<子どもたちへ>
おはようございます。今日もみんなと一緒に神様を礼拝出来ることをうれしく思います。今日は、この男の人のお話をします。
この人の名前は、サウロと言います。ペンテコステから始まった最初の教会の時代の人です。でもね、聖書に登場する最初の時は、こんな顔していましたよ。こわーい顔です。それがある日を境にこんなニコニコ顔に変わりました。何があったのでしょうか?
サウロは、本当の神さまを心から信じていました。でもイエス様のことは信じていません。「イエスは十字架で死刑にされるような人間だ。神の子救い主と言うのはとんでもない話だ!」と思っていました。だからイエス様を信じる人たちを見ると邪魔したり、つかまえて牢屋に入れたりしています。それでこんなに怖い顔をしているのですね。
ある時サウロは思いました。「イエスを信じるやつらがダマスコの町に逃げて行ったぞ。おいかけて連れ戻そう。エルサレムの牢屋に入れて、死刑にしなくては!」早速ダマスコに向かいました。
町の手前まで来た時です。ピカーっ!!とまぶしい光が照りつけました。サウロはびっくりして倒れてしまいました。すると不思議な声が聞こえました。
「サウロ、サウロ。どうして私を迫害するのか?」目が見えなくなっていたサウルは」手探りで答えました。「あなたはどなたですか?」すると声がしました。「私はあなたが迫害しているイエスです。ダマスコの町に行けばこれからどうしたらよいかわかります」。
サウロは仲間たちに連れられて町に入りました。ご飯も飲み物も欲しくないし、喉を通りません。3日の間、自分がしてきたことは間違っていたのだろうか、どうしたらよいのだろうかと、考えていたのでしょう。
するとそこに、イエス様を信じるアナニアという人がやってきました。「兄弟よ、私はイエス様に言われてここに来ました。あなたの目が見えるようになって、聖霊に満たされるためです」。アナニアがお祈りしてくれたので、サウロはまた目が見えるようになりました。イエス様こそ本当の救い主だとはっきりわかったので、信じて洗礼を受けました。
サウロはこのあとどうしたでしょうか?なんと、以前の自分のようにイエス様大嫌い、教会大嫌いだった人たちの所に行って、「イエス様こそ神の子、救い主です。」と伝え始めました。「サウロが来たらクリスチャンを捕まえてくれると思ったのに、まるで別人じゃないか」とみんなびっくりして困ってしまいました。
今日のみことばをみんなで声に出して読みましょう。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(IIコリント5:17)。
サウロはこのみ言葉の通り、イエス様を信じてそれまでとは正反対の新しい人にされました。私たちは、自分で自分に困るな、嫌だなと思う部分もあるかもしれません。気づかないまま神様や周りの人を悲しませているかもしれません。でも悔い改めてイエス様を信じる人は、サウロのように新しい人に変えて頂くことが出来ます。この素晴らしいお約束に期待しながら、イエス様を信じて、聖書のお話を学び続けましょうね。
<祈り>
「神様、サウロさんがイエス様に出会って、大きく変わったお話を聞きました。イエス様を信じるなら私のことも造り変えて下さることをありがとうございます。罪の中に生きてきたことをお赦しください。神様を愛する人にして下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
コリント人への手紙第二 5章17節
<適用>
先月のことですが、中学校、高校の運動部では学校総合体育大会が行われました。我が家の息子たちもそれぞれに大会に参加し、そして部活動の引退となりました。学生にとっては大きな変化の時ですが、保護者にとってもまた然り、です。いつもの活動がなくなり生活が一変します。どこに目当てをおいて歩めばいいか、迷いも生まれやすい気がします。
これは成人であっても必ず通る変化です。社会人として働いていれば、いずれ定年の日は訪れます。また、社会や家庭におけるあの役割この役割を、一つひとつ卒業していくこともあります。新しい歩み、というのは、思う以上に私たちの人生に存在いたします。そしてそれは時に混乱や不安を齎すことがあります。
本日のテキストとして与えられました箇所は、「サウロの回心」として有名な箇所です。サウロ、とは、後に使徒パウロと呼ばれる人物の青年期の名前です。彼ほど劇的に、思いもよらない人生の変化を通った人もいないでしょう。けれどそれは、混乱や不安の溢れるものではなく、主イエス様が中心にいて下さる平安と確信に満ちた変化でした。
神様は私たちにも、平安の内に新しい者として歩むよう働きかけて下さいます。一体どのようにして人は新しく変えられるのでしょうか。3つの点から共に学んで参りましょう。
1.見出して下さるイエス
最初に覚えたいのは、変えられるべき者を見出して下さるイエス様の存在です。
サウロはイスラエルの初代王サウルと同名の、ベニヤミン族出身で、高名な律法学者ガマリエルの門下生でした。またパリサイ人として厳格なユダヤ教徒でありつつも、生まれながらにローマ市民権という特権も持つ人物でした。言うなれば、いいとこに生まれた高学歴のインテリ青年でした。
先ほども見ました通り、サウロはクリスチャンの迫害の意に燃えていました。使徒26章にサウロ自身の言葉でその所業が語られています。使徒26:9~11にはこうあります。「実は私自身も、ナザレ人イエスの名に対して、徹底して反対すべきであると考えていました。そして、それをエルサレムで実行しました。祭司長たちから権限を受けた私は、多くの聖徒たちを牢に閉じ込め、彼らが殺されるときには賛成の票を投じました。」これはステパノの処刑のことを言っていると思われます。次いでこう言います。「そして、すべての会堂で、何度も彼らに罰を科し、御名を汚すことばを無理やり言わせ、彼らに対する激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々にまで彼らを迫害して行きました。」キリスト者に冒涜的な言葉を強いるなど、罪深く、狂気すら感じるほどの行動をサウロは取っていました。彼はそれがイスラエルの神に栄光を帰することだと、信じて疑わなかったのです。サウロは彼なりの正義感の中で教会迫害に突き進んでいたのでした。
イエス様が彼に現れたのはそんな最中でした。主は「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」(4)とまばゆい顕現の中で呼びかけました。主はサウロを見ておられました。使徒26章によれば、この時イエス様は「とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い」(14)と語り、サウロの痛々しい姿に心を痛めておられたことが分かります。
「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(5)とのことばは、いかに衝撃的だったでしょうか。サウロは自分の方向が決定的に間違っていたことを示されたのです。
聖書では、罪は「ハマルティア」というギリシャ語で表されます。的を外す、という意味です。サウロはまさに的外れな方向に突き進みました。教会を迫害するつもりで神ご自身であるお方(イエス様)を迫害していました。それは罪に他なりません。目が見えなくなった3日間の断食の祈りの内に、殉教に追いやったステパノとその説教が浮かんできたでしょう。御名を汚す言葉を強制した信者たちの顔が浮かんだでしょう。この時間はサウロにどうしても必要な、内省と悔い改めの時間でした。
たとえ「つもり」がなかったとしても、痛々しいまでに罪の道に邁進しているのが私たちです。でもイエス様は、そんな私たちを見ておられ、心を痛めて見出して下さるお方です。新しくされる必要のある者を、主は見捨てたりせず招いて下さいます。
サウロを名指して呼ばれたイエス様は、私たちの名も読んで下さいます。この愛と恵みに応えて、「主よ、わたしはどうしたらよろしいでしょうか」と応答いたしましょう。一足ひとあし主はお導き下さいます。
2.信仰者をも新しくされるイエス
さて次に見たいのは、既にイエス様を信じている信仰者をも、イエス様は新しくして下さるということです。
10節からを見ていきましょう。ダマスコのキリスト者アナニアが登場いたします。イエス様はアナニアに語り掛け言われました。11節「立って、『まっすぐ』と呼ばれる通りに行き、ユダの家にいるサウロという名のタルソ人を訪ねなさい。」主は更に、サウロはアナニアが手を置いて祈ることで再び見えるようになる、そう幻を見ている、と言われました。
これはアナニアに驚きとためらいを引き起こすおことばでした。13節では「この人がどんなにひどいことをしたか聞いています」と訴えます。しかし主はアナニアを遣わされました。「行きなさい。あの人は私の名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です」。
ここまではっきりご計画とみこころを示されて、アナニアは動きました。彼はサウロを訪ね、「兄弟サウロ」と呼びかけた上で、按手の祈りをしました。この言葉に、どれほどの決意と主への従順が込められているだろうかと思わせられます。
使徒22章には、パウロ自身の言葉でこの時のことが書かれています。アナニアはこう言いました。「私たちの父祖の神は、あなたをお選びになりました。あなたがみこころを知り、義なる方を見、その方の口から御声を聞くようになるためです。」(22:14)つまり体だけでなく心の目が開かれるように、イエス様がサウロを選んで下さった、というのです。目から鱗のようなものが落ちた、というのは彼の心の経験でした。
更にアナニアは言いました。「あなたはその方のために、すべての人に対して、見聞きしたことを証しする証人となるのです。さあ、何をためらっているのですか。立ちなさい。その方の名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい」(22:16)。
皆さん、サウロは自信満々に宗旨替えをしたのではありませんでした。この箇所からは、彼がためらっていたことが分かります。イエス様が神その方であることがわかった。しかし、教会を迫害した自分のようなものがこのお方にすがってよいものか。自分はどうしたらよいのか。逡巡したことがわかります。そのためらいを打ち払うよう導いたのがアナニアでした。ここに神様によって新しい境地に導かれた働き人の姿を見ることが出来ます。彼が励ましたからこそ、サウロは勇気を得てイエス様を信じ、バプテスマを受けることが出来たのです。
どんなに罪深い仕打ちをしてくる者も、イエス様にあって救われなければならないのだ、とアナニアはこの時教えられていました。それは殉教者ステパノにも見られる態度であり、何よりイエス様ご自身の在り様でした。人間として当然の怖れや怒り、好き嫌いもあるでしょう。しかしそれを超えてサウロを導くことが出来たのは、神様がアナニアをも新しくして下さったからです。人が新しく造り変えられるのはイエス様を信じる時です。けれどもそれだけでなく、信仰生活の中で私たちは常に新しくされ続けるのです。
Ⅱコリント4:16にはこういうみことばがあります。「たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」。神様は、信者をも新しく造り変えつづけ、ご自身のみ旨に沿って歩むよう導こうとしておられます。
アナニアは自分の判断や感情に固執せず、主のお言葉に従ってお仕えしました。私たちもなお新たにされ続け、神様のみこころに敏感にお仕えするお互いでありたいと願います。
3.造り変えられたサウロ
最期に、まさに180度方向転換し、新しく造り変えられたサウロの姿に目を留めたいと思います。
19節にはこうあります。「サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと共にいて、ただちに諸会堂で、『この方こそ神の子です』とイエスのことを宣べ伝え始めた」。この驚くべき変化は、捕縛者としてのサウロを待っていたユダヤ人たちをうろたえさせました。
救いの喜びに燃えていたことの他に、サウロはイエス様によって天からの啓示が与えられていました。使徒26:16「起き上がって自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たことや、わたしがあなたに示そうとしていることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。」サウロは自分が福音を大胆に伝えたのは、この「天からの幻に背かず」(26:19)使命を遂行するためだった、と語っています。自分への神の任命に従った結果、これまでの主張とは真逆の証を直ちに始めたのです。
このような劇的な変化はどのように感じられるでしょうか。サウロという特別な人だからこうなったのでしょうか。アナニアが語っていたことばに注目したいと思います。アナニアはサウロに按手の祈りをする時、「あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです」(9:17)と語りました。サウロは聖霊に満たされた結果、これほど変えられたのです。人のわざではありません。
私自身を振り返った時に、ノンクリスチャンの家庭に育ち、生きる希望を持てずに過ごしていました。キリスト教とは何の接点もなく生きてきました。その私が、亡き父の残してくれた1冊の聖書を手に取り、ここに何かあるのではないか、教会に行って教えてもらいたい、と思うようになったのは、中学3年生の時でした。初めて教会を訪ね、夏のバイブルキャンプで救い主イエス様を信じることが出来ました。これはまさに聖霊のお働きでした。世界の偉人の一人としか知らなかったイエス様を、今は主と信じお仕えさせて頂いています。これもまた、聖霊のお働きによる新しく造られた人生です。人の手によるものではありません。
神様はサウロの時代から今に至るまで、人を造り変え、人生に目的を与え、ご自身に仕えて生きるよう導いて下さいます。そこには困難が伴う時もありますが、本当に幸いな道です。もう一度今日のみことばをお読みしましょう。主にある者はすべて、新しく造られた者です。新しい人生、すなわち主イエス様に心を込めてお仕えする人生を送り続けましょう。そしてイエス様の救いを伝え続けてまいりましょう。
<祈り>
「天の父なる神様、御名をあがめます。あなたが私たちを探し出し、痛ましい罪の縄目から解き放って下さったことを感謝いたします。差し出された救いの恵みを、ためらわずに受け取るよう招いて下さりありがとうございます。改めて主のご愛と恵みに信頼し、信仰を告白いたします。どうぞお受入れ下さい。またあなたの恵みの中で、日々新たにしてください。いつも開かれた心をお与え下さり、あなたの御思いを学ぶことが出来ますように。新しく造られた者として、証の生活に励ませて下さい。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。」