2025年4月6日(日)礼拝説教 ルカの福音書22章31-46節 「救い主の愛と恵み」 説教者:赤松勇二師、CS説教:赤松由里子師

<子どもたちへ>
 新学年が始まりました。新しい学年が楽しみ、と言う人もいれば、緊張するな、嫌だな、という人もいるでしょう。新しいことを始めるときは、みんなドキドキします。いいことばかりだといいけれど、時には失敗した…と思うことも出て来ます。
 今日はあるお弟子さんの失敗のお話です。そのお弟子さんはペテロです。失敗だけだと「隠した方がいいんじゃない?」と思うかもしれません。でもイエス様が失敗した人をどう見て下さるのかよくわかるお話です。早速見ていきましょう。

 イエス様が十字架にかかる前の夜のことです。最後のお食事の席でイエス様は色々なお話をして下さいました。みんな真剣にきいていました。するとイエス様はペテロに向かってこんなことをおっしゃいました。「ペテロ。あなたは悪魔の試練にあって負けてしまうでしょう。でも私は、あなたの信仰がなくならないように祈りました。立ち直ったらみんなを力づけてやりなさい」。ペテロはびっくりです。「イエス様、私はそんなことしません!ほかの誰が逃げても私はあなたから離れません!」でもイエス様は言われました。「あなたは今日、鶏が鳴くまでに3度わたしを知らないと言います。」これはいったいどういうことなのでしょうか?

 その後イエス様とお弟子さんたちは、ゲッセマネと呼ばれるところにお祈りに行きました。ところがそこへ、どやどやとたくさんの人が近づいてきます。イエス様を捕まえに来たのです。先頭にいるのは、なんと弟子のユダでした。「イエス様、こんばんは」。ユダの合図で誰がイエス様か伝わりました。こうしてイエス様は、剣や棒をもった人たちに逮捕されてしまいました。「わあ、どうしよう。我々も捕まってしまうぞ」。弟子たちは怖くなって、イエス様を置いて逃げ出しました。ペテロも逃げてしまいました。イエス様は一人残されて、大祭司の家に連れて行かれたのでした。

 ペテロはイエス様がどうなったか気になって仕方ありません「イエス様は大丈夫だろうか?」。そこでイエス様の連れて行かれた家の庭に行って、様子を見ることにしました。
 すると女の人がペテロをじっと見て言いました。「あなたもイエスの弟子じゃない?」ペテロは慌てて「そんな人知らない!」と答えました。たき火にあたっていると、別の人が「あなたもあの人の弟子だろう?」と聞きました。ペテロは思わず「ちがう、ちがう!」と答えてしまいました。すると今度は別の人が「あなたがイエスと一緒にいるのをみたぞ!」と言ってきました。ペテロが「何のことかわからない!」と言ったその時です。「コケコッコー!」と鶏が大きな声で鳴きました。
 さらに、捕まっていたイエス様が振り向いてペテロの顔をじっと見つめました。ペテロは気づきました。「ああ、イエス様の言ったとおりだ。イエス様を裏切ってしまった」。ペテロは外に出て行って大声で泣いたのでした。

 皆さん、失敗は辛いものですね。ペテロは、とっても苦しんだことでしょう。もう自分なんかだめだ、と思ったかもしれません。でもイエス様は何と言っておられましたか?今日のみことばを読みましょう。「わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました」(ルカ22:32)。イエス様はペテロが失敗しても立ち直れるように、前もってお祈りして下さったのです。
 私たちもペテロと同じで、失敗してしまう不完全な者です。でも失敗した時、今日のお話を思い出しましょう。イエス様にごめんなさいとお祈りして、やり直させて頂きましょう。イエス様は私たちを赦して、もう一度立ち上がらせて下さいます。どんなことがあってもイエス様について行きましょう。

<祈り>
「神様、イエス様が私たちのためにお祈りして下さることを感謝します。失敗があってもイエス様の愛と赦しを信じ、立ち上がっていくことが出来ますようにお導きください。どこまでもイエス様についていけるようお守り下さい。御名によってお祈りいたします。アーメン。」

「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
                              ルカの福音書22章32節

<適用>赤松勇二師
 先週の教団聖会のためにお祈りいただきありがとうございました。祝福のうちに終えることが出来ました。日曜日の礼拝は聖会での礼拝の配信を共有しての礼拝となりました。教会での音の調整が大変だったかもしれませんが、共に礼拝をささげることが出来感謝でした。
 私は、教団の運営委員長としての最初の公の役目として礼拝前の教団教師の任用式と認証式、そしてその後の礼拝の司会がありました。最初、緊張のあまり声が小さく、会場の皆さんの「大丈夫か?」という顔が目に入ってさらに緊張するという感じでした。任用・認証式が終わり、礼拝の司会の時には既に喉がカラカラの状態でした。講壇に用意されている水は講師用ですから飲むわけにもいかず、時々咳き込みながら必死に耐えていました。
 さて、3月31日で西荻チャペルの主管牧師代務の働きが終了し、新しい主管牧師(由井純師)にバトンタッチすることが出来ました。これまでの皆さんのお祈りとご協力をありがとうございました。今日は2025年度になっての最初の礼拝です。今年度もよろしくお願いします。今年度も皆さんと共に礼拝出来る恵みを感謝しつつ、新しい方が教会に集い共に主を礼拝する方々が増え広がって行くように祈っていきましょう。
 今私たちは、教会歴の受難節を過ごしています。来週は棕櫚の主日で受難週となり、20日にはイースターを迎えます。私たちのためになされた救いのみわざに思いを向けましょう。今日は、救い主イエス様によって示された「愛と恵み」を覚えたいと思います。

Ⅰ;ペテロのための祈り(31-34)

 救い主は、愛と恵みに満ちたお方です。その愛と恵みは、ペテロのための祈りに現れています。この祈りは、オリーブ山に行く前の祈りとなります。イエス様は、過越しの食事をするためにペテロとヨハネを遣わして準備をさせました(7-13)。
 この席で、イエス様がまずしたことは、聖餐式の制定です。過越しの食事には、決まったメニューがあって、食べる順番も決められていました。イエス様が、過越しの食事のどの場面で、聖餐式を制定されたのかは分りませんが、後の時代のために制定されたのです(19-20)。今日も聖餐式を行います。感謝と信仰をもって受けましょう。イエス様は、「パン」について「これはわたしのからだです。」と言われ、ぶどう酒については「あなたがたのために流される血」と言われました。この意味するところは、パンはイエス様の体を、ぶどう酒はイエス様の血を象徴するということです。ですから、私たちは、聖餐式のたびに私たちために裂かれたイエス様のからだを覚えてパンを受けます。そして私たちのために流されたイエス様の血潮を覚えてぶどう液を受けるのです。これは、イエス様の十字架の贖いを示していて、私たちのためのイエス様の苦しみを表しています。

 この過越しの食事の席で、イエス様はご自分を裏切る者のことを明らかにしました。その結果、イスカリオテのユダがその場を去ることとなりました。しかしイエス様は、イスカリオテのユダだけではなく、弟子の全員が誘惑・試練を経験すると告げました。そのことをイエス様は、弟子を代表するペテロへの言葉に込めて語りかけました。(31)。イエス様は、ペテロがイエス様を裏切ることを知っていました。しかしペテロは、決してそんなことはない、「自分は大丈夫だ」と豪語しました(33)。それに対してイエス様は、ペテロが「鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います(34)。」と言われました。
 イエス様は、そのペテロの弱さをご存知で、前もって予告をしてくださったのです。それだけではなくイエス様は、これから人生最大の試練を経験するペテロのために祈っておられたのです。
「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい(32)。」これがイエス様の祈りです。

 イエス様は、ペテロが試練に会わないようにとは祈りませんでした。それは父なる神様が、ペテロへの試練を許しておられるからです。イエス様は、ペテロが試練を経験したとしても、絶望落胆しないように、信仰がなくならないようにと祈って下さったのです。皆さん、このイエス様の祈りは大きな慰めです。イエス様は、ペテロの信仰をしっかりと見ていてくださったのです。ペテロの信仰が、たとえ小さな信仰でもその信仰がイエス様へと向けられる時、大きな力が生まれるのです。ペテロは、イエス様を否定して裏切ってしまいます。けれどもイエス様は、ペテロは必ず立ち直ると約束をしてくださいました。だからイエス様は、立ち直ったら他の弟子たちを力づけてやりなさいと言われたのです。ここにペテロをはじめ他の弟子たちの希望があるのです。
 イエス様は、今も私たちの信仰がなくならないようにと執り成しをしてくださっています。私たちは、神様を信じて歩んで行きますが、時に試練や困難を経験します。だから私たちはダメなのではありません。私たちが試練を経験するからイエス様は立ち直るようにと祈ってくださるのです。私たちの信仰が小さくても、弱くても、私たちがイエス様を見上げた時、イエス様は私たちに力を与えて下さいます。今も私たちは、イエス様の執り成しによって支えられていることを感謝しましょう。イエス様は、私たちのために祈っていてくださるのです。

Ⅱ;十字架へ向かう祈り

 救い主の愛と恵みは、十字架を前にしても明らかに示されました。過越しの食事の後、イエス様たちは、オリーブ山に出かけました。この行動は「いつものように」でした。オリーブ山は、エルサレムの東側にあります。イエス様は、エルサレムに来た時には、「いつも」オリーブ山で祈っておられたのです。この夜もイエス様は、いつものようにオリーブ山(ゲッセマネの園)に行って祈られました。しかしこの時は、いつもと様子が違いました。イエス様は、弟子たちに「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と勧めるのです。マタイの福音書には、「イエスは悲しみもだえ始められた(マタイ26:37)。」「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目を覚ましていなさい(マタイ26:38)。」とあります。イエス様は、深い悲しみと大きな恐れと孤独に襲われていたのです。だからイエス様は、弟子たちに「目を覚ましていてほしい」「一緒に祈っていてほしい」と要請したのです。そしてイエス様は、石を投げて届くところまで離れて一人祈られました。イエス様の祈った場所と言われている所には、現在「万国民の教会」が建てられています。その中には、イエス様が膝をついて汗を流して祈ったと言われる岩があります。この教会は、オリーブ畑の中にあり、一番古いオリーブの木は樹齢1200年と言われています。万国民の教会は、このオリーブ畑の入り口から石を投げて届くくらいの距離に建てられています。

 イエス様は、この時十字架に向かう最後の備えをされました。イエス様は、「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように(42)。」と祈られました。イエス様は、ご自分の思いを率直に祈られました。イエス様は、人間として受けなければならない想像を絶する苦しみ痛み、悲しみを前にして祈ったのです。これからイエス様が経験する十字架は、肉体的な苦しみだけではありません。そこには、精神的、霊的な痛み苦しみ悲しみが折り重なるようにイエス様の心を支配していたのです。
 本来なら、神様の裁きを前に恐れ、不安に襲われるのは、罪人である私たちです。神様に捨てられ、永遠の滅びの宣告を受けるべきは、私たちなのです。なぜなら私たちは、罪人だからです。すべての人は、生まれながらにして神様に喜ばれることは出来ません。私たちは、神様の基準から見るならば、相当ズレています。「罪」と言うのは、「的を外す」という意味があります。私たちは、聖書が教える神様の教え、戒めなどに100%従い通すことが出来ない存在です。人は、天地を造られた主なる神様の言葉に喜んで従うことが出来ないのです。それが、罪なのです。この罪には、永遠のさばきが定められていて、誰もこの裁きから逃れる方法を知りません。ただ唯一の方法を神様から提供してくださいました。それがイエス様の十字架です。神様は、罪のない全く罪を犯したことのない御子イエス様を私たちの身代わりにさばいてくださいました。イエス様は、私たちの代わりに神様に捨てられ、神様の怒りを一身にお受けになるのです。イエス様は、神様に裁かれ、神様に捨てられるということがどれほど恐ろしいことであるのかを知っていました。「この杯をわたしから取り去ってください」と言うのは、そのような恐れからの祈りです。「汗が血のしずくのように地に落ちた」と言う表現は、イエス様が「ボタ、ボタ」と油交じりの汗を流したと言う事です。これは、極度の緊張と不安がある時に流す汗と言われています。イエス様は、十字架を前にしてそれほどに、精神的、肉体的、霊的な緊張と恐れと不安に押しつぶされていたと言う事なのです。

 しかしイエス様の祈りは、「杯を取り去ってください」で終わりませんでした。イエス様の祈りのことばまだ先があるのです。イエス様は、「しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように」と祈られたのです。イエス様は、徹底して、神様の御心を求めていました。そしてイエス様は、父なる神様に従う事、父なる神様の御心が行われることだけを求めていたのです。マタイの福音書には、イエス様が3回同じような祈りをしていることが書かれてあります。イエス様は、約3時間くらい祈りの戦いをしたのです。イエス様のオリーブ山での苦闘は、私たちに代わって、私たちが苦しまなくても良いようにという救い主イエス様の愛と恵みの現れです。
 イエス様に目を覚まして祈っていなさいと言われていた弟子たちは、眠気に打ち勝つことが出来ずに、寝入ってしまいました。私たち自身の祈りについて考えさせられる事柄です。

 ゲッセマネの園でもう一つ心に留めたいイエス様のお姿があります。それは、イスカリオテ・ユダへのイエス様の言葉です。イエス様が心裂かれ苦しみの祈りによって十字架への備えが出来た時、イスカリオテ・ユダが群衆を引き連れていつもの場所にやって来ました。イエス様が「いつものように」祈りの場所に行かれたので、当然イスカリオテ・ユダもその場所を知っています。イエス様を売り渡し、裏切るイスカリオテ・ユダに対してイエス様は、優しく語りかけるのです。ここにも救い主の愛と恵みが注がれているのです。イエス様は、ユダに対して「友よ(マタイ26:50)」と語りかけます。私は、イエス様が、最後までイスカリオテ・ユダに立ち返るチャンスを与えておられたように思うのです。しかしユダは、このイエス様の愛と恵みに信仰をもって答えることが出来ませんでした。
 イエス様への信仰をもって答えることが出来なかったという点から考えると、他の弟子たちも同じような状態だったと言えます。弟子たちは、イエス様を見捨てて逃げてしまうし、ペテロは3度もイエス様を知らないと言ってしまうのですから。しかし彼らは、イエス様の執り成しを信じ、イエス様に対する信仰を捨てることはありませんでした。
 イエス様は、今も私たちに対して「友よ」と語りかけ、私たちのために祈り執り成してくださっています。そしてイエス様は、どんなことがあっても、どのような状況であろうとも私たちの信仰がなくならないように私たちを支え、導き愛と恵みをもって支えてくださるのです。私たちは、救い主イエス様の愛と恵みにどのような信仰の応答をすることが出来るでしょうか。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様は、私たちのために十字架に進んで行かれました。イエス様は、ペテロの弱さをご存じで、ペテロのために執り成し、立ち直る力を与えると約束されました。今もイエス様は、私たちのために執り成し、立ち直る力を与え信仰を強め導いてくださることを感謝します。イエス様は、愛と恵みの御手を差し伸ばし続けてくださることを感謝します。イエス様を信じ見上げて歩みます。
 2025年度が始まりました。今年度も一人ひとりの歩みを祝福し導いてください。大きな地震の被害を受けたミャンマーの上に神様の憐れみと慰めを注いでください。この地を主なる神様の平和で満たしてください。この祈りを私たちの救い主イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」