2025年4月13日(日:棕櫚の主日)礼拝説教 ルカの福音書23章32-49節 「十字架上のキリストを仰ぐ」 説教者:赤松由里子師

<子どもたちへ>
 皆さん、新学期が始まりましたね。桜や色々なお花が咲く春の恵みの中でのスタートです。この1年が祝福されたものになるよう祈っています。
 さて、今日は教会歴では「シュロの主日」に当たります。ロバの子に乗ってのイエス様のエルサレム入りを、人々がシュロの葉を道に敷いて歓迎した日です。そして今日からの1週間が受難週、金曜日はイエス様が十字架に死なれた受難日です。今日はイエス様の十字架のお話をします。

 見て下さい、イエス様の手が縛られていますね。イエス様は逮捕されて裁判にかけられたあと、ローマの役人のピラトのところに連れてこられました。人々は訴えて言いました。「ピラト様、この男は自分が王様だと言ってローマに逆らわせようとしています。生かしておいてはいけません!」ピラトはイエス様を取り調べました。そして言いました。「この人には死刑にするような罪は何も見つからなかった。だからむちうちで懲らしめて釈放しよう」。これに反発したのがイエス様を捕まえた人たちです。祭司長や律法学者、他に大勢の人も一緒になって叫び出しました。「十字架だ。この男を十字架につけろ!」。激しい要求が何度も続きました。大騒動になりそうなのを見て、ついにピラトはイエス様を十字架にかけることを許可してしまいました。

 イエス様はゴルゴタの丘に着くと、手と足を釘で十字架にうちつけられてしまいました。他に2人の強盗も十字架にかけられました。
 イエス様は苦しい十字架の上でお祈りを始めました。それはこういう祈りです。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」なんとイエス様は、自分を苦しめて十字架につけた人たちのためにお祈りしたのです。
 イエス様の十字架を真ん中に、右にも左にも強盗たちの十字架が立てられていました。その一人がイエス様に悪口を言いました。「おい、お前が神の子なら自分と俺たちを助けてみろよ!」。でも、もう一人がこう言いました。「やめろよ、俺たちは悪いことの報いを受けているが、この人は何も悪いことをしていないんだ」。そしてイエス様の方を見ていいました。「イエス様、あなたが天国に入る時には私のことを思い出して下さい」。実はこの人も、最初は一緒になって悪口を言っていました。でも十字架の上での様子を見て、イエス様は正しい神の子だ、と思うようになったのです。

 イエス様はどう思ったでしょうか。「虫のいいことを言うな!」と怒ったでしょうか?いいえ、こう言われました。「あなたは今日、わたしと一緒に天国にいます」。イエス様はこの人を赦して、天国に行けると約束して下さったのです。
 お昼の十二時から三時まで太陽が隠れて真っ暗になりました。そしてイエス様は息を引き取ったのでした。神殿のカーテンが突然真ん中からさけるなど、不思議なことが色々置きました。これを見たローマの百人隊長は「この方は本当に正しい人だった」と言いました。イエス様のお体は、アリマタヤのヨセフというお弟子さんが引き取って、新しいお墓に葬られました。

 イエス様はその気になれば天使を呼んで十字架から降りることが出来ましが、そうしませんでした。どうしてでしょう?それは身代わりとなるためです。誰の身代わり?罪を犯した人の身代わりです。聖書は「人はみな、罪を犯すものだ」と言っています。先生も、みんなも、世界中の人は全員が罪人なのです。その私たちの身代わりにイエス様は罰を受けてくれました。ですから、イエス様を救い主と信じましょう。強盗が十字架の上で赦されて「今日天国に入れるよ」と約束してもらえたように、私たちも赦されて、天国に入れてもらえるのです。

<祈り>
 「神様。私たちの身代わりに命をささげて下さったイエス様に感謝いたします。私はイエス様を救い主と信じます。どうぞ罪の赦しを与えて、神様の子供にして下さい。御名によってお祈りします。アーメン。」

「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは自分が何をしているのかが分かっていないのです。」        ルカの福音書23章34節

<適用>
 3月末で日本経済新聞の連載小説が終わりました。その名も「登山大名」、大分県岡藩の殿様が主人公です。私は職場の新聞で、毎日楽しみに読んでおりました。それというのも、「隠しキリシタン」がテーマだったからです。時代は徳川の世になった時期であり、キリシタン迫害の厳しい時期です。そんな中、岡藩にも「隠れキリシタン」がおりましたが、それは藩ぐるみで守り隠した「隠しキリシタン」だった、という説があるそうです。藩主は中川氏で、複数ある家紋の一つは中川クルスというものでした。これは十字架とイエズス会のシンボルマークを巧みに取り込んだものではないかと言われています。
 十字架は、いつの時代にあっても、キリスト教信仰の中心でありシンボルです。イエス様に希望を見出した者たちは、常に十字架を見上げてきました。それは十字架こそが、イエスの救いのみわざを示すものだからです。私たちは、十字架上のイエス様を心の目で仰ぎたいと願います。十字架上のイエス様のお姿から、私たちへの愛と大きな恵みを知ることが出来るからです。2つの点から共に学んで参りましょう。

1.十字架上の祈り

 第一に覚えたいのはイエス様の十字架上の祈りです。33節にイエス様の十字架刑の場所が出て参ります。「どくろ」と呼ばれている場所、とありますがゴルゴタの丘のことです(マタイ27:33)。よく聞く「カルバリ」は「どくろ」のラテン語訳「カルバリア」から来ています。そこには3本の十字架が立てられました。イエス様の他に2人の強盗の十字架刑が執行されたのです。
 そこにいたのは本日のテキストではローマの兵士たちであり、民衆、議員たち、そしてはりつけにされた強盗たちでした。聖書を読んで行くと、祭司長、律法学者、長老たちも含まれています。そして弟子たちも遠巻きに見守っていたことがわかります。
 十字架刑は、ローマの刑罰の中でも最も残酷なものでした。太い釘で両手首と両足首を十字架に打ちつけるのです。その苦痛ははかりしれません。そして苦しみながら死を待つというむごい刑がイエス様に執行されたのでした。

 そのさなかにイエス様がなさったことは何でしょうか。それは、自分を害する者のための祈りでした。祈られたことばが34節です。「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは自分が何をしているのかが分かっていないのです。」
 先日学んだペテロの失敗の際には、イエス様は「ペテロの信仰がなくならないように」祈って下さいました。私たちは信仰があってもイエス様に罪を犯すものです。それでもイエス様は前もってとりなしの祈りをして憐れんで下さったのでした。
 今度は信仰者ではありません。イエス様は神の子である自分に害を加える者、罪の自覚もない者を、憐れんで下さいました。このような愛を私たちは他に知りません。破滅的な罪人をも愛して下さるのがイエス様なのです。

ローマ5章8節にはこうあります。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」
 こんなにも深い愛で祈られた者たちはどうしたでしょうか。聖書を見るなら、聞くに堪えないことばでイエス様を罵りつづけていました。35節、議員たち「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい」。36節、兵士たち「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」。39節、強盗「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」。

 こうしたことばに私は2箇所の聖句を思い出します。一つは、公生涯初めの荒野の誘惑です。「あなたが神の子なら…せよ」と、自分の栄光のために神の力を用いさせようとするサタンの誘惑です。
 もう一つはペテロの信仰告白のあとの失敗です。ピリポカイザリアでの受難予告の際、ペテロは「そんなことがあなたに起こるはずがありません」と言って叱責されています。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ16:23)。
 こうした時と同様に人の言葉を借りたサタンの声が、イエス様の周りに飛び交っていました。しかしイエス様はその罪人たちを救うために十字架に留まることをよしとされたのです。
 イエス様はその限りない愛で、いかなる罪人をも憐れんで、救いを願っておられます。ここには、敵を赦し敵のために祈ることのチャレンジも示されています。十字架の上でのイエス様の祈りを心に刻み、自分のためにも敵対する人のためにも祈りましょう。

2.十字架上の約束

 二番目に覚えたいのは、十字架の上でのイエス様のお約束です。それは強盗と交わしたことばの内に示されました。
 十字架上のイエス様の周りには、イエス様を罵る人たちの言葉が溢れていました。強盗は最初のうち2人ともイエス様を罵っていたようです。しかし、先ほどのイエス様の祈りが1人の強盗の心に変化をもたらしたのでしょうか。突如彼は神への恐れを口にします(40,41)。そして目の前の「正しい方」に控えめに願うのです。「イエス様、あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください」(42)。
 これは虫のいい願いでしょうか。いいえ、イエス様の先ほどの祈りが彼からこの言葉を引き出したのではないでしょうか。強盗にはもう人生をやり直す時間も機会もありません。あと数時間苦しみぬいて、屈辱の中で死ぬだけです。イエス様は「何をしているのかが分かっていない」ものを赦して下さるお方です。だから、この強盗は勇気を出せたのです。

 そんな彼にイエス様は彼に驚くべき約束を語ります。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」(43)。もう終わり、やり直せない、ゲームオーバー。そうしたタイミングにあっても、イエス様は再生させて下さるのです。より正確には新生させて下さるのです。それは新しいいのちに生きて良いし、生きることが出来るという意味です。私たちは神様に受け入れて頂くために条件をつけて考えがちです。例えば罪を償ったから、やり直せたから、ある水準まで成長したから、そんな条件を自分に課しがちです。しかしそれらは大切ではありますが、救いの条件ではありません。救いの条件は何か。イエス様はただ信仰を求めておられます。強盗の十字架刑の最中での救いは、そのことを私たちに教えていると言えます。

 イエス様は十字架上で約束をされたのち、午後三時まで苦しみに耐えました。最後に「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」と言って息を引き取りました。これが十字架のご最期、キリストの死です。罪人への大きなあわれみと愛がそこにあります。栄光を求める歩みでなく、罪人を救う歩みを最後までして下さいました。私たち一人ひとりのために十字架を引き受けて下さったイエス様を心から崇め、救い主として告白して歩んで参りましょう。

<祈り>
 「天の父なる神様、受難週の礼拝をありがとうございます。イエス様が罪人を深く憐れんで下さり赦しを与えようとしておられることを感謝いたします。これほどの深いご愛を他にしりません。イエス様にお頼りし信じて参ります。十字架の上で約束されたように、新しいいのちに生かして下さい。自分に条件を課すような愚かな態度を除いて下さい。ただ信仰のみにて受け入れ新しくして下さる恵みを感謝します。どうぞ信仰から信仰へと歩んでいけますよう、成長させてください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」