2025年5月25日(日)礼拝説教 マタイの福音書25章14-30節 「賜物を忠実に用いる」 説教者:赤松勇二師、CS説教:赤松由里子師

<子どもたちへ>
 先週は、中学校の体育祭(運動会)がありました。小学校は9月でしょうか。保育園でもやることでしょう。走るのが早い人やダンスが得意な人、力があって綱引きで頼りにされる人もいます。一人ひとり得意なことが違うけれど、がんばった後は充実した気持ちを味わってほしいなと思います。
 さて今日も「神様の国」のお話をしていきます。イエス様は、おでかけしたご主人(家のえらい人)と、家に残った3人の召使のお話で、神様の国を説明してくれました。

 お金持ちのご主人が、3人の召使を呼びました。「さあみんな、私はこれから遠くの国に出かけることになった。一人ずつお金を預けるから、私の留守の間もしっかり仕事をしておくれ」。そう言ってお金の袋を渡しました。ご主人はその人の能力に合わせて、1人目は5袋(5タラント)、2人目は2袋(2タラント)、3人目は1袋(1タラント)を渡しました。一番少ない1タラントでも、16年分のお給料、すごい大金です。そして旅に出て行きました。
 最初の2人はそのお金で商売をしました。すると預かったお金が倍に増えました。でも、3人目の人は外に行って穴を掘り始めました。なんと預かったお金を地面に埋めて隠してしまいました。

 それから長い時間がたちました。ご主人が家に帰って来て、召使たちを呼びました。「お前たち、留守のあいだしっかり働いたかい?預けていたお金を持っておいで」。5タラント預かった人、2タラント預かった人が順番にやってきました。 「ご主人様、私は商売をして倍に増やすことが出来ました」。ご主人は喜んで言いました。それが今日のみことばです。「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう」(マタイ25:21)。ご主人はえらかったね、とほめてくれて、もっとたくさん任せるよ、言ってくれました。
 そこへ1タラントかくしておいた人が来て言いました。「ご主人様、私はあなたが無い所からも取り上げる厳しい方だと分かっていました。それで、無くさないように穴をほって地面に隠しておいたのです。さああなたの1タラントです。受け取って下さい。」するとご主人は怒って言いました。「悪い怠け者のしもべだ。銀行にでも預けておいたら少しは増えたはずだ。この悪い召使は外に追い出してしまえ」。

 お話に出てくるご主人は神様、イエス様で、召使は私たちのことです。「タラント」というのは、神様が一人ひとりに下さった才能、得意なこと、持ち味などのことです。「賜物(たまもの)」とも言います。3人が違うタラントをもらったのと同じで、賜物はみんなそれぞれ違います。
 お話では、5タラントの人も2タラントの人も同じようにほめてもらっていますね。神様は、自分に出来ることをした人をほめて下さいます。たくさん増やした方が偉いとか、比べたりしないのです。でも最後の人は、1タラントを使おうとしなかったことを叱られました。大事なのは神様が下さった賜物を、神様のために使っていくことです。

 みんなにも、賜物があります。でも、自分の賜物が何かわからない、という人がいるかもしれません。でも大丈夫です。あなたが神様のために出来る良いこと、それが賜物です。運動や勉強が得意な人もいるでしょう。大人になってお仕事で活躍する人もいるでしょう。歌、絵、お料理、にっこり笑顔、誰かに見せるやさしい気持ち、そういうものも立派な賜物です。どうぞ、隠してしまうのでなく、自分だけのために使ってしまうのでなく、神様のため、人のために使っていきましょう。神様はそれを喜んでくださいます。

<祈り>
「神様。礼拝をありがとうございます。一人ずつ賜物を下さっていると知りました。何が自分の賜物か、見つけていけますようにお導き下さい。そして賜物を下さった神様に喜んでいただく使い方が出来ますように助けて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」

「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」  マタイの福音書25章21節

<適用>
 私たちは、仕事をしていると様々なことを任されます。仕事に就いているわけですから、ある程度やるべきことを任されることは、嬉しいことです。けれども自分の力以上のことを言われると、なかなか大変だったり、困惑したりします。私は、学生時代に新聞配達をしていました。1年目は新人ですから、一番軒数の少ない区域(150軒程)が任されます。2年目には、自分の区域を次の新人に渡し、250軒ほどの別の区域を担当するようになりました。3年目以降は、300~350軒の区域を担当するようになります。それに加えて市営住宅を配達するように言われたこともありました。その時の市営住宅は、1棟4階建てで24軒入っている建物が5棟くらいありました。合計120軒位のうち半分は新聞を取ってくれていたと思います。当然エレベーターはありません。私は階段を走って上り下りして配達をしました。私は、自分の担当地区プラス市営住宅を配達するので大変でしたが、自分に任されたことが嬉しかったのを覚えています。
 イエス様は、タラントのたとえによって、私たちが主にお従いする時の大切な原則を教えています。ここでのタラントは、神様から与えられている賜物、神様からの力、知恵、知識ということを表しています。イエス様のたとえから共に学びましょう。

Ⅰ;賜物が与えられています

 私たちは、神様から賜物が与えられています。ですから、私たちは、与えられた賜物を忠実に用いましょう。では、あなたの賜物は何でしょうか。皆さんは、「自分にはどのような賜物が与えられているのだろうか?自分は、福音を伝えるために何が出来るのだろうか?」そんなことを考えたことはありますか。自分には、何も出来ないと思うことがあるでしょうか。何もないという事はありません。神様は、必ず一人一人に賜物を与えてくださっています。

 このたとえの「主人」は、父なる神様のことであり、救い主イエス様のことで、「しもべ」は、私たちのことです。「タラント」のたとえは、25章13節までの「天の御国・再臨」というテーマの続きとなっています。しもべたちが、主人の留守を守り、帰りを待つという状況は、丁度私たちが、イエス様の再臨を待ち望んでいる今を表わしています。しもべにタラントを預けた主人のように、私たちの主であるイエス様は、私たち一人一人にタラントを与えてくださっています。私たちは、それぞれ与えられている力に応じて、神様に仕えることが出来るのです。パウロは、ローマ人への手紙12章で私たちが恵みとして賜物を与えられていることを教えています。「私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。(ローマ12:6‐8)」

 私たちは、神様のために何かをすることが出来るのです。実は、私たちの時間や持ち物、性格、趣味、体力、知識などすべてが神様から頂いた特別な賜物、特別な力です。皆さんは、神様からどんな賜物を与えられているのでしょうか。ぜひ、考えてみてください。
 私は、小学4年生の時にフォークギターを始めました。その時は、単純に趣味としてはじめ、自分の好きな曲だけを弾いていました。ギターを弾くことだけではなく私はスポーツも好きだったし、絵を描くことも好きでした。小学校でポスターなどの募集があると必ず絵を描いて応募をしていました。学校の授業で書いた絵も先生の勧めで応募したりしていました。そして小学校の朝礼で何か絵に関する表彰式があると、「赤松、呼ばれるんじゃない」と言われたりしていました。でもいつの間にか絵を描く時間が少なくなってしまいました。また描き始めたいと思うのですが、なかなか続きません。しかしギターを弾くことは、小学4年生から止めようと思ったことはなく、40年以上続けられてきています。そして中学生の時からでしょうか、私は、ギターを弾くことで教会での賛美の奉仕をしたいと願うようになりました。そして具体的に、賛美の奉仕をするようになりました。私は、神様が趣味であるギターを神様ご自身のために用いるようにしてくださったと受け止めています。
 このように、最初は趣味だったことが、実は神様からの賜物であり、神様の栄光のために用いることが出来るものとなることがあります。神様は、あなたに出来ることを与えてくださっています。それを祈り求めて神様に教えてもらいましょう。

Ⅱ;賜物を管理して用いる

 私たちは、与えられている賜物を忠実に用いましょう。私たちは、賜物を管理して用いることがゆだねられています。「タラント」は、神様が私たちに委ねている賜物を現しています。その賜物は、人それぞれ違います。ローマ12章6-8節でパウロは、賜物には「預言、奉仕、勧めをすること、分け与えること、指導すること、慈善を行うこと」などがあると教えています。またパウロは、Ⅰコリント12章で「賜物はいろいろありますが、与える方は同じ御霊です。奉仕はいろいろありますが、使える相手は同じ主です。働きはいろいろありますが、同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさいます(4-6節)」また、12節では「ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分で多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同じです(12節)。」とも教えています。神様は、一人ひとりにその力に応じて(信仰に応じて)賜物を与えてくださっています。教会はキリストのからだですから、教会に集まる一人ひとりにはそれぞれ違う賜物が与えられているので、与えられていないという事はありません。

 私たちは、知恵とか力とか才能などと聞くと、すぐに「自分はあの人のようには出来ない。」とか「あの人のような才能はない」と比較してしまいます。誰かと比較を始めたらそれは、際限なく続いてしまいます。神様が与えてくださる賜物については、誰かと比較して優劣をつけるものではありません。私の場合は、「基本的なギターの弾き方をすることは出来ますが、ジャズのような弾き方は出来ません。また、歌に関しては音程を外すことがしばしばです。ピアノも少し弾けますが楽譜通りに正確に弾くことは出来ません。」でもそれで良いのです。繰り返しますが、神様は人と比べるために賜物を与えているのではありません。「私は、私として、あなたは、あなたとして」神様から与えられている知恵や能力、働きがあります。神様は、神様ご自身のご栄光のために私たちに賜物を委ねてくださっています。私たちは、委ねられている賜物を用いて主に仕えるのです。いずれ主の前に清算するときが来ます。その時私たちは、どのような賞賛を受けることになるでしょうか。

 イエス様のたとえ出て来るタラントを預かったしもべの姿にもう一度注目しましょう。5タラントと2タラント預かった人は、主人の思いを知り、主人のために大切に管理し用いて商売をして、倍額にしました。旅から帰って来た主人はしもべに対して「よくやった。」と褒めました。この時主人は、お金を倍にしたから喜んだのでしょうか。そうではありません。主人の言葉は「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」となっています。主人は、財産を預けたしもべが、与えられたものをよく管理して忠実に用いていたことを喜んだのではないでしょうか(21、23)。そしてしもべに対して主人は、多くのものを任せ、ともに喜ぶのです。一方1タラントを預かったしもべは、どうだったでしょうか。彼は、1タラントを土に埋めて隠してしまいました。彼は、主人の気持ちを考えず、しっかり管理しているとは言えない状態でした。だから主人は、そのしもべの不忠実さを怒ったのです。

 なぜ主人は、1タラントの人に対して厳しい態度を取っているのかもう少し考えてみましょう。彼は、1タラントを増やしていませんが、減らしてもいないのです。決して無駄にはしていないのです。ここで主人が問題としたのは、1タラントを預かったしもべの心でした。1タラントと言ってもかなりの金額ですから、彼はそれなりの実力があり、主人に信頼されていた人だと思います。けれども1タラント預かった人は、主人の信頼に答えることが出来ませんでした。彼は、主人を信頼していないし、財産を任せてくれた主人の気持ちを無視したのです。5タラントと2タラント預かったしもべは、主人の信頼に答えることを優先しました。タラントを預けた主人は、しもべたちが忠実であったかどうかを見たのです。

 私たちは、神様からそれぞれ賜物、主に仕え主の栄光を現すことのできるタラントが与えられています。ですから私たちは、それを委ねてくださった神様に感謝をし、主に従い仕えることが求められています。ペテロは、「それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。語るのであれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕するのであれば、神が備えてくださる力によって、ふさわしく奉仕しなさい。すべてにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです(Ⅰペテロ4:10-11)。」と教えています。何度も繰り返すようですが、私たちは一人ひとり神様からそれぞれ違った賜物が与えられています。私たちは、その賜物を用いて主に仕え、教会に仕えるのです。全ての人が献身して牧師や宣教師になるわけではありません。会堂掃除も説教の題字を書くことも、礼拝のお花も、音響の奉仕も、受付も、玄関にスリッパを並べる事も、教会学校の教師をすることも、笑顔で挨拶することも、一言二言声をかけることも、神様から与えられた賜物の現われです。教会での全ての奉仕のために、神様は一人一人に賜物を与えておられるのです。「祈り」という賜物を持っている人もいるでしょう。体を動かすのではなく、一人一人のために祈る、これも大切な賜物です。賜物は教会の中だけではなく、家庭や社会の中でも用いることが出来ます。私たちは、神様から与えられている賜物を用いて、様々な場所で主の栄光を現す事が出来ます。

 私たちは、今イエス様の再臨を待ち望む時代に生きています。イエス様は、いずれ必ず再臨され、私たちを天の御国に迎えいれてくださいます。私たちが生きているうちに再臨がなくても、私たちは天の御国への希望が与えられていますから、天の御国でイエス様にお会いすることになります。その時私たちは、イエス様から「よくやった。忠実なしもべだ」と言っていただけるように歩みましょう。イエス様は、私たちの成果や成功を見ているのではありません。どれだけのことが出来るのかが問題なのではありません。イエス様は、私たちの心を見ておられるのです。私たちは、イエス様の愛を感謝し、イエス様の救いの恵みを喜び、イエス様を信頼して与えられている賜物を用いて主に仕えることが大切です。それが忠実な生き方、与えられている賜物を用いる生き方となります。
 皆さんは、どのような賜物が与えられているでしょうか。私たちは、自分に与えられている賜物をよく管理し、神と人に仕えて歩みましょう。イエス様に「よくやった忠実なしもべ」と言っていただけるように歩みましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様が一人一人に賜物を与えてくださっていることを感謝致します。私たちは、与えられている賜物を用いて神様に仕えていきます。私たちは、神様の喜びを自分の喜びとし、神様の恵みに感謝して歩みます。私たちが、神様から与えられている賜物を知り、管理し、用いることが出来るように導いてください。
 一人一人を通して、神様の素晴らしさが現わされ、一人一人を通して神様の恵みが広がって行きますように導いてください。 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」