<子どもたちへ>
5月に入ってちょっと蒸し暑い日が続きますね。天気がいいから外で遊ぶことも増えて来たでしょうか。お外で遊ぶ時は、水分をしっかり持っていきましょう。汗を拭くタオルも必要ですね。たくさん汗をかいてもいいように、タオルは2枚くらい持っていくべきでしょうか。僕たちは、色々と準備をして出かけます。
イエス様は、一つのたとえ話をお話ししてくれました。それは、僕たちがイエス様を信じて、イエス様のおられる天の御国に入るための準備をするために必要な心得です。
ここに結婚式のために準備をしていた10人の娘がいます。イエス様の時代のユダヤ人の結婚式は、花婿に付き添う人たちと花嫁に付き添う人たちがいました。そして花婿が、花嫁の家に花嫁を迎えに行き、花婿に家に連れてきます。花婿が花嫁を迎えに行く時には、花婿の友人たちが付き添い、一方花嫁のほうも付き添いの娘たちが、ともし火(たいまつ)を用意して花婿の到着を待ったのです。
10人の娘たちは、花嫁の付添人として、ともし火を用意して、花婿の到着を待っていました。けれどもどういう訳か花婿の到着が遅くなりました。「どうしたのかしら?まだお迎えに来ないですね?」「何かあったのかしら?」「準備に時間がかかっているのかもしれないわね。」そんな話をしながら待っていました。そうこうしているうちに、暗くたってきて娘たちは待ちくたびれて眠くなってしまい眠ってしまいました。すると突然、「さぁ、花婿が到着するぞ~」と知らせが届きました。
「たいへん、火を整えてお出迎えをしなくては」「火が消えてしまわないように、油を足して…」5人の娘は、油がなくならないように油を用意していました。時間が遅くなっても大丈夫なようにちゃんと準備をしていたので、この5人は賢い娘と言われます。
すると「どうしよう。油が足らないわ、火が消えちゃう」残りの5人の娘たちは予備の油を用意していませんでした。これでは、途中で火が消えてしまいます。油の準備をしていなかったので愚かな娘と言われるのです。愚かと言われる娘たちが「あなたの持っている油を少し分けてもらえないかしら」と賢い娘にお願いします。油を用意していた娘は、「分けてあげる余裕はないわ、まだお店が開いているだろうから買いに行ったらどう?」と勧めました。こうして5人は、油を買いに外に行くのです。彼女たちが買い物に行っている間に花婿が到着して家の門は閉じられてしまいました。
慌てて油を買いに行った5人が帰って来た時にはすでに結婚式が始まってしまい、彼女たちは家に入ることが出来ません。「ご主人様、ご主人様、開けてください」と頼んでも「あなたたちを知らない」と言われてしまうのです。
イエス様のたとえはここで終わります。そしてイエス様は「目を覚ましていなさい」と言われました。居眠りをしてはいけない、という事ではなく、十分に準備をしていなさいという事なのです。5人の賢い娘たちは、油がなくなるかもしれないし、花婿が遅れるかもしれないと考えて、しっかり準備をしていました。しかし「愚かな娘」と言われてしまった5人は、油を用意していませんでした。
僕たちはどんな準備をすることが大切なのでしょうか。それは、イエス様をお迎えする準備です。イエス様は、十字架にかかり復活し、天に昇って行かれました。そしてイエス様は、もう一度来られます。それを再臨と言います。イエス様は、イエス様を信じる全ての人を天の御国に迎え入れるためにもう一度来られます。でもイエス様がいつくるかは、誰にも分かりません。だからイエス様は、神様を信じて、聖書の御言葉を読んで準備をするようにと教えてくださったのです。僕たちは、イエス様を信じて、イエス様の喜ばれる歩みをしましょう。
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。僕たちは、イエス様がもう一度来られること、イエス様の再臨があることを信じます。そして僕たちは、イエス様を信じて聖書の御言葉を読み、神様を礼拝して歩みます。どうぞ導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」
「ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。」 マタイの福音書25章13節
<適用>
私が子どもの頃、私たち牧師家族は教会の建物の1階部分が生活スペースとなっていました。そして礼拝堂は、部教会の2階にありました。我が家では、基本的に子どもたちは、夜8時以降テレビを見てはいけないという暗黙のルールがありました。教会では、木曜日の夜7時30分から9時くらいまで祈祷会が行われていました。その集会は、2階の礼拝堂で行われます。集会の後にはお茶の時間があり、それが1時間とか1時間半になるのです。牧師の父も母も集会に出席しています。夜の8時以降にテレビを観れるチャンスです。しかも9時からは、歌番組の生放送があったのです。ただし集会の後のお茶の時間がいつ終わるかは、毎回違うのです。私たち兄弟は、両親がいつ下に降りて来るかドキドキしながらテレビを観ていたものです。私たちは、集会が終ったと思われる時間から、2階の足音を気にしながら「まだ大丈夫、まだ来ない」と右耳で2階の音を聞き、左耳でテレビの歌を聞くのです。最終的には、何を聞いているのか分からなくなるのです。そしてだいたい一番見たい歌手の時に親が降りて来てしまい残念な事になるものでした。またテレビに集中する余り、親が降りて来たことに気が付かず叱られることも多くあったように記憶しています。
今日のイエス様のたとえは、私たちがどのようにイエス様の再臨に備えるのかという事を教えています。
Ⅰ;イエス様はもう一度来られる
「イエス様の再臨への備え」のために、私たちは、「イエス様がもう一度来られる」という事実をしっかりと心に留めておくことが必要です。そして聖書では、イエス様がもう一度来られる再臨がこの世の終わり、終末だと教えられています。今日開いているマタイ25章は、24章から続く「世の終わり」というテーマでのイエス様の話です。弟子たちが、イエス様に「世が終わる時のしるしは、どのようなものですか(マタイ24:3)」と質問しました。この質問に答えてイエス様は、オリーブ山に座り、エルサレムを見つめながらお話しになりました。イエス様は、「人に惑わされないように気をつけなさい(24:4)」とこの世の終わりに起るであろう様々な現象をお語りになり、その備えをするようにと教えてくださったのです。今日の箇所は、その流れで語られた、たとえです。
私たちは、「世の終わり」と聞くと「ドキッ」としてしまいますし、「イエス様の再臨??」とよく分からないということにもなるでしょう。聖書は、イエス様が私たちの罪のために十字架にかかってくださったことを明らかにしています。イエス様は、私たちが受けるべき神様の裁きを身代わりに受けて、十字架にかかり死なれました。けれどもイエス様は、死んで終わりではなく、死を打ち破ってよみがえられたのです。このようにイエス様は、私たちに罪からの解放を与えるために、人となってこの地上に来られたのです。私たちは、そのことをクリスマスの時にお祝いしています。イエス様は、復活なさった後、弟子たちの見ている目の前で天に昇って行かれました。その時御使いが現れて「どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります(使徒1:11)」と、イエス様がもう一度来られる再臨の約束を語ってくれました。弟子たちをはじめ初代教会のクリスチャンは、「もう一度来られる」という約束を心に留め「主よ来てください(マラナタ)」と告白していました。黙示録は、「主イエスよ、来てください(22:20)。」と言う告白とあいさつの言葉で終わっています。イエス様は、イエス様を信じる全ての者たちを天の御国に迎え入れるためにもう一度来られます。
しかしその時がいつなのかは、誰にも分かりません。父なる神様だけが定めていることがらなのです。ただイエス様は、ご自身がもう一度来られる時に起こる前兆については教えてくださいました。それがマタイの福音書24章です。まずイエス様は、人に惑わされないように気を付けるようにと言われ「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人々を惑わします。(24:5)」と言われました。世の終わりが近づくと、神様の言葉ではなく自分勝手な言葉を語る偽預言者が現れ、偽キリストを名乗る者が現れるようになります。イエス様は、そのような偽りの教えに惑わされないように注意しなさいと教えておられます。
また、イエス様は「戦争や戦争のうわさを聞くことになります。…民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです(24:6-8)。」とも言われました。弟子たちは、この後イエス様の言われた通り、エルサレムがローマ軍によって崩壊する様子やクリスチャンへの迫害などを目の当たりにすることになります。ですから彼らは、イエス様の言われた世の終わりの出来事を切実な思いで受け止めていたことでしょう。しかしまだイエス様は、再臨なさってはいません。そして私たちは、イエス様の言われたように、戦争の噂だけではなく、実際に戦争が起きているという事実を知っています。世界中で飢饉が発生していることも知っているでしょ。また私たちは、大きな地震が起きることを経験しています。それだけではなく、気候変動によって自然界が崩壊していることも知っています。私たちが生きている今の時代は、イエス様の再臨の直前なのではないかと思わずにはいられません。
このように話をすると不安が募るだけかもしれません。けれどもイエス様は、私たちを不安に陥れるためにこのように話しているのではないのです。イエス様がもう一度来られるという事は、イエス様を信じる人が天に上げられ、復活の主イエス様とお会いすることになるのです。イエス様は、天の御国が近づいていることをしっかりと心に留めて、適切な準備をするようにとあらかじめ話してくださったのです。イエス様はもう一度来られます。
では、私たちは、このイエス様の再臨にどのように備えることが出来るのでしょうか。
Ⅱ;信仰をもって主に会う備えをする
私たちは、信仰をもって主に会う備えをしましょう。私が高校生の時ですから三十数年前のことになりますが、その当時よく歌っていた賛美に「もしもキリストが来られたら」(New Life Records)という曲がありました。「もしも今、キリストが、この地上にもどって来られたら、心の用意は出来ていますか、主に会う準備はいいですか…。」と言う歌詞です。おそらく、マタイ24章と25章をもとにして作られた賛美でしょう。ご存じの方もおられるのではないでしょうか。私は、この曲を歌いながら、「もしも今、イエス様が来られたら大変だなぁ、今はまだ心の準備は出来ていないなぁ」と思っていたものです。
マタイ25章で語られたイエス様のたとえ話に登場する花婿は、イエス様の事です。「花婿が来る」というのは、イエス様の再臨を意味しています。とすれば準備をして待っている娘たちは、私たちのことと理解することが出来るでしょうか。イエス様の再臨は、いつか分かりません。弟子たちは、イエス様が天に昇って行かれてから、今か今かとイエス様の再臨を信じ、期待して待ち続けました。その時からすでに2000年以上が経過しています。でもイエス様の再臨はまだ実現していません。イエス様の再臨は、今日かも知れないし、来年かも知れないし、10年後、30年後、100年後かもしれません。イエス様の再臨は、遅れているようでも、必ずその日はやってきます。しかもイエス様ご自身が言っているように、思いがけない時に来られます。
私が、子どもの頃木曜日の夜のテレビ番組を観ていた時も「まだ大丈夫」と安心しきっていた時に親が2階から降りて来るということになるのです。私たち兄弟は、親が降りてきたらどうするのか話し合いました。まず、すぐに自分の部屋に行けるようにふすまを一カ所開けておきます。その上でテレビを消す人、電気を消す人を決めました。あまり手本にはなりませんね。その時私たち兄弟がするべきだった備えとは、親が降りてくる前にテレビを消すことでした。そしてお風呂に入ったり、勉強をしたりと自分のするべきことをしっかりやることだったのです。
イエス様は、10人の娘のたとえを通して、私たちに再臨(終末)の備えをするようにと促しておられます。私たちは、どのような備えをすることが出来るのでしょうか。まず一つは、「ですから、目を覚ましていなさい(マタイ25:13)」のイエス様の言葉です。その意味するところは、油を用意していた娘のように、しっかりと信仰を持って主を信じ続けると言う事です。
そしてもう一つの備えは、「信仰」という事を自分の告白として持つという事です。イエス様のたとえで「油を準備して待つ」ことが信仰を持って待つことのたとえだとすれば、「油を貸してください」というのは、「あなたの信仰をすこし分けて下さい」と言うことを意味しています。それは、出来ない相談です。私たちは、親の信仰で救われるのではありません。友だちがクリスチャンだから大丈夫なのではないのです。また、昔教会に行っていたから大丈夫なのでもありません。神様からの救いは、誰かのものを自分のものとして分けてもらうというものではないのです。神様は、私が(あなたが)イエス様の救いを信じ悔い改めるから、罪を赦し、救いを宣言してくださいます。私たちは、私たち一人ひとりとして、神様を信じ、信仰を持って歩むのです。誰かが自分の代わりに聖書を読んで従うのではなく、私たち自身が、聖書を読み御言葉によって教えられる必要があります。皆さんは、どのように神様と向き合っているでしょうか。
またイエス様の再臨を待つ備えは、私たちに与えられている人生を主にあって生きるという言い方にもなるでしょう。私たちは、終末(この世の終わり、人生の終わり)について多くのことを心配し、多くの事柄を気にしてしまいます。しかしイエス様は、そのように心を騒がせるのではなく、信仰を持って、心の目を覚まし、御言葉に聞き従い歩むことだと教えておられるのです。
私たちは、信仰をもって主を見上げ、心の準備をさせていただきましょう。マタイ25章13節をご一緒に読みましょう。
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。私たちは、聖書で約束されているように、イエス様がもう一度この地上に来られることを信じます。神様、今世界ではイエス様が言われたように、戦争が行われ、地震も自然災害も増えてきています。そのような現実の中で私たちは、信仰をもってイエス様の再臨への備えをします。イエス様、私たちがイエス様の再臨を待ち望み、信仰を表明し、証しすることが出来るように導いてください。イエス様、私たちが心の目を覚まして、私たちに与えられている人生を御言葉に教えられながら、主と共に歩むことが出来るように導いてください。
神様、一人ひとりの生活が守られ、信仰が成長するように、ご自身の御手で支えてください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」