<子どもたちへ>
皆は、お母さんやお父さん、おじいちゃんやおばあちゃんのお手伝いをすることがあるでしょうか。「○○ちゃん、ごはんの準備手伝って」と言われたら、「はーい!」とすぐに喜んでお手伝いをすることが出来るでしょうか。テレビを観ていたり、ゲームをしている時に頼まれても「え~、いま一番いいところだから出来ない。ちょっと待ってて。」とか言って手伝わないことがあるかもしれませんね。ピリポさんは、神様にどこどこに行って福音を伝えるようにと言われた時、喜んで従いました。今日は、福音が広がり続けていった様子を一緒に学びましょう。
突然、ピリポと名前を言いましたけれど、「ピリポ?誰?」と思ったかもしれませんね。今日のお話出てくるピリポさんは、初代教会の中でステパノさんと一緒に選ばれた7人のうちの一人です。先週ステパノさんへの迫害からクリスチャンへの迫害が厳しくなってクリスチャンたちがエルサレムから地方に移り住むことになったと話しました。その中にピリポさんがいたのです。ピリポさんは、サマリアの地域に移動した時に、「皆さん、イエス様は救い主です」とそこにいる人々にイエス様のことを伝えました。ピリポさんのお話を聞いてたくさんの人がイエス様を信じて洗礼を受けました。エルサレムにいるペテロとヨハネのもとに「サマリアの人々がイエス様を信じて洗礼を受けています」と伝える人がいました。「えっ、サマリアで?どういうことだ?」不思議に思ってペテロとヨハネは、サマリアに行きピリポさんの伝道を確かめました。そしてサマリアでは、さらに多くの人がイエス様を信じ、大きな喜びがありました。ピリポさんもサマリアではまだまだやることがあったことでしょう。
すると神様の使いがピリポに全く新しい働きを伝えました。御使いは「サマリアを離れてエルサレムからガザに下る道に行きなさい」と言います。それを言われてピリポさんは、「サマリアではこれからも福音を伝えることが必要で、まだまだやることはたくさんあります。どうして移動するのですか?」とは言いませんでした。ピリポさんは、「はい、分かりました。移動します」と言って神様の言葉に従いました。
ガザに行ってみると一台の馬車が目の前を通っていきます。エチオピアの女王に仕えている人の乗った馬車でした。聖霊が「馬車に近づいて一緒に行きなさい」とピリポに言いました。ピリポが馬車に近づくと、馬車に乗っている人は旧約聖書を読んでいました。その箇所は、イエス様の十字架について預言した預言者イザヤの言葉でした。「すみません。あなたはイザヤ書の言葉を読んでいるみたいですけれど、その内容は分かりますか?」とピリポが質問しました。馬車に乗っている人は、「いや~、教えてくれる人がいないので良く分からなくて困っていたのです。どうもあなたはユダヤ人みたいだけれども、教えてくれませんか?」とピリポに頼みました。「喜んで、そのためにここに来ましたから」とピリポは、馬車に乗ってイエス様のことを教えてあげました。
馬車に乗っていた人は、ピリポの話しを聞いて「良く分かりました。ありがとございます。私は、イエス様が救い主であることを信じて洗礼を受けます」と信仰告白をしました。ピリポは、すぐそばに水があるのを確認して、洗礼を授けました。二人が水から上がると、主の霊がピリポを連れて行ってしまいました。エチオピアの高官はピリポがいなくなっても救われた喜びに包まれて家に帰っていきました。
こうして、ピリポによってサマリアの人たちだけではなく、エチオピア人もイエス様を信じることが出来ました。今週の聖句を一緒に読みましょう。「主の御名を呼び求める者はみな救われる」ローマ人への手紙10章13節
ピリポの働きを通してイエス様の十字架の救いの恵みがユダヤからサマリアそして世界に広がっていく一歩が始まっていくのです。神様は、僕たち一人ひとりも用いてくださいます。イエス様の十字架の救いの知らせを伝える働きは、イエス様を信じる僕たち一人ひとりから新しい一歩が始まっていきます。
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様は、福音宣教の新しい一歩のためにピリポを用いてくださいました。神様は、今も僕たちを通して福音が拡がるようにと導いてくださいます。神様、僕たちを用いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」
「主の御名を呼び求める者はみな救われる」 ローマ人への手紙10章13節
<適用>
私たちは、時々「心機一転」と気持ちを入れ替えて物事に取り組むことがあります。新しい事柄に取り組むとき「心機一転」と言いますし、継続している働きでも「心機一転」と新しい気持ちになって取り組むことがあります。教会では、一階の床が絨毯からフローリングへのリフォーム工事が完了しました。お祈りありがとうございました。私たちは、「心機一転」という新しい信仰(気持ち)で礼拝し、宣教のわざが一歩、また一歩と前進することが出来るように祈りましょう。
さて、初代教会の宣教は思いがけない状況の中で新しい一歩を踏み出すこととなりました。今日は、「宣教の新しい一歩」について見ていきましょう。
Ⅰ;ユダヤからサマリアへ
まず、宣教の新しい一歩は、ユダヤからサマリアへの一歩から始まりました。エルサレムでは、ステパノへの迫害からユダヤ教の指導者からのクリスチャンへの迫害が激しさを増していきました。そのような状況の中でもエルサレム教会のクリスチャンたちは福音を語ることをあきらめませんでした。「散らされた人たちは、みことばの福音を宣べ伝えながら、巡り歩いた (4節)」のです。中には、気落ちして落胆した人たちもいたでしょう。けれども多くのクリスチャンたちは、散らされた先々で堂々とみことばを語り、イエス様の救いを伝え続けたのです。その代表的な人物は、ピリポです。彼は、サマリアの町で人々にキリストを伝え、多くのしるしと奇跡を行いました。人々は、ピリボの語ることばに耳を傾けて信じました。こうした新たな伸展の中で「その町には、大きな喜びがあった(8)」とある通り、人々の間で、教会の中で大きな喜びが溢れることになりました。イエス様は「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります(使徒1:8)」と約束しておられました。この約束が迫害を通して実現することとなりました。そのために用いられたのは、使徒たちだけではなく、教会の信徒一人一人でした。
サマリアの大リバイバルを聞いたエルサレムの教会は、サマリアの人々の信仰を確認するために、ペテロとヨハネを遣わしました。イエス様は、以前弟子たちを伝道に遣わす時「異邦人の道に行ってはいけません。サマリア人の町に入ってはいけません(マタイ10:5)」と命じていました。しかし、今そのサマリアの町で多くの人が信仰に入っているのです。エルサレム教会は、そのことを確認しなくてはなりません。なぜならば、サマリア人とユダヤ人との間には特別な事情があったからです。ユダヤ人たちは、旧約時代に捕囚となった時にイスラエル民族としての血筋を大切に守ってきました。しかし同じ時代にサマリア人は、異教の民と混血となりイスラエル人(ユダヤ人)としての血筋を守ることが出来なかったのです。そこでユダヤ人は、サマリア人を軽蔑し、交わりを持つことはなかったのです。ですからユダヤ人がサマリア人に伝道することも、サマリアが信仰を持つことも信じられない出来事でした。
こうした背景の中でエルサレム教会を代表してペテロとヨハネが遣わされることとなりました。ペテロとヨハネは、サマリア人たちの信仰を確認し、確かに彼らが福音を聞きイエス様を救い主と信じていることが明らかになりました。
まず福音の宣教は、エルサレム(ユダヤ)からサマリアへの新しい一歩を踏み出すことになりました。
Ⅱ;サマリアから世界へ
そして次に宣教の新しい一歩は、サマリアから世界へと進められていくことになりました。サマリアでは、ピリポによって宣教が始められ、ペテロとヨハネによってさらに多くの町々で宣教がなされました。当然ピリポもその働きに加わるところでしょう。しかし、神様はピリポを全く別の地に遣わしました。
ピリポは、「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。(26)」という主の使いの導きを受けます。ここでの「主の使い」は、29節では「御霊」と言いかえられているので、ピリポは御霊の導きを受けていると言えます。ピリポは、聖霊の導きを聞き、信仰をもってすぐに従いました。そしてガザに行ってみるとそこにエチオピア人の宦官が馬車に乗っていました。このエチオピアの宦官がどのようにしてエルサレムに行くようになったのか、なぜ聖書に興味を持つようになったかは知られていません。しかし、この宦官は、エチオピアから遠く離れたエルサレムに通うほど熱心な人でした。また誰もが持っているわけではない聖書を入手するほどの関心がありました。しかも彼は、荒れた道を進む馬車の中で声を出して聖書を読み旅をするほどの求道心を持っていたのです。
神様は、そこに福音を必要としている人がいるからピリポを遣わされたのです。ピリポは、聖霊様の導きを疑わず、信じて従ったことによってこれから起こる素晴らしい出来事を経験することが出来ました。
ピリポが向かったガザは、紀元前93年に滅ぼされ、建物は破壊され、緑はなく、砂漠のように乾燥し、砂ぼこりがたちこめるような寂しい所でした。まさに荒れ果てている状態でした。しかし、「荒野である」と言う表現は、その場所だけではなく、宦官の心も言い表しているのではないかと思うのです。宦官は、ユダヤ教の礼拝のためにエルサレムに行くほどの人でした。また彼は、聖書を理解したいと願いながら適切な説明を得られないでいたのです。宦官は、救いを知らない寂しい心と御言葉に対して飢え乾いた心の持ち主だったのです。
私たち福音伝道教団も「日本のために、福音を必要としている日本人のために」との神様の導きを受けたイギリス人宣教師M・Aバーネット先生によって始められました。最初の段階からD・Aパー先生が協力者として与えられ福音伝道教団の働きが進められることとなります。お二人は、戦争中にも本国に帰らず日本に留まり続けたことによってスパイの嫌疑がかけられ警察の監視下に置かれ軟禁生活を強いられることとなりました。その時のことをパー先生はご自身の回想録で次のように書いています。「私共の家に常時いました警察の方は、昭和17年3月いっぱいで引き上げてしまいました。その代わり時間も日も決めないで、突然様子を見に来るようになりました。来るたびごとにちがう人で何度も何度も同じ質問をされました。けれども神様の御計画は、このようなことの中にもあり、私共は、私共の家に来られる数えきれないほどの警察官に、福音を語ることができました。戦争中、それも警察の方々に福音を知らせることなど普通では出来ないことですが、神様の御計画の内にそれができたのでした。(D・Aパー 回想録P38)」バーネット先生とパー先生は、困難な時代、人々の心が飢え乾き荒れ果てた時代にあって、福音を語ることを諦めませんでした。福音宣教は、お二人のいる場所で新しい一歩を進めていたのです。
私たちも以前は、何かを求め、砂漠のような飢え乾いた心を持ち、荒れ果てた心を満たしたいと願って教会に行くようになったのではないでしょうか。そして聖霊様の導きと神様の不思議なご計画の中で、自分の罪とイエス様の十字架の救いを知り信仰を持つようになりました。「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。(ヨハネ4:14)』」というイエス様の約束の通りに、私たちは今、神様から渇くことのない心の潤いを与えられています。なぜなら「主の御名を呼び求める者はみな救われる」からです。神様は、その潤いを人々に与えるために私たちを用いてくださるのです。
Ⅲ;私たちから
宣教の新しい一歩は、私たちから始まっていきます。なぜならば福音の宣教は、人から人に拡がっていくからです。使徒の8章には福音が、ピリポからサマリアの人たちに、そしてピリポからエチオピアの宦官に伝えられ拡がっていく様子が記されてあります。
小川教会も一人の伝道者と一人の信徒(姉妹)から始まりました。1945年(昭和20年)3月10日に渡辺三千世先生と中原春子さんが開拓伝道のために小川町にやって来ました。東京大空襲が前日3月9日の夜中ですから、その直後のことになります。こうして渡辺先生たちは、祈りの中で心備えしていた開拓地小川に来るのです。困難な時代、混乱もある中で渡辺先生たちの開拓の働きがスタートして教会が誕生しました。渡辺先生たちの思いを聞いていたある人の証しでは、渡辺先生たちは、「この小川の地に神を信じる民がいる」という信仰を持ってこられたという事でした。渡辺三千世先生はパー先生とも親しくされていましたので、D・Aパー先生も小川の町に来てくださってお手伝いされたと思います。渡辺先生と中原さんとパー先生の写真が記念誌にありました。(小川キリスト教会50周年記念誌より)
神様は、小川の地での宣教の新しい一歩の為に渡辺先生と中原さんを備えてくださいました。この神様の御手の働きがあり、今の私たちの教会が存在しているのです。神様は、エチオピアの宦官のためにピリポという導き手を備えられました。神様は、私たちが救いに導かれるためにも、ふさわしい導き手を備えておられたのではないでしょうか。皆さんが教会に行き、救われた時のことを思い返してみてください。そこには、共に祈ってくれた人、導いてくれた人、支えてくれた人がいたはずです。その人たちがいたから今、私たちは神様を信じ、救われ、心に平安を受けているのです。今度は、私たちの番です。私たちが祈って支える必要のある人たちがいます。私たちが導き手となって福音を伝える人たちがいます。私たちの周りには、救いを必要としている人がたくさんいます。私たちは、その人たちの所に行って福音を語り、私たちが持っている心の潤い、主の恵みを伝え、導くことが出来るのです。それは、決して特別なことではありません。だから遠慮しないで導き手となれるように祈っていきましょう。
ピリポは大きな働きをしていますが、彼は信徒の一人でした。そして彼は執事として選ばれた7人の一人です。ピリポが何故伝道できたのでしょうか。何故宦官の導き手となることが出来たのでしょうか。それは、彼が御霊に満たされていたからです。本当の導き手である聖霊に従い、主と共に歩んでいたからです。このことは私たちとしても同じことです。聖霊様はいつでも私たちを助け用いてくださいます。
宣教の新しい一歩は、ピリポを通してユダヤからサマリアへ拡がり、世界への扉が開かれていきました。そして今、私たち一人ひとりを通して宣教の新しい一歩が進められていきます。聖霊なる神様の導きと助けを求めて信仰をもって進んでいきましょう。「主の御名を呼び求める者はみな救われる」ローマ人への手紙10章13節
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様は、初代教会の宣教の新しい一歩のためにピリポを用いられました。神様は、今、私たち一人ひとりを用いてくださることを信じます。神様、私たちが受けていて信じている福音の恵みを伝えることが出来るように導いてください。私たちがまた教会が、宣教の新しい一歩を踏み出すことが出来るように主の力を注いでください。『主の御名を呼び求める者はみな救われる』という素晴らしい約束の祝福が、私たち一人ひとりを通して拡がっていくように、主の導きをお願いします。
この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」