2025年5月11日(日)礼拝説教 マタイの福音書22章1-14節 「神の国への招き」 説教者:赤松由里子師

<子どもたちへ>
 長いお休みも終わって、新しい学年が本格的になりましたね。毎日学校で疲れちゃう、と言う人もいるかもしれません。楽しいことも、大変なこともあるでしょうが、充実した毎日になるようにお祈りしています。
 さて聖書のお話も、新しい箇所になっていきます。今日からは「神様の国」のお話をしていきます。イエス様は色々なたとえ話で教えてくれました。今日は、王様が開いたパーティーのお話です。神様の国とどういう関係があるのでしょうね。

 ある国の王様がとても嬉しそうにしています。一体何があるのでしょうか?「王子が結婚することになったぞ!盛大なパーティーを開いて、みんなでお祝いをしよう!」王様は、大勢の人に招待状を送りました。豪華なお料理のためにお肉や飲み物もたくさん用意しました。お花も飾ったかもしれません。お土産も準備したかもしれません。そしていよいよ準備が出来たので、家来たちにお客さんを呼びに行かせました。
「王様のパーティーが始まります。どうぞ来てください。」でも、あれあれ?みんなつまらなそうな顔をしています。「パーティーは結構です。」「いけませんので。」そう言って誰もきませんでした。
 それを聞いた王様はまた家来をやって「ごちそうも準備できています。さあ来てください。」それでも人々は断りました。王様の特別なお誘いを断るなんて残念ですね。中には悪い人がいて、家来を馬鹿にして殺してしまったそうです。
 当然王様は怒ってその町を滅ぼしました。そして家来に言いました。「通りに行って誰でもいいからパーティーに連れてきなさい。」家来たちは大声で誘いました。「みなさん、王様がパーティーを開きます。誰でも来ていいのでどうぞおいでください!」人々はびっくりしました。お城に着て行くためのきれいな服まで貸してくれるというのです。「誰でもいいんだって。行ってみよう」。そう言って、いい人も悪い人もぞろぞろとお城にやってきました。
 王様がお客さんを見ようとパーティー会場にやってきました。「ふむふむ。」全体を見渡しました。すると1人だけ自分の服を着替えていない人がいます。王様は聞きました。「どうして私が用意した新しい服に着替えなかったのかね?」男の人はじーっと黙ったままです。王様は言いました。「この男を外に追い出せ。」せっかく呼んでもらったのに残念なことです。

 今日のお話に出てくる王様は神様のことです。みんなによろこびを与えようと、「私のところにいらっしゃい」と呼びかけておられるのです。ちょうど、パーティーを準備して誘ってくれた王様のようです。でも、「私はいいです」と断ってしまう人が多いのです。もったいないことです。
 今日のみことばを読みましょう。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)。これは「罪を悔い改めて、イエス様を信じましょう」という意味です。いい人だけでなく悪い人でも歓迎されましたね。ただ一つ必要だったのは、王様が用意した新しいきれいな服を着ていくこと、だけでした。これは、神様が用意してくれた救い主イエス様を信じる、ということです。イエス様を信じるなら、どんな人でも天国に入ることが出来ます。イエス様を自分の救い主と信じることができますように。

<祈り>
「神様。礼拝に来られてありがとうございます。神様がどんな人も招いて下さることを知りました。私が神様のお誘いをむだにせず、その祝福とよろこびを味わうことが出来ますように。イエス様を信じて神様の子どもとなることが出来ますように。お導き下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」

「時が満ち神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
                                   マルコの福音書1章15節

<適用>
 本日からペンテコステまでの期間は、神の国についての教えを学びます。イエス様のたとえ話が中心になって参りますので、おとぎ話を読んでいるような気分になるかもしれません。しかしのんびりした状況の中で語られたものではありません。十字架の直前、祭司長、長老たちがイエス様への悪意をむき出しにしている時に語られたのです。マタイ21章の2人の息子のたとえ(21:28~)、悪い農夫のたとえ(21:33~)がそれです。そして今日の箇所で三度目、畳みかけるように神の国のことを語っておられます。イエス様からは、気迫のようなものが感じられます。
「神の国が近づいた。神の国への招きを受けよ」というのはイエス様の生涯を貫くメッセージでした。「神の国」とはどこかの国のことではありません。「神の支配」に入ることです。イエス様は熱い思いを持ってその恵みを語って下さいました。神の国への招きとはどのようなものでしょうか。みことばに耳を傾けて参りましょう。

1.神の恵みの招き

 第一に覚えたいのは、神様からの恵みの招きである、ということです。
 「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます」(1)。王にとってそれは、喜びと栄誉の特別な祝宴でした。王子にとって一世一代の婚宴だからです。王は招待客と共に王子の門出を祝いたいのであって、客には何の見返りも求められません。招かれた者はただ王の好意と喜びにあずかればよいのです。それが王の喜びでもあるからです。
 神様はこのように、思いもよらない恵みを私たちに与えることを計画しておられます。

 しかし何が起こったでしょうか。「王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった」(2)。それでも王はあきらめずに使いをやって「何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」と言わせます。「ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別のものは自分の商売に出て行き、残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し殺してしまった」(5,6)。
 どれもこれもありえないようなことですが、これは神と人間との間で起きたことでもありました。王から招待されるほど近しい人々のはずが、その招きの価値を理解出来ませんでした。私たちはどうでしょうか。自分の仕事、日常の責任、色々あります。また自分の考えに基づいて人生を模索しているかもしれません。そうした中で、私たちは神がそば近くに呼んで下さっていることの価値を、忘れていないか問い直す必要があります。

 あまりにも自分のことにだけ集中してしまって、神を見上げることを忘れていないでしょうか。神は喜びを味あわせようとしておられるのに、喜んでいい、ということすら忘れて疲れ果てていないでしょうか。神の国への招きは、喜びへの恵みの招きです。聖書を読むにも、礼拝に集うにも、当然時間を取られます。すべて他のことを脇におかざるを得ません。しかしそれは恵みの時間です。私たちを豊かに喜ばせようとして下さる神の招きに応じさせていただこうではありませんか。

2.福音の豊かな広がり

 二番目に覚えたいことは、神の国への招き、すなわち福音は豊かな広がりを持つ、ということです。
 王の招きをなんとなく断った者もいましたが、一部の者は王に反逆してしもべを殺害します。そのことは厳しい裁きを招きます。「王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払った」(7)。しかし王は計画を取り止めません。次に招くのはだれでしょうか。「だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。しもべたちは通りに出かけて行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった」(9,10)とあります。
 少々やけくそ気味な招待にも感じられますが、王の威信にかけても満員の宴席にしなければいけない、ということなのでしょう。「良い人でも悪い人でも」とあることに目を留めたいと思います。これは、取税人と遊女たちのように、当時「罪人」と呼ばれさげすまれた人たちも神の国に招かれていることを示します。自己義認に陥っていた祭司長、長老、律法学者らは、バプテスマのヨハネもイエス様も拒絶しました。そして神に選ばれたはずのイスラエル民族も福音を拒絶し、異邦人に福音が届られて行きました。

 神の国への招きは、招かれる資格のない者に差し出されています。これは世界中に広がり、今私たちのところに届きました。しかし自分自身で「私はこんなに罪深いから資格がない」と制限していないでしょうか。神様は「悪い者」すなわち罪の自覚のある者を招いて下さっています。
 あるいは「自分は弱い人間ではないから神の招きに応える必要はない」と考えているでしょうか。いいえ、「良い者にも」神への応答は必要なのです。なぜなら神の国への招きを軽んじることは、自らに裁きを招いてしまうからです。祭司長、律法学者たちは神の御子イエス様を死に追いやり神に敵対してしまいました。
 神様は幅広く私たちを招き、神の国に歓迎して下さるお方です。私たちが神の宴席に入って行くとき、そこにはアブラハム、モーセ、エリヤ、ダビデ他、信仰の偉人たちが先んじて迎えられているでしょう。ですが、罪赦された普通の人々が無数に集っていることを覚えたいと思います。その中に自分も加えて頂ける、その豊かな広がりを感謝いたしましょう。

3.キリストを着る

 最期に神の招きに応える唯一の条件を見て参りましょう。それは「礼服=すなわちキリストを着る」ということです。
 「王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。王はその人に行った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし彼は黙っていた。」(11,12)。礼服とは、その場にふさわしいきちんとした服装、ということです。急に呼び出しておいて礼服着用とは厳しいな、と感じるかもしれません。しかし彼が礼服を着ていなかったのは、貧しくて持っていなかったとか、急なことで用意できなかった、という理由ではありません。王宮に招かれるときは、王から晴れ着が支給されるのが普通だったといいます。このたとえ話でも、王から晴れ着が用意されている、というのが話の前提になっています。だとすると彼は、用意された礼服への着替えを故意に拒んだ、ということになります。結果、彼は「外の暗闇に放り出」されることになりました(13)。

 良い人でも悪い人でも招いて頂ける神の国ですが、礼服を着ることがなければ同じように締め出されることになってしまいます。では着るべき礼服とは何でしょうか。それは神が準備して下さったイエス・キリストご自身です。イエス様を信じることを聖書では「イエス・キリストを着る」と言うのです。「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです」(ガラテヤ3:27)、「主イエス・キリストを着なさい」(ローマ13:14)と言われている通りです。
 服装というのは、どんな人かを周囲に示すものです。野球のユニフォームを着ていれば野球選手だ、と分かります。水着を着ていればスイマーだ、と分かります。またすっぽりと全身を布で覆った女性を見ると、ああイスラム教徒だと分かりますし、袈裟をまとって坊主頭なら仏教のお坊さんと分かります。私たちがキリストを着るとは、キリストのものだ、と分かるように生きるという意味があります。人それぞれ生き方には個性が現れますが、自分のカラーが強すぎてキリストが見えなくなっては適切ではありません。
 私たちは信仰の初めだけではなく、信仰生活を通じてずっと「霊的な着替え」が必要です。

 エペソ4:22-24には脱ぐべきものと着るべきものが教えられています。「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなた方が脱ぎ捨てること」、「またあなたがたが霊と心において新しくされ続け、真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。」
 自分のうちの生まれながらの古い人は、脱ぎ捨てる必要があります。そして神に似せられた新しい人の姿を身にまとい続けることが勧められています。私たちは素直な心で、霊的な着替えに応じさせていただきましょう。そしてイエス様によって差し出された恵みと喜びへの招きに、日々応じさせていただこうではありませんか。

<祈り>
 「天の父なる神様、主の日の礼拝をありがとうございます。あなたが私たちの想像もできない恵みを用意して、神の国に招いて下さっていることを感謝いたします。罪あるものを招きに含めて下さった豊かな広がりを覚え、御名をほめたたえます。日々古い自分を脱ぎ捨てて、イエス様を信じそのお姿を身にまとい続けたいと願わされます。礼服は王であるあなた様が用意して着せて下さいますから、それを拒まぬ素直な応答をしていきたいと願います。どうぞ従順に従うことが出来ますようにお導き下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」