり何かを忘れてしまうことがあります。私は、ある時、オンラインでの会議を忘れてしまったことがありました。会議の議長から、「今日は、どうした?今、会議をしているけど」と電話があり、「あっそうだ」と気が付く私です。オンラインですから、すぐに参加が出来ます。便利になったのだと思いますが、オンライン会議が普及していない数年前ならば、「すみません。これから行っても間に合わないので、今日は欠席で」と言えたのかもしれませんね。とにかく、すぐにオンラインで出席です。どんな顔で出席することが出来るのでしょうか。私は「朝の段階では覚えていたのです」と苦しい言い訳をしながら、待たせてしまったことを謝罪しつつ、メンバーが受け入れてくれたことを感謝しました。
私は、忘れてしまう事柄の中に、「感謝」があるように思います。人への感謝、そして神様への感謝です。私たちは、多くの祈りの課題を持ちますし、神様への願いを祈り求めます。願い事が多いという事は、願いの数だけ感謝があるということです。神様への祈りの中で、感謝の言葉が少ないとすれば、願い求めたことへの感謝を忘れている可能性があります。私たちは、改めて「感謝を忘れない」という事を心に刻みましょう。
Ⅰ;目をとめてくださる
私たちは、イエス様への感謝を忘れることなく歩みましょう。イエス様は、いつでも、どんな時でも私たちに目をとめてくださいます。
ルカ17章11節には「さて、イエスはエルサレムに向かう途中、サマリアとガリラヤの境を通られた。ある村に入ると」とあります。私は、イエス様はある村に入るために、サマリアとガリラヤの境を通られたと思うのです。別の時でもイエス様は、サマリアと通られました。ヨハネ4章3-4節です。ヨハネは、「ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。」とイエス様の行動を書いています。この時イエス様は、サマリアを通って行かなければならなかったのです。通常ユダヤ人は、サマリアを通りません。ユダヤ人は、イスラエル民族としての純粋性を失ったサマリア人を軽蔑していましたので、彼らとはかかわることをしませんでした。でもイエス様は、あえてサマリアを通られたのです。その理由は、サマリアの一人の女性と会うためでした。そのためだけにイエス様は、行動しておられるのです。イエス様は、特別な愛の眼差しを一人のサマリアの女性に向けられていたのです。
私たちは、誰かが特別に自分に目をとめて、かかわってくれると嬉しくなりますよね。以前、私が新聞配達をしながら予備校や専門学校に通っていたという事を話したことがあったと思います。私が、働いていた新聞店の人たちは、皆いい人たちで親切にしてくれました。その中に特に私を気にかけてくれた先輩がいました。それだからという事ではないのですが、私はその先輩を教会に誘い続けて、彼は信仰に導かれることが出来ました。その先輩は、原付バイクに乗っての新聞配達に慣れていない私に、バイクの運転のコツや手際よく配達するコツを色々と教えてくれました。ある時、先輩が「今日の朝刊は、出来るだけ早く、いや誰よりも早く配達を終わりにするように」と言ってきました。その先輩は、配達すのがとても速くいつも一番に終わる人でした。私は、早く配達出来るほうではありませでした。彼が言うには、要するに「俺の次に帰ってこい」という事なのです。私は、「そんなことは無理に決まっていると」答えつつ、なぜそんな無理難題を言ってくるのか訳わからず、必死に配達をしました。そしてどうにか、先輩の次に帰ってくることが出来たのです。すると先輩は、「じゃあ食うか。お前と半分ずつ食べようと思って取っておいた」と言って大きなメロンを取り出したのです。そのメロンは、彼の故郷山形のメロンでした。私は、配達が終わったばかりで、疲れ切っています。空腹ではありますが、とても食事をとる気分ではありませんでした。私が「もらっておいて、後で食べるかなぁ」と言うと、「じゃあ、あげない。今食べないならあげない」と言うではありませんか。私は、これだけ大きなメロンを半分食べられるチャンスは滅多にないことなので、先輩と一緒にいただきました。とっても美味しかったですね。たしかサクランボもいただいたような気がします。ちょっと強引な先輩でしたが、私は、私を気にかけてくれて、私のことを見ていてくれて、声をかけてくれる先輩の心遣いがとても嬉しくて感謝でした。
さて、イエス様は、サマリアとガリラヤの境を通られました。それは、ある村に入るためであり、そこにいる10人のツァラアトに冒された人たちに会うためです。体に現れるツァラアトですから、重い皮膚の病気という事が出来ます。彼らは、一人がサマリア人と言われています。他の9人はユダヤ人だったと思われます。先ほど言いましたように、ユダヤ人とサマリア人とは交わりを持つことはありませんしたが、この村には、ユダヤ社会から疎外されたユダヤ人とサマリア社会から疎外されたサマリア人たちが一緒に隔離され生活していました。ツァラアトに冒された人は、汚れているとされ、町を歩く時は「私は汚れている」と言いながら歩かなくてはならないのです。10人は、社会から切り離され、家にも帰れず、仕事も出来ず、友だちに会うことも出来ない生活を強いられていました。彼らは、何とか治りたい、家に帰りたいと切望していました。でもなかなかよくならないのです。
イエス様は、そんな10人と出会うために、この村に入って行かれました。これがイエス様の愛のお姿です。イエス様は、この時だけではなく、ザアカイに会うためにエリコの町に入られ、ザアカイが登った木の下をあえて通られました。そしてイエス様は、ザアカイに何と言われたのでしょうか。イエス様は、「わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから」と言われたのです(ルカ19章)。イエス様と弟子たちの出会いはどうだったでしょうか。イエス様が漁師であるペテロたちに近づいて声をかけてくださいました(ルカ5:1-11)。イエス様は、取税人のマタイに目をとめ声をかけました(ルカ5:27‐32)。
そして今イエス様は、いつもあなたがたとともにいる。わたしの所に来て休みなさいと、私たち一人ひとりに声をかけてくださるのです(マタイ28:20、11:28)。イエス様は、いつでも、どんな時でも私たちの事を心に留め、見つめ、手を差し伸べ、声をかけて、私たちの人生を導いてくださっています。私たちは、イエス様への感謝を忘れることなく歩みましょう。
Ⅱ;心からの礼拝を
私たちは、イエス様への感謝を忘れず、日々、心からの礼拝をささげて歩みましょう。
ツァラアトに冒された10人は、恐らくイエス様が癒しのわざを行っていること、ツァラアトを癒されているということを伝え聞いたのでしょう。彼らは、イエス様を見つけるや、大声で必死になって叫びました。イエス様は、すぐに「祭司に見せに行きなさい」と言われました。ツァラアトに冒された人は、祭司に診てもらいツァラアトという診断を受けます。そして一定期間を置いて再度祭司に診てもらい、その患部が治っていれば、「きよい」という宣言を受けることになっていたのです(レビ14:1-9)。
10人は、イエス様の言葉を聞くとすぐに出発しました。イエス様は、いつもしているように、手を触れることをしていませんし、もう治っているとも言いませんでした。イエス様は、ただ祭司のところに行って見せなさいと言われたのです。イエス様は、10人の信仰を試されたのかもしれません。彼らは、イエス様の思いに見事に答えることができました。彼らは、イエス様の言葉を信じて、信頼して一歩を踏み出したのです。イエス様の言葉をいただくことによって、癒しを信じていたのです。イエス様の御声に従った10人全員が、祭司の所に向かう途中で癒されました。みな癒されたことを喜び、急いで祭司の所に向かったことでしょう。
しかしその中の一人は、ほかの9人とは違う行動を取りました。その人は、急いでイエス様の所に戻って来たのです。しかも大声で神様を賛美しながら引き返し、イエス様の足元にひれ伏して感謝の礼拝をするのです。この人は自分が癒されたのは、決して偶然ではなく、イエス様の憐れみと恵みによることだと理解しました。そこで癒してくださったイエス様に、まず感謝を表すことにしたのです。
その人はサマリア人でした。イエス様は、このサマリア人だけが神様への感謝をしていることに驚いておられます。ここであえてサマリア人と言われているので、ほかの9人がユダヤ人であると推測が出来ます。サマリア人1人とユダヤ人9人、合計10人全員が癒されました。しかし、神様への感謝を全身で心から表しているのは、サマリア人ただ一人だけでした。
皆さん、このサマリア人がどうして一目散にイエス様のところに戻って来たのだと思いますか。サマリア人たちは、自分たちは異邦人で、神様の癒しの奇跡の対象外であると考えていたでしょう。しかしユダヤ人であるイエス様が、ユダヤ人だけではなくサマリア人の自分を癒してくださったのです。このことは、サマリア人からすれば、信じられない、大きな、大きな主の憐れみです。サマリア人がイエス様の癒しに感激して大喜びするのも当然です。
ここで、サマリアとガリラヤの境を通りエルサレムに向かっていたイエス様の心境を少し見ることにしましょう。ルカ9章51節では「さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた。」とあります。この時イエス様は、全人類のためにエルサレムで迎える十字架に心を向けておられました。そしてイエス様は、弟子たちを伝道に派遣し神の国を宣べ伝えながらエルサレムに向かっておられました。ツァラアトの10人への癒しの奇跡を行ったのは、その途中の出来事ということです。イエス様は、ユダヤ人とかサマリア人とか区別することなく癒されました。このイエス様の行動は、イエス様の十字架の救いが全ての人のためであることにつながると受け止めることができるのではないでしょうか。
イエス様は、私たち一人ひとりのために十字架に向かわれました。私たちは、神様の愛を受ける資格のない罪人にすぎません。私たちは、罪人として神様の裁きを受け、永遠の刑罰に定められて当然なのです。けれどもイエス様は、私たちの罪の身代わりに十字架にかかってくださいました。今、私たちは、イエス様の救いのみわざを信じる信仰によって罪の赦しと永遠のいのちを与えられるのです。これほどの恵み、憐れみがあるでしょうか。
パウロは、私たちの人生が神様によって支えられていることを証しています。パウロは言います。「私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢える事にも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです(ピリピ4:11-13)」神様は、私たちが経験する様々な境遇を知っていてくださり、それを乗り切る力を与えてくださるのです。
またパウロは、次のようにも言っています。「しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。』(Ⅱコリント12:9)」パウロは、肉体の弱さを抱えていました。そのパウロに神様は、ご自身の力は十分に働くのであると言われたのです。私たちは、弱く力なく、この先どうなるのか不安なことがたくさんあります。だから私たちは、ダメなのではありません。私たちが弱い時に、神様の力が、神様の愛と恵みが完全に現れるのです。このように神様は、私たちの人生に確かにかかわり、導いてくださるのです。私たちは、そのことを信じて心から感謝しましょう。そして私にも目をとめ、救いの御手を差し伸べ、恵みを注ぎ、ご自身の力で支えてくださる主の御名を賛美し、心からの礼拝をささげましょう。今週の聖句を読みましょう。
「すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」テサロニケ人への手紙第一 5章18節
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様、あなたが今も私に目をとめ、御手を差し伸ばして、力を与えてくださることを感謝します。私は、ツァラアトが癒された一人のサマリアの人のようにイエス様の感謝を忘れず、主の御名を礼拝して歩みます。私たちは、弱い時にも神様によって強められ、神様の恵みが十分に注がれることを信じます。神様、今、一人ひとりの必要に確かに答え、主ご自身の真実をもって導いてください。そして私たち一人ひとりが、心から主に感謝し、礼拝し、主の御名を賛美する者として主の御前を歩むことが出来るように導いてください。
この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」