2025年2月23日(日)礼拝説教 サムエル記第一10章17-27節 「主を恐れ主に仕えよ」 説教者:赤松由里子師

<子どもたちへ>
 先週はサムエルさんのお話でしたね。まだ子ども時代のお話を聞きました。その後、サムエルは長い間イスラエルの指導者をつとめて、おじいさんになりました。
 ある日、イスラエルの人たちがやってきて言いました。「サムエル先生。先生ももうお年です。次の指導者にはどうか王様を選んでください」。サムエルはどう思ったでしょう?がっかりし、悲しくなりました。こう思ったのです。「イスラエルの王様は神様で、人間の王様は必要ないのに、みんなはそれがわからないのだろうか?」

 サムエルは神様にお祈りしました。すると神様は言われました。「人々の言うとおりにしてよい。ただし王とは戦争にも連れていくし、きつい仕事をさせられたりする。それでもいいのか、と伝えなさい。」サムエルはその通りに伝えました。人々は言いました。「構いません!王様がいれば強い国になれるはずです!」。
 そこで神様はサムエルに言いました。「明日、一人の人があなたを訪ねて来る。その人こそ私が選んだ王だ」。

 次の日のことです。とても背が高くてハンサムな若者がサムエルを訪ねて来ました。「こんにちは!サムエル先生に相談があってやって参りました。」この人の名前はサウルと言いました。すると神様が言われました。「これこそ私が選んだ者だ」。
 そこでサムエルは言いました。「神様があなたを王様に選ばれました。」サウルは驚いて言いました。「とんでもない!私は王様にふさわしい者ではありません」。サウルは謙遜だったのですね。そんなサウルを神様は選んだのです。サムエルはサウルの頭に油を注ぎました。王様に選ばれた、というしるしです。
 サムエルは言いました。「さあ、神さまの霊が注がれて、あなたは新しい人に変えられます。神様があなたと一緒にいて下さいます。」

 このあと神さまの霊を受けたサウルは、預言が出来るようになりました。心を新しくされて力を得ました。別の日にサムエルがサウルを紹介すると、人々は大喜びで「王様ばんざい!」と歓迎しました。
 こうしてイスラエルの人たちの願いを聞いて、神様は最初の王様サウルを立てて下さいました。皆さん、神様がイスラエルの人とサウル王様に言った大切なことばがありますので、一緒に読みましょう。「ただ主を恐れ、心を尽くして、誠実に主に仕えなさい」(Iサムエル12:24)。

 「主を恐れ」というのは、神様のみことばを大切にして素直に実行していく、ということです。イスラエルの人たちは神様を大切にする心がゆらいでいたので、こう注意されたのですね。また「主に仕える」というのは、神様のためのご用を心を込めてする、ということです。大切なのはどちらも「心を込めて」ということです。
 私たちも、神様に素直にお従いしていきましょう。まだ子どもだよ、まだ学生だよ、と思うかもしれません。でもみんなの中には神様が下さった力が、ちゃんと育っていると思います。自分が神様のために出来ることはなんだろう?と考えてみましょう。思い浮かんだことがあるなら、心を込めてそれを実行してみましょう。神様は喜んで下さいます。

 <祈り>
「天の父なる神様。神様のみことばをよく聞いて素直にお従いする大切さを教えられました。どうか私たちを助け、神様に従っていくことが出来るようにお導き下さい。また、神様のために出来ることを見つけて行きたいと願います。どうぞ示して下さい。神様にも人にも喜ばれる存在となれますように。イエス様の御名によってお祈りします。」

「ただ主を恐れ、心を尽くして、誠実に主に仕えなさい。」
                                  サムエル記第一12章24節

<適用>
 先日バスケットボール日本代表のニュースが報道されました。中国の深圳(シンセン)で行われるアジアカップを前にしたニュースでしたが、唯一の高校生の選手が取り上げられていました。彼は身長2m越えで、ゴールリングにも手が届くような体格でした。大勢の一流選手に交じってどんな活躍をするのだろうか、と楽しみになりました。
 また、野球のメジャーリーグ選手では、大谷翔平選手は193cm、佐々木朗希選手は192cmです。最近の日本人スポーツ選手は体格のいい人が本当に増えたなあと思います。大谷選手の練習を見に来ていた日本人のファンがこう言っていました。「メジャーリーガーに交じっても見劣りのしない体格で、日本人として誇りに思うよ」。
 聖書にも「容貌の優れた者」として背の高い人が何人か出て参ります。今日の主人公であるサウルもそうでした。また後のダビデ王が選ばれる際も、兄たちが背の高いのを見てサムエルが「この人に違いない」と思う場面が出てきます。体格の良さ、容貌の良さ、そうしたものは「きっと活躍してくれるだろう」と、期待をかき立てるものなのかもしれません。
 イスラエルの最初の王としてのサウルの歩みには、光と影がありました。本日はサウルの生涯の前半を学びます。出だしはその見た目同様、良いスタートに見えました。けれども王が欲しいとの要求は不信の罪から来たものでした。またサウルも後に退けられて行きます。 しかし神様は、最初の段階から警告をなさっていました。それは「主を恐れ主に仕える」ということです。神様が大切なこととして教えられたことを、共に学ばせて頂きたいと願います。

1.主を恐れて歩む

 今日覚えたい第一のことは、主を恐れて歩むことの大切さです。イスラエルの民が王を求めた様子は先ほど見た通りです。彼らは王を求めることが、神様のみこころを損ねることを理解しませんでした。残念ながら神を恐れる、ということが欠けていたのです。8:22を見ると「彼らの言うことを聞き、彼らのために王を立てよ。」という神様のお言葉が記されています。彼らの求めに応じたのは、結果を彼らに刈り取らせる、と言う意味での裁きでした。

 サウルその人はどうだったでしょうか。その様子が9章に出て参ります。彼はベニヤミン族のキシュの子で、イスラエル人の中で彼より美しい者はおらず、民の誰よりも背が高かったと特筆されています。よほど目を引く人だったのでしょう。
 サムエルとサウルの出会いの様子を見てみましょう。「サムエルがサウルを見るやいなや、主は彼に告げられた。『さあ、わたしがあなたに話した者だ。この者がわたしの民を支配するのだ』」(17)。
 そして王に選ばれたことをほのめかされると、サウルはこう答えます。「私はベニヤミン人で、イスラエルの最も小さい部族の出ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、取るに足りないものではありませんか。どうしてこのようなことを私に言われるのですか」(21)。サウルはこの時謙遜でした。自分こそは、と高ぶる様子を見せなかったのです。

 この後サムエルはサウルと2人きりで王としての油注ぎをひっそりと行います(10:1)。これはイスラエル史上、正当な最初の王の任職でした。実は士師記を見ると、王を名乗った人物が出てきます。あのギデオンの息子アビメレクです。兄弟70人を殺して王となっていますが、彼は正当に即位してはおりません。ですからやはり最初の王はサウルなのです。
 10:20を見るとイスラエル全部族が集められ、くじでサウルが取り分けられました。しかしサウルが見当たらない。「彼は荷物の間に隠れている」と神様に見つけられる有様で、野心は見受けられませんでした。

 サムエルはサウルを最大限の賛辞で推薦しています。これは選びの器への敬意であり、同時に光り輝く青年王の出現に期待する面もあったのではないでしょうか。しかし神様が求めておられるのは、人が慕う見栄えではなく、神を恐れて謙遜に歩む器だったのです。この時のサウルはそのような器だったと言えるでしょう。
 「王様万歳!」と民に受け入れられたサウルでしたが、彼を拒む者に対して沈黙を守っています(27)。この節度のある態度も大切なものでした。
 サウルにはこのような姿勢で従い続けることが求められていました。主を恐れることとは、主に従うことに他なりません。ですがこれは簡単なことではありません。実際サウルは失敗していきます。私たちも同じです。主の助けがなければ従い続けることなどとても出来ません。だからこそ私たちは主を恐れよ、という勧めを心に刻む必要があります。信仰の初心を忘れずに、へりくだって主の助けを祈り求めようではありませんか。主は私たちを喜び助けて下さいます。

2.主に仕える歩み

 2つ目に覚えたいことは、主に仕える歩みをすることの大切さです。11章ではサウルの最初の勝利が出てきます。王となっても彼は牛を追って畑から帰ってくるような生活でした(11:5)。しかし33万人の人々を率いてアンモン人の圧迫を打ち破ったのです。ここでもサウルは、侮っていた者たちを殺そうという民の声を押しとどめるふるまいをしています。それは「主がイスラエルにおいて勝利をもたらしてくださったのだから」(13)とあり、神に栄光を帰する姿勢でした。サムエルも満足して「王政を樹立しよう」(11:14)と宣言し、サウルも民を大いに喜んでいます。王としてイスラエルを守るのが、サウルの神様への仕え方でした。彼は立ち上がり、この働きを始めたのです。サウルがこの思いを忘れないでいたら、歴史は変わっていたかもしれない、と思います。

 この後サムエルは12章で説教をしています。それは王国として歩み始めたイスラエルへの警告と教えです。まずサムエルは「王を求めることで、主の目の前に犯したが罪が大きかったことを認めて、心に留めなさい」と迫ります。そして罪に気づいた民にこう赦しを告げるのです。
「あなたがたはこのすべての悪を行った。しかし主に従う道から外れず、心を尽くして主に仕えなさい」(20節)。「主はご自分の大いなる御名のために、ご自分の民を捨て去りはしない。主は、あなたがたをご自分の民とすることを良しとされたからだ」(22節)。これは大きな慰めではないでしょうか。私たちは意図せず失敗したり、神様の前に罪を犯してしまうことがあります。クリスチャンになったからと言って、天の御国に帰る日まで、完全になることはありません。
 しかし神様は、「心を尽くして主に仕えよ」と語って下さいます。罪人に過ぎない私たちを、赦して受け入れ奉仕者として下さるのです。なんという憐れみでしょうか。主から恵みを頂く私たちですが、頂く一方でなく仕える者となるよう招かれています

 サムエルの言葉に注目したいと思います。「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめ、主の前に罪ある者となることなど、とてもできない。私はあなたがたに、良い正しい道を教えよう」(23)。罪の現実の前に私たちは落胆しやすいものです。しかしサムエルは、とりなしの祈りをやめない、主の道に歩むことを語り続けるのだ、と決意を新たにしました。やめずに続ける、これがサムエルの仕え方でした。
 そして今日のみことばに繋がります。「ただ主を恐れ、心を尽くして、誠実に主に仕えなさい」(24)。何をもって私は主にお仕え出来るでしょうか。何を始めるべきでしょうか。何を続けるべきでしょうか。一人ひとりが主の御前に思いめぐらし、一歩を踏み出していきたいものです。

<祈り>
「天の父なる神様。主の日の礼拝に集わせて下さりありがとうございます。あなたを恐れお従いして歩むこと、悔い改めと共にあなたにお仕えして生きることの大切さを教えて頂きました。いずれも神様の助けがなければ、とてもなしおおせぬことです。どうぞ私たちをお助け下さり、悪の道から守って下さい。赦された罪人に過ぎませんが、あなたにお仕えして生きる者として下さい。立ち上がり始めるべきこと、やめずに続けるべきこと、どうぞ示して下さり御前での決意をお守りください。あなたの御用に用いて頂けますよう、私たちを清め、導いて下さい。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」