2025年3月2日(日)礼拝説教 サムエル記第一13章1-15節 「主の道を守る幸い」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>
 僕は、小学生の時「今日の2時間目の授業は、自習となります。」などと言われると大喜びしました。なぜって僕は、「自習とは自由に過ごしてよい時間」と思っていたからです。そして自由に過ごしていると、見回りに来る先生に注意されるわけです。「自習」って自由に過ごすのではなく、自分で学習する時間だからです。僕は、その意味を間違えてしまったのです。

 イスラエルの最初の王となったサウル王様は、預言者サムエルを通して言われた神様からの命令に従うことが出来なかった王様となってしまいました。
 「サウル王よ。神様からの命令を伝えます。これからアマレク人の地域に攻め込んで、何もかも焼き尽くして滅ぼしてしまいなさい。アマレクの全ては、神様のものとしてささげるのです。自分のためにとってはいけません。」サムエルがサウル王様に神様の言葉を伝えました(サムエル記第一15章1-3節)。
 「はい、分かりました。神様の言われるとおりにします。」そう言ってサウルは、イスラエル軍を呼び集めました。たくさんの兵士がサウル王のもとに集まりました。そしてアマレクに対して戦いを仕掛け、大勝利をすることが出来たのです。その時、サウル王様とイスラエルの兵士たちは、話し合いました。「アマレクの王は生け捕りにしよう。羊や牛はどうしようか?羊や牛の中で状態の良いものがいるからそれは取っておくことにして、値打ちのなさそうなものは滅ぼしてしまおう。」これは、神様が預言者サムエルと通して言われたことと違いますよね。

 すべてを知っている神様が預言者サムエルに言います。「サムエルよ。イスラエルの王としてサウルと選んだけれども、それを思い直さなければならない。サウルは、すべてを滅ぼすようにという命令を守ることをしなかった。」それを聞いたサムエルは、とっても悲しみ一晩中寝ることが出来ずにずっと神様に叫ぶような祈りをしました。
 翌日、サムエルは、サウル王に会いに出かけました。サウル王とイスラエルの民は、大喜びで大勝利の記念碑を立ててお祝いしていました。「サムエル先生、ようこそ来てくださいました。私たちは、神様が言われた通りにして大勝利をすることが出来ました。今ちょうどお祝いをしていたところです。サムエル先生もお祝いしましょう。」とサウル王は上機嫌でした。サムエルは、怒りと悲しみの顔でサウル王を見ています。サムエルは、「アマレクに勝利をしたことは分かりました。でも神様の言われた通りにしたというけれど、私に聞こえる羊や牛の鳴き声は何のですか。神様は、アマレクのものはすべて神様のものとしてささげ、滅ぼしつくすように言われたのです。」と言います。

 これはまずいと思ったサウル王は、「あ~、あれは、兵士たちが状態のとっても良い羊と牛を取っておきたいと言うものだから。ほかのものは滅ぼしました。」と言い訳をします。「もうよい。」サムエルが強い口調で言います。そしてサムエルは、サウル王の間違いを教えるのです。「神様は、アマレクのものはすべて滅ぼすようにと言われたのです。それは、すべて神様のものとしてささげるということです。それを取っておいたというのは、あなたは神様のものを横取りして喜んでいるということですよ。あなたが神様の言葉に従わなかったから、あなたは王様ではなくなり、別の人が王様となります。」
 サウル王は、やっと自分がやってしまったことを知りました。そして「私は、罪を犯しました。」と謝るのですが、サウル王様の心が変わることはありませんでした。結局、サウル王様に代わる別の王様が選ばれることとなります。

 さて、僕たちは、今、神様の言葉である聖書を持っています。神様は、聖書を通して僕たちにいろいろなことを教えてくださいます。今週の聖句を読みましょう。箴言8章32節です。「子たちよ、今、わたしに聞き従え。幸いなことよ、わたしの道を守る者は。」僕たちにとって神様の言葉を聞き、それを守ることはとっても良いことです。神様の御言葉を守る時、僕たちは神様からの素晴らしい喜びが与えられるのです。聖書の言葉を覚え、心に蓄えましょう。もう一度、今週の聖句を読みましょう。

<祈り>
 「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。サウル王は、神様の言葉に従うことが出来ませんでした。今日、神様の御言葉を聞き、守ることが幸いであることを知りました。神様、僕たちが神様の言葉をちゃんと心に蓄えることが出来るように助け導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「子たちよ、今、わたしに聞き従え。幸いなことよ、わたしの道を守る者は。」
                                     箴言8章32節

<適用>
 私は、車を運転していても、歩いていても、普段使っている道からちょっと脇道にそれてみたくなります。と言うのは、私は「この道を使ったらどうなるのだろうか。方向的にあっているような気がするから、きっと近道になるのではないか」と考えてしまうのです。皆さんは、そんなことはないでしょうか。私は、車を運転している時に、カーナビを確認しながら、目的地方向に進みそうな道で、しかも時間に余裕がある時に脇道にそれて行きます。結果はどうなるかと言うと、脇道が近道で時間短縮になることはほとんどありません。私は、普段使っていた道が一番良いという事を知るのです。
 今日は、「主の道を守る幸い」という事でサムエル記第一13章と15章をみることにします。主の道を守る幸いとは、どのようなことなのでしょうか。

Ⅰ;確かな神様の導きがある

 「主の道を守る幸い」とは、確かな神様の導きを受けて歩むことが出来るということです。
 箴言8章32節には「幸いなことよ。主の道を守る者は。」とあります。まず私たちは、「主の道を守る」の「主の道」とは何かを知ることから始めましょう。「道」と訳されているヘブル語には、「道、旅、方向、習わし」などという意味があります。ですから「主の道」とは、主なる神様が示される道、方向であり、神様が教えてくださる歩みということになります。イエス様も「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです(ヨハネ14章6節)」と言われました。神様によって示される道(方向)を守る者は、神様からの幸いを得ることが出来、そこに確かな神様の導きがあるのです。

 サウルの姿に目を移しましょう。サウルは、ある年齢に達した時、イスラエルの王となりました。新改訳聖書第三版までは、「30歳で王となり」と訳されていましたが、実はヘブル語の本文では数字が不明な状態となっています。ですので、新改訳2017では、「ある年齢に達した時」と訳しています。
 このように選ばれたサウルでしたが、彼は王としての最初の段階で幾つかの失敗をしてしまいました。最初の失敗は、隣国のペリシテ人との戦いが起った時のことです(13章)。この戦いは、サウルの息子ヨナタンの突発的な行動によって始まってしまったと言っても良いでしょう(Ⅰサムエル13:3)。また戦いをすると言ってもイスラエルの国で軍備がすぐ整うわけではありませんでした。当時イスラエルには武器を造る鍛冶屋がいなくて、戦いのための武器を持っていたのはサウル王とその子ヨナタンだけでした(Ⅰサムエル13:19‐22)。他のイスラエルの人たちは、農耕用具(鎌や鍬)などを手にして出兵していたのです。しかもサウルのもとにいる兵力は、3千人です。対するペリシテ軍は、戦車3万、騎兵6千、歩兵は海辺の砂のように多いのです(Ⅰサムエル13:5)。ですからイスラエルの民は、圧倒的な戦力差のために、戦う前から負けを覚悟して、震えながらサウルに従っていたのです(13:6-7)。彼らのうちある者は、戦線から離れ、ある者は洞穴や岩間、地下室などに身を隠します。もしかしたらサウル自身も不安だったのかもしれません。最終的に残っている兵士の数は、600人であったことを考えると相当な混乱がイスラエルの中にあったことが分かります。

 この状況が、サウルを神様から引き離すことになってしまいました。預言者サムエルは、サウルに対して予め、ギルガルで7日間待ちなさいと言っていました(Ⅰサムエル10:8)。おそらくイスラエルの民が出陣する時には、サムエルがイスラエルの陣営まで行くこととなっていたのでしょう。しかし、サムエルの到着が遅れました。その時サウルは、民が逃げていきそうな様子や状況が好転しないのを見て、サムエルを待つことを止めて、いけにえを献げてしまったのです。これは、祭司であり預言者であったサムエルが行うことでした。これがサウルの失敗となりました。
 サムエルに問い詰められた時のサウルの言葉は、苦しい言い訳にも聞こえるのですが、サウルの霊的状態を知ることが出来ると思います。サウルは、サムエルが遅れているし、民が離れてしまうのを恐れ、「主に嘆願していないと考え、あえて、全焼ささげ物を献げたのです(Ⅰサムエル13:12)」と言っています。サウルは、サムエルの言葉を覚えていましたし、サムエルがいけにえを献げるということもわきまえていました。でもサウルは、サムエルの到着を待つことが出来ませんでした。これはサウルが、サムエルを通して与えられた神様の言葉を守らなかったということになります。サムエルは言いました。「あなたは、あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに。(Ⅰサムエル13:13)」

 このサムエルの言葉の裏を返せば、サウルが神様の命令を守り、従ったならば、サウル王の王国は確立し、神様の確かな導きを受け続けることが出来たということなのです。ここに主の道を守る幸いがあります。私たちが、神様の御言葉によって示される神様の御心を知り、それを心に留めて歩むならば、私たちは神様の確かな導きを受けることが出来るのです。私たちは、この神様の確かな導きを手放すことなく歩みましょう。
 サウルの視点から見れば、サウルの言い訳もしょうがないと思ってしまうかもしれません。サウルは、自分が置かれた状況が悪すぎるし、この状況はどう考えても好転するとは思えないと考えました。サウルは、「あれが悪い、これが悪い、こんなことでうまくいくはずがない」と、懸命に考えを巡らせたことでしょう。その時サウルが忘れていたことがありました。それは、個人的に神様に祈るということです。サウルは、神様に求めること、主なる神様に信頼することを考えることが出来なかったのです。だからサウルは、主に祈らず、主からの助けを求めることもなく、自分の出来ること、自分の力で解決する方法を選び取ったのです。

 私たちももしかしたら、サウルと同じように、置かれている状況が悪く、物事が好転しないということがあるかもしれません。その時サウルのように、「あれが悪い、これが悪い」と考えたり、時には「あの人が…。」とか考えてしまい、心がマイナスのほうに向かっていくことがあるかもしれません。イザヤは、そのような闇と思える状況にあって私たちがどうすることが良いのかを教えています。「闇の中を歩くのに光を持たない人は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め。(イザヤ50:10)」
 私たちは、時として光が全く見えず、闇の中を歩んでいると思える時があります。その時大切なことは、私たちを照らし、光を与えてくださる、主なる神様を見上げることです。その時私たちは、確かな神様の導きを受けることが出来ます。

Ⅱ;神様からの恵みがある

 「主の道を守る幸い」とは、私たちが主なる神様から恵みをいただくことが出来るということです。「主の道」とは、神様によって示される道筋であり、進むべき方向です。神様は、その一つ一つを御言葉によって私たちに知らせてくださいます。この神様の御言葉に沿って進むならば、私たちの人生には神様の恵みが絶えず注がれるのです。
 神様は、サムエルを通してサウル王にアマレク人を聖絶するようにと命令を出します。アマレク人は、イスラエルの民がエジプトを脱出した時に敵対した民族でした(出エジ17:8-16)。その時イスラエルの民は、かろうじて勝利しますが、神様はアマレクを根絶やしにすると言われました。「主はモーセに言われた。『このことを記録として文書に書き記し、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去る(出エジプト17:14)。』」そして神様は、その役目をサウルに与えるのです。

 「聖絶」というのは、全てを神様のものとしてささげ尽くすということです。私たちにとっては、理解しがたいことのように思います。「聖絶」は、主なる神様の主権のもとで行われる戦いを意味しています。ですから、国土を拡大する侵略のためという人間の欲による戦争や部族間の抗争という戦いとは違います。聖書の「聖絶」は、現代行われているような戦争(聖戦と呼ばれるもの)や争いとは全く違う要素を持っています。神様は、旧約のイスラエルの民に、「聖絶」という命令を与え、他の神々と言われる偶像よりも偉大な神であることを示し、ご自身の聖さと正しさと栄光を表しておられるのです。そしてこの聖絶は、イスラエルの民を他の異教の神々から守るという意味があり、さらには、他の国々も主なる神様の御力を知り、信じるようになることが求められていたのです。また「聖絶」は、偶像礼拝への神様の裁きでもあります。ですからイスラエルの民でも、裁きの対象にされるのです。バビロンやアッシリアによってイスラエルが捕囚とされるというのがそれです。しかし新約の今では、神様は、イエス様の贖いによる救いを通してご自身の聖さと栄光を表し、またクリスチャンの生き方を通しても、神様の恵みは証しされるのです。

 さて、サウル王率いるイスラエルの民とアマレクとの戦いの顛末は、先ほど見た通りです。しかしサウルは、ここで大きな間違い、神様への反逆を行ってしまったのです。Ⅰサムエル15章7-9節を読みましょう。「サウルは、ハビラからエジプトの国境にあるシュルに至るまで、アマレク人を討ち、アマレク人の王アガグを生け捕りにし、その民のすべてを剣の刃で聖絶した。サウルとその兵たちは、アガグと肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しんで、これらを聖絶しようとしなかった。ただ、つまらない値打ちのないものだけを聖絶したのである。」

 神様の命令は、すべてを神様のものとして、神様にささげる(聖絶する)ということでした。けれどもサウルは、最も良いものを自分たちの所有とし、つまらないものを神様のものとしたのです。
 この事実を神様から聞かされたサムエルの心の痛みは、どれほどだったことでしょうか。サムエルは、イスラエルに王が必要だと言われた時、預言者である自分が否定されたと感じました。神様は、イスラエルに王を立てるようにと言われ、サウルを選んでくださったのです。サムエルは、神様によって立てられたサウルを支持し、愛をもって支えていたことでしょう。けれども神様によって立てられたサウルは、神様に従うべきイスラエルの王としては不適格となってしまったのです。Ⅰサムエル記15章11節の「サムエルは怒り、夜通し主に向かって叫んだ」というのは、サムエルの心の深い痛みを表現しています。サムエルは、夜通しの祈りを通して、神様に敵対し神様の道を守らなかったサウルが、王位から退けられるという神様の決定が覆ることがないことを知りました。ですからサムエルは、とても厳しい言葉でサウルを叱責するのです。

 サムエルが、サウル王に語った言葉「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御前に聞き従うほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪(Ⅰサムエル15:22-23)。」は、私たちも耳を傾けるべき言葉です。そしてこの言葉の中に、主の道を守る幸いがあります。主なる神様は、全焼のいけにえよりも、私たちが主の御声に聞き従うことを喜ばれます。神様が喜ばれるということは、そこに神様からの恵みがあり祝福があるということです。
 今週の聖句、箴言8章32節の続きに目を向けるとそこには、神様の御声に耳を傾ける人の幸いが語られています。箴言8章35節には「なぜなら、わたしを見出す者はいのちを見出し、主から恵みをいただく」とあるのです。
 神様の御言葉によって示された道、御心、進むべき人生の方向にしっかりと心を向け、主の言葉を聞き守るならば、神様からのいのちが約束され、恵みをいただくことが出来るのです。
 私たちは、主の道を守り、確かな神様の導きをいただき人生を進みましょう。そして私たちは、主の道を守り、神様から永遠のいのちへの約束と恵みをいただいて歩みましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。私たちは、神様の御言葉によって示される道や御心、方向に心を向け、御言葉を守る時、そこに確かな神様の導きがあり、恵みがあることを信じます。神様、私たちが日々あなたの確かな導きの中を進むことが出来るように助けてください。また神様、私たちが神様からたくさんの恵みをいただき、心に活力をいただいて歩むことが出来るように祝福を注いでください。私たちは、あなたの道を守ります。
 神様、空気が乾燥し、日本各地で山林火事が発生しています。消火活動にあたっている方々を守り、山林火災が発生している地域の人たちをお守りください。
 神様、今、全世界に神様ご自身の平和を与え、助け導いてください。そして一人ひとりが主なる神様を求めることが出来るように御手を差し伸べてください。
 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」