<子どもたちへ>
先週は、ダビデとゴリヤテのお話でした。ダビデがゴリヤテを石ころで倒して勝利しました。これにはみんな大喜びで、ダビデは王様の家来になりました。この日、もう一つ大事なことが起こりました。それは、ダビデの人生を左右するような大事な友達が出来たのです。
その人は、サウル王様の息子、ヨナタン王子です。「ダビデ、君はなんて勇気があるんだ!素晴らしい戦いだったよ」。ヨナタンはダビデが神様を信じて立ち向ったことに感心して、ダビデが大好きになったのです。ヨナタンは言いました。「僕たちは友達だ。そのしるしにこれを受け取っておくれ」。なんとヨナタンは、王子が着る立派は上着やよろいかぶと、剣に弓に、ベルトまでダビデにプレゼントしてくれました。それだけ「君は本当にすごいやつだ」と伝えたかったのですね。
さてペリシテ人に勝ったのでみんなで都に帰りました。すると、イスラエル中から集まった人たちが、大喜びで「サウル王は千人やっつけた。ダビデは一万人やっつけた!」と歌っているではありませんか。これを聞いたサウル王様は腹を立てました。「ダビデめ、私より人気者になりおって。このままではやつに王座を取られてしまうかもしれん」。次の日王様は、ダビデを殺そうとしてやりを投げつけました。「うわっ!」ダビデは何とか逃げ出しました。でも今度は危ない戦いに隊長として行かされました。「ダビデのやつを戦争で死なせてやろう」。王様はそんなことを考えていたのです。でもダビデはまた大勝利をしたので、国の人々はみんなダビデをほめました。
ますます王様は不機嫌になって、とうとうヨナタンや家来に言いました。「私はダビデを殺すことにしたぞ!」ヨナタンはびっくりして言いました。「父上、ダビデはあなたやイスラエルの国に良いことしかしていません。ダビデを殺さないで下さい!」すると王様は考え直してくれました。
でも日にちがたってまた不機嫌になった王様は、ヨナタンには黙ったままダビデを殺そうとしました。でもダビデは逃げてヨナタンに相談しました。するとヨナタンは言いました。「私が父の考えを確かめます。もし殺す気だとわかったら、この矢を打って、あなたに知らせます」。
ヨナタンはサウル王様にもう一度話しました。すると王様は怒って言いました。「あいつがいると、王子のお前も将来王になれないのだぞ。あいつは死ななくてはならないのだ」。言い返そうとするヨナタンをやりで殺そうとするくらい、王様は怒っていました。
ヨナタンはどうしたでしょう。自分が次の王様になるために、ダビデがいなくなった方がいいと考えたでしょうか?いいえ、ダビデを本当の友達、神様を信じる素晴らしい仲間、と考えていたヨナタンは、ダビデを助けました。約束通り野原に行って、矢を遠くに向かって打つ、という合図を送りました。王様が狙っている、遠くに逃げて!という意味です。ダビデは姿を現して、2人は抱き合って泣きました。ヨナタンは言いました。「安心して行って大丈夫だよ。神様の前で誓った通り、離れていても君の成功を祈っているよ」。このヨナタンの友情のおかげでダビデは命が助かり、将来王様になって行きます。でもそれはヨナタン王子が王様になれなかった、ということでもあります。
みなさん、ヨナタンは「自分さえ良ければいい」とは考えませんでした。本当の友達、というのは、ヨナタンのように相手を自分のように大切に思うことなのですね。みことばを読みましょう。「友はどんなときにも愛するもの」(箴言17:17)。助け合い励まし合える大切な友達が与えられるよう、自分がそうなれるよう、お祈りしていきましょう。
<祈り>
神様、礼拝に出られてありがとうございます。相手を自分のように大切にする友情を、ヨナタンの姿から教えてもらいました。いい時だけでなく大変な時も、励まし合える友達が必要です。どうぞ私たちにそのような友達をお与え下さい。また、自分も相手を大事にする良い友達になっていけますように、お導き下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
「友はどんなときにも愛するもの」 箴言17:17
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」 ヨハネの福音書15章12節
<適用>
先日、野球のメジャーリーグ開幕戦が東京ドームで行われました。私はそれほど興味のある方ではないのですが、家族が観戦しているのをちらちらと眺めておりました。その話題に中心にいるのはやはり、ドジャースの大谷翔平選手でした。現代のアスリートとして突出した実績と人気のある選手です。この大谷選手に関してある印象的な形容がなされています。それは、「愛される選手」ということです。もちろん尊敬されるあこがれの存在、他の選手から注目と人気を奪う妬ましい存在、色々な側面をもった存在でしょう。しかし「愛される」という形容が実に多いのです。彼は時代のスーパースターということなのでしょう。
3月に入って学んでいるダビデもまた「愛される」人物でした。しかし、彼が王となれたのは、命の危機から逃れられたからです。そのために用いられたのは一人の真の友ヨナタンでした。多くに愛されても、ただ一人のまことの友がいなければ、ダビデ王は誕生しませんでした。主にある友情は、信仰生活の大きな祝福です。ヨナタンの姿から聖書の語る友情について学んで参りましょう。
1.神への忠実さを認めあう友情
第一に覚えたいのは、ダビデとヨナタンの友情は、神への忠実さを認め合うものだったということです。
ゴリヤテへの勝利の日にヨナタンのダビデへの友情は確かなものとなりました。「ヨナタンは、自分自身のようにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ」(18:3)とあります。ヨナタンもまた勇敢な人でした。14章には道具持ちと2人だけでペリシテ人を打ち、イスラエルに勝利をもたらした様子が記されています。ですから、ダビデの勇敢さに共感を覚えたのでしょう。
またヨナタンは国益を冷静に分析し、ダビデの存在の得難さを理解する人でした。「王よ、しもべダビデのことで罪を犯さないでください。彼はあなたに対して罪を犯してはいません。むしろ、彼のしたことが、あなたにとって大きな益となっています。彼が自分のいのちをかけてペリシテ人を討ったので、主は大きな勝利をイスラエル全体にもたらして下さったのです」(19:4,5)。
王子として国を率いる立場のヨナタンです。同じ信仰に立つ力強い同輩としてダビデを認めたのです。
興味深いことに、この麗しい友情の物語には、一度も「友」とか「友情」ということばが出てきません。代わりに出てくるのは「愛」と言う表現です。聖書では友情は愛とほぼ同義なのです。だとすれば聖書における友情は、相手を大切にする愛と、神に対して忠実に励む神への愛、の両方を含んでいます。そしてヨナタンの存在がダビデを命の危機から救って行きます。ダビデを王とする神のご計画にこの友情が用いられていったのです。
相手の存在が自分の信仰の励ましとなる。自分の歩みもまた誰かの励ましとなる。自分ひとりで歩む信仰生活でなく、だれかに伴走できる者になりたいものです。そしてそんな信仰者の間の友情が、神さまに用いられるものになれば幸いです。
2.困難な時の友情
2つ目に覚えたいのは、困難な時の友情の価値です。ヨナタンの友情は、ダビデの困難な時にこそ真実でした。今日お読みいただいた箇所は、新月祭の食事の出来事です。ダビデはサウル王の殺意を確信し、既に逃亡しています。ヨナタンは、父サウルの真意を探ろうとしています。その2日目の緊迫した会話が記されています。ダビデをかばうヨナタンを罵ったのち、サウルはこう言っています。「エッサイの子がこの地上に生きているかぎり、おまえも、お前の王位も確立されないのだ。今、人を遣わして、あれを私のところに連れて来い。あれは死に値する」(20:31)。これがサウルの本音です。主がサウルを去りダビデと共におられることの不安から、彼はダビデを妬んでいました。息子への王位継承を願っていますが、その計画を阻む存在としてダビデを消す決心をしていました。
この状況で、いわば皇太子であるヨナタンはどう振舞うのが得策だったのでしょう。当然父の言うようにダビデに死んでもらうのが、自分の益になるでしょう。しかしヨナタンはそう考える人間ではありませんでした。それがこの直前のダビデとの語らいの言葉に現れています。「もし父が、あなたに害を加えようと思っているのに、それをあなたの耳に入れず、あなたを無事に逃がさなかったなら、主がこのヨナタンを幾重にも罰せられますように。主が父とともにおられたように、あなたとともにおられますように」(20:13)。ヨナタンはこのように、主が共におられるところに祝福があるべきだ、と揺らがなかったのです。
ご存知のように今の日本の首相は石破茂氏です。この方は日本基督教団鳥取教会で受洗したクリスチャンです。私たちの信仰の立場とは異なりますが、その務めのためにとりなしが必要です。
最近の色々問題で支持率が大きく下がり、「選挙が戦えない、退陣しろ」と言う声が自民党内であるそうです。しかし先日小泉進次郎議員がこんなことを言っていました。「色々文句があったって、自分たちが選んだ人を苦しい時も支える組織だったら少しは信頼回復のきっかけをつかめるのではないか」。私は彼らに肩入れする思いはありませんが、これに関してはいいことを言うな、と思いました。
箴言のみことばにこうあります。「友はどんな時にも愛するもの」(箴言17:17)。雨天の友は真の友、ということでしょうか。日和見的に自分を利するふるまいは、ヨナタンに見られる聖書の友情とはかけ離れた姿です。ヨナタンにとっても、この時どうふるまうかは難しかったことでしょう。彼は食事の席を立ち、ダビデに逃亡の合図を送りました。自分に出来ることでダビデに真実を尽くしました。
どんなときにも真実を貫き、共に主を見上げるよう励まし合う友情、それがあれば信仰生活は豊かになります。相手が困難な時、自分が困難な時、それでも真実な友情を保つには主の助けが必要です。へりくだって主の助けを祈って参りましょう。
3.キリストの示された友情
最期に覚えたいのは、私たちを友と呼んで下さったキリストの友情です。それは自らを犠牲することを厭わない友情です。ヨナタンにもその姿勢が見られます。ヨナタンは新月祭の前の語らいでこう言いました。「もし私がこれ以上生きるべきではないのなら、あなたは、主の恵みを私に施して、私が死ぬことのないようにする必要はありません。」(20:14)。このことばは何を意味しているでしょうか。ヨナタンもわかっているのです。もしダビデが生き延びれば、自分はイスラエルに皇太子として存在出来ないのだ、ということを。ましてや古代の戦国の世です。巨頭は並び立てません。その先に待つのはサウルと共に消えていく将来です。しかし彼は、神のご計画がダビデの即位にあるならそれを受け入れる覚悟をしていたということです。信仰によって自己犠牲を受け入れていたのです。
3/5から受難節に入っておりますので、イエス様の十字架への歩みを覚えていくことが大切です。ヨハネ15章でイエス様はこう言われました。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です」(ヨハネ15:12-14)。
ここでも友情は愛として語られています。いのちを捨てる愛をもって、イエス様は私たちの友となって下さいました。私たちの側に立つことを恥とせず、真実を尽くして下さいました。それが十字架の贖いのみわざです。罪人の代価を支払って、神と和解させて下さったのです。このイエス・キリストにまさる友はこの世に存在しません。また私にとっても存在しません。この真実な愛を、キリストの友情を、感謝をもって受けとめさせて頂きましょう。またこの相手を生かす愛で愛し合うことを、主は命じておられます。友情を友達関係に限る必要はありません。私たちの身近な人間関係そして教会の中に、愛し合いその人の祝福を祈るつながりを、生み出して行こうではありませんか。
<祈り>
神様、ダビデとヨナタンがあなたに忠実に生きる姿を認めあい、困難な時も真実を尽くしたことを学びました。ヨナタンの犠牲を厭わぬ姿は、イエス様の十字架の愛を思い出させます。友と呼び、罪と死から救い出して下さったイエス様に感謝いたします。イエス様の残された互いに愛し合いなさい、というご命令はあなたの助けなしには出来ないものです。どうぞ主の愛を分け与えて下さって、みずから良き友となっていけますように、お導き下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。