2025年6月15日(日)礼拝説教 使徒の働き3章1-16節 「この方以外に救いなし」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>
 僕が中学生の時、あるテストの日の事です。僕はテストの問題でどうしても分からない問題がありました。テスト中ですから隣の友だちに聞くわけにもいきません。どう考えても答えが分からないので、「あ~分からない。誰か教えてくれないかな」と天井を見つめながらずっと考えて続けました。すると先生が「赤松どうした。天井に答えが書いてあるのか?天井じゃなく問題を見なさい。」と教えてくれました。僕は、「はーい」とか言いながら心の中では「問題を見ても分からないんだよな~」と思っていました。テストのためには十分な準備をしておくということでしょうか。
 今日は、一人の男の人が癒され、素晴らしい救いを受けた出来事を学びましょう。この人は、生まれた時から足が不自由で、助けを必要としていた人でした。先週は、弟子たちが聖霊を受けた日であるペンテコステを記念した礼拝でした。そしてこの日、教会が誕生しました。教会は、ペテロたちをはじめイエス様のお弟子さんたちを中心にイエス様の福音を伝えていきました。

 ある日、ペテロとヨハネがお祈りをするために神殿に行った時のことです。二人が神殿に入ろうとしていた美しの門に、生まれてから歩いたことのない男の人が座って、施しを求めていました。この時この人は40歳を過ぎていた(4:22)と言われていますので、彼は生まれてから40年以上まったく歩くことが出来ず、神殿に入ることも赦されず、施しを求めて生活していたのです。
 この日も彼は、門の所に座って目の前を通り過ぎる人たちを見上げながら「お願いします」と声をかけていたことでしょう。ペテロとヨハネは、男性を見つめて「私たちを見なさい」と言います。彼は、「おっ、何かもらえるかもしれない」とペテロとヨハネを見上げます。するとペテロが言います。「金銀は私にはない。」座っていた男性は、「金銀がない。お金はない。なんだ、何もくれないのか。あっちへ行ってくれ」と思ったことでしょう。ペテロは、彼の心のつぶやきなど気にもせず、言葉を続けます。それはびっくりするような言葉でした。ペテロは言います。「私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」

 「立って歩けだって、おれは、生まれた時から立てなかったし、歩けなかったんだぞ」男性の心の声が聞こえてきそうです。足の不自由な人は、ペテロの言葉を聞いてびっくりしたでしょうけれども、彼は手を差し出しているペテロの自信に満ちている顔を見ました。そして彼は、ペテロの言葉を信じて立ってみることにしました。するとどうでしょうか。生まれた時から足の不自由な男性は、足と腰の間接が強くされ、筋肉が付き自分の足で立ち上がることが出来ました。「あ~立てる。俺、立ってるぞ」男性は喜びの声をあげます。「よ~し、言われた通り歩いてみよう」そう言って一歩踏み出してみます。「やった~、歩ける。ジャンプも出来るじゃないか」こうして男性は、「神様ありがとう。神様はなんて素晴らしいお方なんだろう」と喜びに満たされてペテロたちと一緒に神殿に入っていきました。

 この後、ペテロは男性が癒されたのは、イエス様の力であり、イエス様が救いを与えてくださったと説明しました。足の不自由な人を癒したイエス様は、今でも生きて働いて僕たちを導いておられます。イエス様は、僕たちの罪を赦し、僕たちをいつも助け導いてくださいます。だから僕たちは、悩んだらイエス様に祈ることが出来ます。困ったことがあったらイエス様に助けを求めることが出来ます。僕たちが信じて求めるならば、イエス様は僕たちの祈りに答えて守ってくれます。
 イエス様こそ僕たちの癒し主であり、僕たちの救い主です。僕たちは、遠慮することなく、イエス様の御名によって祈り続けましょう。
 今週の聖句を一緒に読みましょう。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」使徒の働き4章12節

<祈り>
 「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。僕たちは、イエス様こそ救い主であることを知りました。イエス様、僕たちの毎日を守り導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」
                                   使徒の働き4章12節

<適用>
 最初に中学時代のあるテストの日のことをお話ししましたが、私は、勉強が得意な方ではありませんでした。そんな私ですが、一度だけ塾に通ったことがあります。中学3年の時に、友だちが「赤松、今度英語の塾が始まるらしんだけど、一緒に行かないか?」と言ってきたのです。私は、塾に通うつもりはありませんでしたが、受験勉強の助けにもなるし、友だちと一緒なら楽しく通えるかもしれないと思い塾に通ったのです。塾ですから当然、月謝が発生するのですが、私はあまり考えずに親に話したような気がします。塾の先生は、アメリカ人と日本人の夫婦でした。私は、アメリカ人の英語を直接聞く機会を得て新鮮な気持ちで通うことが出来ました。英語の文法が良く分かって、英会話が出来るようになったかと言うと思うような上達はしなかったと思います。私は、友だちと一緒に行動できることが嬉しくて塾に行っていたようなことでした。学生時代は、一緒に時間を過ごし行動する友だちが大切な存在となります。今でもあの時の、あの友だちと思い出すことがあります。
 今日は使徒の働き3章を開きましたが、ペテロはイエス様がどのようなお方なのかを私たちに教えています。ペテロは、イエス様こそ救い主だと私たちに宣言しています。

Ⅰ;ペテロの確信

 「この方以外に救いなし」これは、ペテロの確信でした。美しの門で素晴らしい奇跡が行われた後、ペテロとヨハネは礼拝のために神殿に入っていきました。癒された人も飛び跳ねながら二人について行きました。おそらく彼は、ずっと喜びの賛美をささげていたのではないかと思います。一連の出来事を知った群衆が、「ソロモンの回廊」でペテロたちの周りに集まってきました。そこでペテロは、今回の癒しのみわざがどうして起きたのかについて説明を始めました。その内容について触れる前に、今回の騒動によってはっきりと示されたペテロの告白を見たいと思います。その告白こそ「この方以外に救いはない」という事です。

 ペテロとヨハネが祈りのために宮に来たのは、午後3時でした。そして二人が捕らえられたのが夕方(使徒4:3)ですから、ペテロたちは数時間神殿で過ごしていたことになります。この数時間、とても多くの人が神殿に押しかけ、混乱状態になっていたのだと思います。
 時々、歌手が突然路上ライブ(ゲリラライブ)を始めたというニュースを聞くことがあります。道行く人は、突然目のまで繰り広げられるコンサートに驚き足を止めてしまいます。その人数が予想をはるかに超えて道路にまで広がり道をふさいでしまうことがあります。そのような時は、警察官が出動し路上ライブを止めることがあります。路上ライブ開催の許可が出ていても予想外の混乱が発生すると中止になることがあります。

 ペテロたちの周りに多くの人が集まり、ペテロの説教に耳を傾けていました。使徒4章4節では、信じた人が「5千人ほどになった」とあります。その日5千人が集まっていたと言うことではないかもしれませんが、相当多くの人々が集まっていたことは確かです。宮の守衛長たちは、神殿の治安を守り秩序を維持する役目がありますから、混乱を鎮めなければなりません。またその場には、サドカイ人たちがいました。彼らは、ユダヤ議会の主流を占め、しかも霊的な事柄、肉体の復活や永遠の命を信じない人々でした。ですからサドカイ人たちは、ペテロたちがイエス様の復活について伝えていること、多くのユダヤ人たちが聞き入っていることを見過ごすことが出来なかったのです。こうしたことから2人は、逮捕され、次の日にユダヤ民族の最高法院(サンヘドリン)に引き出されることになりました。
 こうしてペテロたちは、最高法院の尋問を受けることとなりました。最高法院は、「何の権威によって、また、だれの名によってあのようなことをしたのか」と質問しました。ペテロたちが逮捕されたのは、「復活」を伝えていたからです。けれども最高法院としては、そのことを問題の中心とすることが出来ません。それは、ユダヤの最高法院の中には、霊的事柄や復活を信じているパリサイ人たちがいたからです。

 ここで少しイエス様の十字架の出来事を思い起こしたいと思います。イエス様も十字架を前にしてユダヤの最高法院に引き出されました。その出来事は、数か月前のこととなりますので、当然同じメンバーが集まったことでしょう。イエス様が不当な裁判を受けている時、ペテロは大祭司の家の中庭で「イエスなんか知らない」と完全に否定してしまいました。今回は、どうなのでしょうか。イエス様は、ペテロたちが直面するだろう出来事を知っていて前もって約束を語っておられました。「人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのとき与えられます。話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。(マタイ10:19-20)」
 ペテロは、イエス様が約束しておられたように、聖霊に満たされて語り始めました。彼は、歩けなかった人が歩けるようになったのは、「あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名による」と答えます。そしてペテロは、大胆に「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです」と言い切るのです。 これがペテロの確信です。
 このペテロの確信は、福音そのものであり、私たちの確信でもあります。私たちにとっては、イエス様こそ唯一の救い主であり、このイエス様以外には救いはありません。

Ⅱ;イエス様こそ救い主です

 ペテロは、大胆に「この方以外に救いなし」と宣言しました。それは、私たちにとっても同じことで、イエス様こそ私たちの救い主です。ここで、ペテロが押しかけて来た群衆に向かって説き明かした福音を見る事にしましょう。
 ペテロたちの周りに集まって来た人々は、ペテロとヨハネが歩けない人を歩けるにするほどの霊的力を持っている、もしくは信仰深さがあって奇跡を行ったと考えていました。こうして人々は、ペテロたちを称賛し、その力にあやかりたいと思っていたのではないでしょうか。ペテロは、人々の考えをはっきりと否定し、勘違いをしていることを教える必要がりました。ペテロは言います。「イエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。(使徒3:16)」

 イエス・キリストとはどのようなお方なのでしょうか。イエス様は、「アブラハム、イサク、ヤコブの神が」栄光を与えたお方で、「聖なる正しい方(14)」です。けれどもユダヤ人たちは、総督ピラトが釈放すると決めたのに、救い主イエス様を拒んで、殺人犯(バラバ)の釈放を願い、イエス様を十字架につけて殺してしまったのです。けれども神様は、イエス様を死の中からよみがえらせました。ペテロは、今も生きておられる救い主イエス様の証人として力強く証ししました。ペテロは、このように語り、その御名を信じる信仰によって、奇跡が起こったと説明しました。

 ペテロの説教は、それで終わりませんでした。ペテロは、イエス様がイエス様を否定し、十字架につけた人たちのためにも救いの道を開いてくださったと語ることを忘れませんでした。それが使徒3章17節以降で語られている事柄です。ペテロは「悔い改めて神に立ち返りなさい。そすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られます(使徒3:19)」と愛をもって迫りました。
 このメッセージは、ユダヤの最高法院でも同じです(使徒4章8~12)。ペテロは、「イエス様を十字架につけたのは確かにあなたがたです。けれども、あなたがた(イスラエル)の罪にもかかわらず、神様はイエス様をよみがえらせてくださり救いを完成してくださったのだ」と語りました。そのうえでペテロは、「家を建てる者たちに捨てられた石、それが要の石となった。(詩篇118:20)」を引用して、イエス様について説明します。家を建てるとき、誰が見ても不必要だと捨てられた石が、実は、土台の隅の石として最も必要なものであるということです。イエス様は、ユダヤ人から捨てられ十字架にかけられました。しかしこのイエス様こそ、全人類の救いのために必要なお方なのだということです。

 ある人は、「イエス・キリスト以外に救いはない」と聞くと、「そんな狭い救いの道しかないのか」と感じるかもしれません。信仰心というものを登山に例えて説明しようとする人がいます。山には、登山口は複数ありますが、目指すべき山頂は一つです。その様なことから、「宗教と言う入り口は様々あるけれども、たどり着く場所(頂上)は一つだ」という説明が発生するわけです。これはまさに、人間的な、都合の良い考え方です。人にとって選択肢というのは、たくさんあったほうが都合が良いのです。登山ならば、登山口が複数あっても同じ山頂を目指すことが出来るでしょう。けれども罪からの救い、永遠の命という事柄に関することではそう簡単ではありません。人がたくさんの選択肢を求めた結果、あれもこれもと答えのない、迷路のような道に迷い込むこととなりました。それが、私たち人類の直面する現実です。

 皆さん、罪の赦し、救い、永遠の命について「この方以外に救いはない」という明確な答えをしてくれるのは、聖書だけです。イエス・キリスト以外に救いはありません。私たちに救いを与え、永遠の命を与え、天の御国への約束を確かに与えてくださるのは、イエス様だけです。そのために、イエス様は、十字架で私たちの罪の全ての責任を引き受けて下さり、死なれ、三日目によみがえり今も生きておられるのです。
 イエス様を信じる信仰によって私たちの歩は確かなものとなります。そして私たちは、信仰によって、新しい命が与えられ、新しい生き方、主にある人生を送ることが出来ます。唯一の救い主イエス様には、私たちを救う力があります。私たちは、「イエス様は、私の人生を導き、変え、新しい道を与えてくださる。イエス様の御名には力がある。」と宣言しましょう。
 私たちには、救い主イエス様がおられます。この方以外に救いはありません。イエス様は、賛美のなかった私たちの口に、喜びと感謝の賛美を与えてくださるお方です。私たちの人生には、実に多くの事柄があります。私たちは、その中で右往左往して自力でもがきながら生きて行くのではなく、ペテロと同じように力強く宣言しながら生きることが出来ます。私たちは、事あるごとに使徒4章12節を自分自身の信仰の告白として宣言しましょう。このペテロの告白は、福音そのものであり、私たちの確信でもあります。私たちにとって、イエス様こそ唯一の救い主であり、このイエス様以外には救いはありません。

<祈り>
 「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。ペテロは、臆することなく大胆に「この方以外に救いはない」と宣言しました。私たちも同じように「イエス様こそ私たちの救い主です」と宣言して歩みます。イエス様は、私たちの罪を赦し、救いを与え、感謝の賛美に満たしてくださるお方です。足の不自由な男性の人生を変えたイエス様が、今も私たちの人生に関わってくださり導いてくださることを信じます。イエス様、私たちの歩みを祝福してください。
 神様、今週も続けられる教会のリフォーム工事が安全に終了することが出来るように守ってください。引き続き教会の働きを祝福し主の栄光を現すことが出来ますように導いてください。
 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」