2025年1月26日(日)礼拝説教 ルカの福音書19章1-10節 「今日、救いが訪れた」 説教者:赤松由里子師

<子どもたちへ>
 皆さんは、おうちの人とはぐれてしまったことはありますか?迷子になったり、お迎えがいつまでも来ないと、不安になりますね。昔キャンプの帰りに、「ママが来ない、私をおいてどこかに行っちゃった..」と泣き出した子がいました。でもすぐにお迎えが来て、安心した顔をしていました。私たちは、誰かが見つけてくれないとどうしようもない時があるのですね。
 今日は、イエス様の方から見つけてくれた人のお話をします。その人の名前はザアカイ。どんな人だったのでしょうか。

この人がザアカイです。とっても高そうな服を着ています。お金持ちみたいです。また、ちょっとふっくらしています。おいしいものをたくさん食べているのでしょうね。ザアカイは税金を取り立てる、「取税人(しゅぜいにん)」という仕事をしていました。
「おい、ローマに治める税金を払え!」ときびしく取り立てては多めにお金を集めていました。差額を自分のものにしていたので、ザアカイはお金持ちでした。お金を余計に取られた人は、嫌な気持ちになりますよね。ザアカイは町の人から嫌われて、いつも一人ぼっちでした。

 そんなある日のことです。ザアカイの住むエリコの町にイエス様がやってきました。「あの有名なイエス様か。どんな人か見てみたいな。」ざわざわ、たくさんの人が道に集まっています。
 みんなイエス様を待っているのです。
 でも背の低いザアカイには前が見えません。ジャンプしても「前に行かせてくれよ」と頼んでもだめです。まったく見えません。そこでザアカイは近くにあったいちじく桑の木に目をつけました。「よーし、木に登ればいいんだ!」何だか子どもみたいですね。ザアカイは「よっ、はっ!」と木によじのぼりました。「おう、よく見えるぞ!あの方がイエス様か。」
 ザアカイが見ていると、イエス様は木の下まで来て立ち止まり、ザアカイを見上げました。イエス様と目が合って、ザアカイはびっくりしました。イエス様はおっしゃいました。「ザアカイ、急いでおりてきなさい。今日はあなたの家に泊まることにしているから。」
 ザアカイの頭の中はもう真っ白です。「なんで名前を知っているんだろう?それにうちに泊まるってどういうことだろう?」でもうれしい気持ちが大きくなりました。大急ぎで木から降りると、「イエスさま。どうぞうちに来て下さい。」とお迎えしました。見ていた人たちは「あいつのところで客になるなんて、イエス様は何を考えているんだ?」とぶつぶつ文句を言いました。

ザアカイはというと、大喜びでイエス様たちを家に案内しました。イエス様が友達になってくれたことがうれしくて仕方ないのです。そこでごちそうをたくさん用意して、イエス様のお話を聞かせて頂きました。ザアカイは今までしてきた悪いことを思い出して、イエス様に言いました。「イエス様、私の持ち物の半分を貧しい人に分けてあげます。人からおどして取ったものは、四倍にして返します。」するとイエス様は言いました。「今日この家に救いが来ました。」そして今日のみことばをおっしゃいました。一緒に読みましょう。「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです」(ルカ19:10)。
 「失われた者」というのは、神様から離れてしまっている人のことです。罪を犯して、心がいつも寂しい、空しい人をイエス様の方から探してくれたので、ザアカイはイエス様と出会えました。同じように私たちのことも、イエス様は心にかけて探して下さいます。何の準備も出来ていなかったザアカイでも大丈夫でした。私たちもイエス様を救い主として心にお迎えしましょう。

<祈り>
 神様。イエス様がザアカイの所に行って友達となり、人生を変えて下さったことを学びました。イエス様の方から近くに来て、私たちを救って下さることを感謝します。私もイエス様を信じてお迎えしたいです。どうぞお導き下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」
                                  マルコの福音書19章10節

<適用>
 先日、夕食後の我が家で、何がきっかけだったかある遊びが始まりました。それは大喜利です。「○○とかけて△△ととく。その心は?」というあれです。やり方も確認せず唐突に始まった素人大喜利なので、つたないものです。お題を決めるよ、みんなが順番に披露するんだよ、と作法を確認しながら挑戦しました。本当は「整いました!」と言って披露するのでしょうが、その域にはなかなか届きません。中には「座布団3枚!」という答えもありましたが、ほとんどは考える時間に消えてしまいました。「整う」には時間をかけて下準備が必要、というのがにわか大喜利からの学びでした。
 さて、今日お読みいただいたイエスさまとザアカイの出会いは、「整う」準備もなく訪れたものでした。しかもイエス様の側から訪れて下さったものです。そこにはイエス様が下さる救いがどのようなものか示されています。ご一緒に学んで参りましょう。

1.ご自分から訪ねて下さるイエス(1-5)

 まずザアカイとイエス様の出会いを見て行きましょう。エリコはエルサレムから20から30kmに位置する町で、エルサレムからの物品にかかる関税が徴収されていたと言います。この税金はローマ政府に納められますから、その手先となる取税人たちは「罪人、裏切り者」と呼ばれました。彼らは私腹を肥やして裕福でしたが、ユダヤ人社会ではさげすまれていました。羊飼い同様、裁判での証言は認められないし、まともなユダヤ人の職業とは認められていませんでした。ザアカイはその取税人のかしらだったのです。
 しかも彼の名前は「清い人、義人」という意味があります。完全に名前負けしている状況です。富の面では成功しても人々からさげすまれる人生を送り、葛藤や心の渇きがあったのでしょう。そんな中、イエス様がエリコに来た、と耳にしてお姿を見に行くことにしたのです。

 どうしてザアカイはイエス様に関心を持ったのでしょうか?12弟子の中に元取税人(マタイ)がいるということを聞いていたのかもしれません。あるいは祈りについて、パリサイ人ではなく取税人の祈りが受け入れられたとの教えを、耳にしたのかもしれません。取税人である自分の心の渇きに、何かをもたらすお方かもしれないと思ったのではないでしょうか。
 先ほど見たように、彼は木に登り始めます。子どもっぽい行動に思えますが、この姿に先週学んだことを思い出します。「子どものように神の国を求めるのでなければ決してそこに入れない」というお言葉です。現代は大人の対応がもてはやされます。諦めの良さもその一つかもしれません。しかし罪や心の渇きという問題については、子どものように諦めずに神様を求めることが必要なのです。

 そんなザアカイに想像も出来ない展開が待っていました。イエス様が木の下に立ってザアカイを見つめて声をかけたのです。イエス様のお言葉に目を留めましょう。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから」(19:5)。
 このお言葉にはイエス様の一方的な意志を感じます。「ザアカイ」という個人を最初から探しておられたこと。彼と時を過ごし、彼の心の問題に光と恵みを与えようと計画していた、ということです。イエス様の方からやって来て下さった出会いです。これは私たちにも同じです。私たちと神様との出会いは偶然ではなく、ご計画と恵みに基づくものなのです。

 野田秀牧師は「私の信仰履歴書・人生は出会いで決まる」の中で、ご自身の入信のきっかけを語っておられます。「小学4年生のころ、わが家は東京の中野から荻窪に引っ越しました。二軒先に美代子ちゃんという二歳下の子がおり、私たちはすぐに仲良しになりました。昭和19年夏に私たち家族は宇都宮に転居(...略)戦争が終わり精神的放浪の状態と学業不振に陥った私でした。その後春休みに上京した私は、彼女に会い語らいの時を持ちました。その時美代子さんが『これから教会に行きませんか』と言ったのです。彼女はクリスチャンとなっていたのです。連れて行かれたのはインマヌエル丸の内教会でした。…摂理の神の御手が静かに私に伸べられていたのです」(月刊いのちのことば2017年8月号)。
 野田先生は「摂理」と言われていますが、神様のご計画とも言えるでしょう。私たち一人ひとりの神さまとの出会いに、このような神様の側の御手を見出すことが出来ます。

 この時のイエス様のご計画は、罪と空しさに悩むザアカイを救いに導くことでした。イエス様はご自分の方から「今日、あなたのところに行く」と語って下さるお方です。私たちはイエス様の御声を、ザアカイのように感謝をもって受けて良いのです。準備が出来ていないとか、自分は清くないからとか、そんな理由でためらわなくて良いのです。「整っていない」ザアカイや私を訪れて下さったイエス様から、「今日」救いといのちを頂きましょう。

2.回心を導くイエス(6-10)

 ザアカイの家に客として迎えられたイエス様一行は、群衆から不評でした。「あの人は罪人のところに行って客となった」(19:7)と、「あの人」呼ばわりされています。一連の様子から、ザアカイ邸訪問の主体がイエス様であったことは明らかでした。しかしイエス様は、ご自分への非難を意に介されませんでした。むしろザアカイを回心に導くことに集中しているように見えるのです。
 ここでザアカイのことばに目を留めたいと思います。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します」(19:8)。
 これは、償いの大盤振る舞いをすれば罪赦される、という意味でしょうか?いいえ違います。罪赦された結果、ザアカイはそうしたいと思ったのです。
 彼はイエス様に「主よ」と呼び掛けています。ザアカイはイエス様が罪人をも愛し、受け入れて下さることを知りました。彼にとってイエス様は「主」であり「救い主」となったのです。そして悔い改めて信じると共に、自発的に新しい生き方を選んだのでした。

 ヘンリー・シーセンはその著書「組織神学」の中で、「回心」について次のように解説しています。「回心とは、神に立ち返る行為を指し、それは悔い改めと信仰との二つの要素から成り立っている。…しかし人間は、自分からは神に立ち返ることも、悔い改めることも、信じることもできない。…人間に出来るようになることといえば、ただ、自分を神の方に向き返らせて下さい、と神に願うことだけである。人がそのように主に呼ばわるならば、主は彼に真の悔い改めと信仰とを与えて下さるのである。」
 ザアカイの悔い改めと信仰、それをご覧になってイエス様が言われたおことばが9節です。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから」(19:9)。これは、アブラハムを先祖に持つへブル人、ユダヤ人という民族的なことではありません。アブラハムは信仰の父と呼ばれた人ですから、信仰によってザアカイが歩み始めたことをイエス様は見ておられたのです。

 私たちが悔い改めとイエス様への信仰によって歩み出すなら、それは「今日訪れた救い」そのものです。イエス様は私たちにこの救いをもたらすために来たと宣言されました。「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです」(19:10)。罪と汚れで神の前から失われた人生は、イエス様が引き受けて下さるというのです。「そのことのために私は来た」。なんと感謝なみ教えでしょうか。ザアカイのように悔い改めて、信仰によって歩み続けて参りましょう。

<祈り>
 「天の父なる神様。罪ある者、自らどうすることも出来ない者を、ご自身から訪ねて救いに導いて下さるイエス様を学ばせて頂きました。その愛と恵みに満ちたお働きを感謝いたします。子供のような心で神様に救いの道、いのちの道を求めて参ります。「失われた者を捜して救うために来た」と言って下さるイエス様の恵みに、どうぞ日々与らせて下さい。私たちを励まし、ザアカイが歩み始めた信仰の旅路を歩みとおすことが出来るよう、お助け下さい。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」