2025年1月19日(日)礼拝説教 マルコの福音書10章13-16節 「神に喜ばれる心」 説教者:赤松勇二師、CS説教:赤松由里子師

<子どもたちへ>
 皆さん、1年で一番寒い時期ですが、元気に過ごせているでしょうか?あんまり寒いとどこにも行きたくなくなりますが、気の合うお友達や大好きな家族と過ごせる、と思うと、喜んで出かけたくなるかもしれませんね。
 今日は、イエス様に会いに行った子どもたちのお話をします。聖書には、大人だけでなく子どもたちの姿が描かれています。どんなことがあったのか、さっそく見ていきましょう。

 イエス様がお話をしているところに、ガヤガヤとやって来た人たちがいます。「あーっ、お父さん見て見て!誰かお話しているよ。あれがイエス様かなあ?」大きい子がお父さんに聞いています。小さい子がお父さんの腕からおり始めました。「わあい!おろして、おろして~!僕イエス様のところに行くんだー!」子どもたちはイエス様を見つけると、嬉しくなって声が大きくなりました。この家族は、イエス様に祝福のお祈りをしてもらおうとして、家族で出かけて来たのでした。
 ところがそこに、こわい顔をした大人たちがやってきました。イエス様のお弟子さんたちです。「おい、うるさいぞ。静かにしないか!イエス様はお忙しいんだから邪魔をするなよ」。そう言って子どもや連れて来たおうちの人をしかりつけたのです。みんな悲しい気持ちになってしまいました。
 それを見て怒った人がいました。誰がだれに怒ったのでしょう?イエス様が、お弟子さんたちを叱ったのです。その時のおことばが今日の中心聖句です。一緒に読みましょう。「子どもたちをわたしのところに来させなさい」(マルコ10:14)。

 イエス様は、子どもを邪魔にする弟子たちを見て、それではいけないよ。と言われたのです。また言われました。「神の国は、子どものように素直に神様を受け入れる人のものなのです。あなたたちも子どものように受け入れなければ天国には入れませんよ。」
 そして子どもたちを抱き寄せると、頭に手を置いて祝福のお祈りをして下さいました。イエス様は、子どもを愛して、子どもを大事に思って下さるのだとよくわかりますね。

 弟子たちは、追い払おうとした子どもたちを見習うように、と言われて恥ずかしくなったことでしょう。これは、大人になっても子どもの素直さを忘れずに神様を信じなさい、ということです。また、何か立派な理由がなくても、愛して下さる、ということです。
 子どもを喜んで近くに呼び寄せて下さる優しいイエス様は、どんな時も私たちを受け入れて下さいます。もし素直になれない時があったとしても、「イエス様は変わらず私を愛してくれるんだ」と思い出して、お祈りして下さいね。そういう人をイエス様は心から祝福し、助けて下さいます。

<祈り>
「神様。子どもを愛して呼び寄せて下さる、優しいイエス様のお話をありがとうございます。イエス様が喜ばれる、素直に信じる心、信仰を私にも与えて下さい。どんな時もイエス様が愛していて下さることを、思い出してイエス様のそば近くに居続けることが出来るようお導き下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」

「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。」     マルコの福音書10章14節

<適用>
 1月17日で阪神・淡路大震災から30年を迎えました。私は学院生でしたが、あの時の衝撃は今でも覚えています。その後も日本各地で地震や豪雨などの自然災害が起きています。被災された方々の上に、神様からの慰めと励ましがあるように祈ります。
 私は、「兄弟よく似ていますね。」と言われることがあります。私が、日本各地から牧師先生が集まる集会に出席した時など、初めて会う人に「赤松先生」と声をかけられることがあります。その時私は、「どうして名前を知っているのだろうか」と考え込む顔をしているのでしょうね。相手も「あれ、間違ったのかな」と不安そうな顔になります。そういう時にはたいていの場合、私の兄か弟と間違えているのです。私に声をかけてくださった方は、私の兄や弟を知っているのです。話しをしていると、「それにしてもよく似ていますね」と言っていただくのです。ある時私は、父が40代の頃の後ろ姿を映した写真を見つけました。なんと私の40代の頃の後ろ姿と似ているのです。私が、父の40代の時と似ているのです。顔が映っていて似ているなら分かるのですが、後ろ姿で似ているのにはびっくりでした。やっぱり親子なのだなぁと思わされる一枚の写真です。
 子どもは、社会の鏡と言われますが、子どもは親の鏡でもあると思います。子どもたちは、大人を見て学び吸収して成長します。子どもの姿には、周りにいる大人の長所も短所も現れているのではないでしょうか。諺に「人の振り見て、我が振りなおせ」とありますが、もしかしたら「子どもの振り見て、我が振りなおせ」とも言えるのかもしれません。今日は、マルコ10章14、15節を中心としてイエス様が私たちに教えておられることを学び、信仰の姿を振り返ってみましょう。

Ⅰ;イエス様を慕う心

 神に喜ばれる心、それは「イエス様を慕う心」です。ある時、イエス様に触ってもらおうと、子どもたちがイエス様のもとに連れて来られました。これは、大人たちが、イエス様に手を置いてもらって子どもたちを祝福してもらいたいと行動をしたという事です。
 私は、この大人たちの姿にイエス様を慕う思いがあると思います。大人たちは、ユダヤ教の教師として神のことばを教えているイエス様に注目していました。イエス様は、神のことばを教えるだけではなく、病を癒すなど神のみわざを行っているのです。そしてこのような偉大な教師に子どもたちために祈ってもらいたいと願うのは、大人として当然のことです。おそらく当時、人々はユダヤ教の教師(ラビ)の所に子どもを連れて行って祈ってもらっていたことでしょう。それと同じことです。
 日本では、力士に赤ちゃんを抱っこしてもらうと、その子は健康で丈夫に育つと言われています。力士の腕の中で泣き叫ぶ子どもの姿がテレビで放送されることがありますね。それを見るたびに、私はその子にとってのトラウマとならなければよいなぁと思ってしまいます。人々が力士に子どもを抱っこしてもらうのは、力士の力強さが少しでも良い影響を与えてくれると思うからなのでしょう。
 イエス様のところに子どもたちを連れて来た大人たちは、人々から尊敬され、力ある神のわざを行い、恵みに満ちておられるイエス様の愛に心を向けたのではないでしょうか。そして彼らは、イエス様に子どもたちに触れてもらいたい、イエス様に祝福の祈りをしてもらいたい、ただその願いをもって子どもたちを連れて来たのです。ある面でこの姿には、イエス様を慕う思いが現れていると思います。皆さんは、イエス様を慕う思いをもってイエス様に近づいているでしょうか。

 子どもたちがイエス様に近づこうとしたとき、弟子たちがそれを遮りました。その理由は分かりませんが、恐らく弟子たちは、イエス様のお疲れを配慮して、子どものためにイエス様を煩わせることは出来ないと考えたのでしょう。また、弟子たち自身も連日忙しく疲れていたので、子どもたちを相手にしていられなかったのでしょう。さらには、子どもたちはユダヤ社会の中では重要視されておらず、その存在を軽視されていたのです。弟子たちは、ユダヤ人としての視点で子どもたちを見ていました。けれどもイエス様は、違っていました。イエス様は、弟子たちが子どもたちを追い返すのを見て弟子たちを叱り、「憤って」弟子たちを注意しました。そしてイエス様は、「子どもたちを、わたしのところに来させなさい」と言われたのです。この時の「憤った」というギリシャ語には、「(とても)不機嫌である、憤慨している、腹を立てる」といった意味があり、新約聖書には7回しか使われていない言葉です。イエス様が、非常に強い感情を現されたことがわかります。イエス様は、子どもたちをとても大切な存在として受け止めてくださいました。
 イエス様は、子どもたちを来させなさいと言っただけではなく、「神の国はこのような者たちのものなのです」とまで言ってくださったのです。これは、神の国が自動的に子どもたちに与えられるという事ではありません。これは、イエス様が子どもたちを愛し、受け入れてくださっていることを表しているのではないでしょうか。イエス様は、当時のユダヤ人たちの価値観を無視し、打ち消すように子どもたちを優先したのです。

 このイエス様のお姿は、私たちに教会としての在り方を問いかけているのではないでしょうか。私は、自分自身が子ども頃通っていた教会で、教会学校は子どもの集まりで10時30分からの礼拝は「大人の礼拝」と言われて育ちました。そして私自身、いつの間にか子どものための教会学校、大人のための礼拝という理解を持つようになってしまいました。けれども青年になってから教会で色々と奉仕をさせていただく中で、礼拝から子どもを締めだすのは間違っていることに気づかされました。「大人の礼拝」としていたら、子どもたちは礼拝を知らず、礼拝は自分がするものではないと認識するようになります。それでどうやって信仰継承をすることが出来るのでしょうか。年代別のプログラムが必要ではないということではありません。それはそれで必要なことです。しかし教会が、信仰継承を大切な事として考えるなら、子どもたちを含めてすべての年代が一緒に集い礼拝をするべきだという事です。子どもたちは、大人が神様を礼拝している姿を見て、礼拝とは何かを学ぶはずなのです。何よりもイエス様ご自身が、子どもたちが近くに来ることを喜んでおられるのです。私たちがどうしてそれを妨げることが出来るでしょうか。
 イエス様が、子どもたちを喜び、受け入れてくださったという事は、当時のユダヤ社会ではありえない行動でした。しかしイエス様は、子どもたちを大切な存在、愛すべき一人ひとりとして見てくださったのです。同じ眼差しが私たち一人ひとりにも注がれているのです。だから私たちは、イエス様を慕い求めることが出来ます。そして私たちがイエス様を慕い求めた時、イエス様は私たちを喜んで、迎え入れてくださるのです。イエス様を慕い求めて歩みましょう。

Ⅱ;柔軟な心、素直な心

 神様が喜んでくださる心、それは「柔軟で素直な心で」です。イエス様は、弟子たちを叱り、子どもたちを来させなさいと言われた後、「まことに、あなたがたに言います」と大切なことを教えられました。それが15節です。「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに(神の国に)入ることはできません。」です。普通私たちは、「子どものように」と言われるとどんなことを考えるでしょうか。子どもっぽくなれということでしょうか。子どもは素直で、純真、汚れがなく、無邪気だから、そのように素直で純真で無邪気になろうと言うことなのでしょうか。
 確かに子どもたちは、素直で純真で無邪気な性質を持っています。と同時に子どもは、素直なようで実はわがままな一面を持っています。無邪気なようでいて、結局は自己中心でもあります。けれども大体、子どもの心は柔軟で、良くも悪くも様々な情報をそのまま受け入れるのです。子どもの心は、スポンジが水を吸い込むように多くの事柄を吸収します。しかし多くの場合子どもたちは、良い事だけではなく、悪い面を真似る傾向があります。「どこでそんな言葉覚えたの」「どうしてそんな言い方をするのか」と思うほど子どもは、いつの間にか教えてもいないことを覚えているものです。これは子どもたちが、判断能力がないというよりは、心が柔軟であるということでしょう。だから伝道者の書12章には、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。(12:1)」と言われているのです。ここに子どもと共に礼拝する意味があるように思います。子どもたちは、大人が礼拝している姿を見て、触れて、感じて、主を礼拝することの大切さを学びます。そして信仰に導かれていきます。私たちが礼拝するその後ろ姿が、教会の子どもたちの礼拝の姿になっていきます。私たちは、子どもたちに良い影響を与えたいものです。

 イエス様が「子どものように」と言った時、それは柔軟な心で神の国を受け入れ、イエス様に信頼すると言うことなのです。私たちは、成長するにつれて、多くの知識を蓄え、経験を積み、多くのことを考えるようになります。それは、とても重要なことで私たちが自立して生きるためには必要な成長のステップです。けれども私たちは、多くの事柄を吸収しながら、神様に対する柔軟さ、素直さを失ってしまうことが多いのも事実です。だから多くの人は、神様の愛をそのまま信じることが出来ず、神様の言葉にも耳を傾けなくなるのです。その結果、人は、自分は自分の力で何でも出来るし、神様の助けは要らないと思うようになってしまいます。イエス様は、それではいけない子どもから学びなさいと言っておられるのです。私たちはもう一度、子どものような柔軟な心でイエス様を信じ、信頼しているのかどうか確認する必要があるのではないでしょうか。

 そして私たちは、子どものようにイエス様を信じる心をもって歩みましょう。ここでも私たちは、子どもの性質に注目しましょう。特に、子どもの素直さを模範としたいものです。
 子どもは、与えられる物、プレゼントを喜んで受け取ります。もし子どもが、「どうしてお父さんは、自分にプレゼントをくれるのだろうか。どうしてこの人は、これをくれるのか。何か裏がある」と考え疑うような目を向けたとしたら、私たちは不愉快になるでしょう。でも多くの人は、神様に対して色々と理屈を捜して神様を不愉快にさせているのです。
 「神は愛なり」と聖書は教えます。人は、それを感謝するのではなく、「神が愛なら、自分にはもっと良い環境が与えられるはずだ、こんな失敗はしなくてすむのではないか。」等と神様の愛を疑い信じることが出来ないことが多いのです。
 ある人は、「聖書では、イエス様の十字架の救いを信じれば救われると書いてあるけれど、そんなことはない、人は何か良いことをし、修行をしなければ救われるはずはない」と考え、神様の言われることには何か裏があると思うかもしれません。そのような考えでは、人は、神の国に決して入ることは出来ず、神様のこともイエス様のことも決して知ることは出来ないのです。私たちは、神様からのプレゼントであるイエス様の十字架の救いを子どものように喜んで受け入れましょう。私たちは、子どものように心を柔軟にして、イエス様の愛を感謝し神様を信頼して歩みましょう。その時、イエス様に抱かれ祝福を受けた子どもたちのように、私たちもまたイエス様の御腕に抱かれ、天からの祝福を受けることが出来ます。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。今日もこうして主を礼拝できる恵みを感謝いたします。イエス様は、子どもたちを喜んで受け入れ祝福してくださいました。私たちの教会にも子どもたちが与えられ、共に主を礼拝できる恵みを感謝いたします。神様、さらに多くの子どもたちが教会に集い、共に主を礼拝し、祝福を受けることが出来るように導いてください。私たちは、子どものようにイエス様を慕い求め、信じ信頼します。私たち一人ひとりの歩みを導いて、祝福してください。
 阪神・淡路大震災から30年となりました。日本では、能登半島地震など各地で大きな地震が発生し、豪雨での被害が起きています。神様、被災されている方々の上に神様の豊かな慰めと励ましをお与えください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」