<子どもたちへ>
おはようございます。夏休み、元気に過ごしていますか?外はお祭りですけれど、日曜日の朝ですから、神様への礼拝に気持ちを集中しましょうね。
さて、今日のお話の主人公はこの人たちです。一人はバルナバ、といいます。神様を信じる信仰が強くて、聖霊に満たされた立派な人でした。もう一人はサウロです。聞いたことがありますね。イエス様を信じる人を捕まえていたけれど、逆にイエス様を信じるようになったのでしたね。2人はどんな活動をしたのかな?見て行きましょう。
ここはアンティオキアの町です。海が近くて外国の人もよくやってきます。そこにエルサレムの教会からバルナバがやってきました。「おお、素晴らしい!ユダヤ人だけではなくて、外国の人もイエス様を信じているぞ。みなさん、イエス様をしっかり信じていきましょう!」そういって励ましました。
バルナバは考えました。「わたしだけでは教える人が足りない。そうだ、ギリシャ語の上手なサウロを呼んで来て、一緒に教えよう」。そこで2人は1年の間イエス様のことを教えました。よーくイエス様のことを教えてもらったアンティオキアの人たちは、「イエス様はすばらしい!」と賛美しました。また「イエス様はこういうお方だよ、イエス様はこう言われたよ」といつも話していました。周りの人たちはそれを見て、「あの人たち、キリストさんだね」と言うようになりました。今でもイエス様を信じている人を、「キリスト者」とか「クリスチャン」と言いますが、このアンティオキアの外国人の教会から始まったのですね。
ある日アンティオキア教会の人たちがお祈りしていると、神様がこう言われました。「バルナバとサウロを送り出して、私のことを伝える旅をさせなさい」。教会は2人のためにお祈りしました。「神様、バルナバとサウロを守って下さい。たくさんの人がイエス様を信じることが出来ますように」。「皆さん、お祈りありがとう。行って来ます!」こうして2人は船に乗って遠くに出かけて行きました。
この旅の途中から、サウロは別の名前を使い始めました。「パウロ」というお名前です。パウロとバルナバはどこででもまずユダヤ人にイエス様のことを伝えました。「皆さん、イエス様は聖書に書かれた神様の子、救い主です。イエス様を信じて下さい!」すると外国の人たちは喜んで信じました。でもユダヤ人たちはやきもちを焼いて妨害しました。そこで2人は「神様のことばはまずあなたたちユダヤ人に届けられるはずでした。でもこれから私たちは外国人の方に伝えます」。こうしてイエス様のことは、ユダヤ人だけでなく外国の人にも伝えられたのですね。
今日のみことばを読みましょう。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)。イエス様が天に帰って行かれる時のお言葉です。バルナバとパウロはこのお言葉の通りにして、外国人にもイエス様の救いが伝わりました。私たちの日本にも伝わったのは、伝え続けた人たちのおかげですね。私たちも同じようにイエス様のことを伝えていきましょう。
<祈り>
「神様、遠いイスラエルの国から外国にまで、イエス様の救いが伝えられていったことを知りました。私たちの住む日本にまで伝えられたことを感謝します。私たちも「クリスチャン」としていつもイエス様のことをほめたたえていきたいです。イエス様を伝えて行けますよう、強めて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」
「それから、イエスは彼らに言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。』」 マルコの福音書16章15節
<適用>
時々、「世界への挑戦」という言葉を耳にします。野球でもサッカーでも多くの日本人選手が世界で活躍しています。スポーツ選手だけではなく、多くの分野で活躍している方々がおられます。その中に「蚊に刺されなくする方法」を科学的に証明した方(田上さん)がおられます。田上さんは、高校生の時に妹さんが蚊に刺されやすいということで、どうして蚊に刺される人と刺されない人がいるのか気になり研究を始めたのだそうです。彼は、数年かけて「足に棲む菌の種類の多い人ほど刺されやすい」ということを突き止めます。そして足を洗浄し菌を洗い流すことによって刺されにくくなるという事を発見しました。私も蚊に刺されやすいので、足の洗浄をしたいと思います。田上さんは、2023年の情報ですが、オックスフォード大学で研究をしていたそうです。一つの疑問が、世界で研究する道を生み出していきました。
福音が世界へ広がっていく時、そこには何があったのでしょうか。
Ⅰ;小さな一歩
初代教会の信徒たちの小さな一歩で、イエス様の十字架による救いの福音が世界へ宣べ伝えられることとなりました。その小さな一歩とは、エルサレムから散らされた人たちによるギリシャ人への福音宣教でした。ステパノの殉教以降、エルサレム教会の信徒たちは、地方に散らされていきます。彼らは、移動する先々で福音を伝えるのですが、その相手は同じユダヤ人でした。
ところがアンティオキアに来た信徒たちは、ギリシャ語を話す人たちにも伝道し始めたのです。使徒11章20節の「ギリシャ語を話す人たち」と訳されている言葉は、これまで「ギリシャ人」と訳されてきました。ですからアンティオキアでは、ギリシャ語を話すユダヤ人たち、そしてギリシャ人たちに福音が語られたことになります。このように宣教を始めたのは、「キプロス人とクレネ人」と言われています。彼らは、その地域に唯一の救い主イエス様のことを知らない人たちがいるから、当然のように声をかけ福音を語ったのだと思います。この行動は、自然発生的なことだったように思います。そして聖霊なる神様の御手があったので、聞いていた人たちはイエス様を信じる信仰に導かれ、アンティオキア教会が誕生しました。
このアンティオキアの出来事と前後するでしょうか、時間的にはどちらが先だったのかは分かりませんが、エルサレムではある問題が起こっていました。それは、エルサレム教会のリーダーのペテロが、ローマ人であるコルネリウスの家に行ったという問題です(使徒10章~11章18節)。エルサレムに戻ったペテロは、「あなたは割礼を受けていない者たちのところに行って、彼らと一緒に食事をした。 (3)」と非難されました。これに対してペテロは、自分が経験した出来事について順を追って話をします。本当に素晴らしいことが起こっています。私たちは、先週そのことを学びました。ペテロは結論として、「ですから、神が、私たちが主イエス・キリストを信じたときに私たちに下さったのと同じ賜物(聖霊)を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが、神がなさることを妨げることができるでしょうか。」と神様のみわざであることを証言しました。これを聞いたエルサレム教会の人々は、「それでは神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ(18)」と言って神をほめたたえました。
このような問題がエルサレムで論じられている状況の中で、アンティオキアで異邦人教会が誕生することとなりました。その知らせを聞いたエルサレム教会は、バルナバをアンティオキアに派遣しました。それは、アンティオキアで起きている出来事を確認し、信仰に入った人たちを励ますためです。バルナバは、キプロス出身ですからアンティオキア教会を励ますのに適任者だと言えます。バルナバは、神様の恵みのみわざを見て喜び、教会を励ましました。それだけではなく、誕生したばかりの教会を立て上げるためにパウロ(サウロ)を捜し出してアンティオキア教会に連れてきました。二人が教会を教え導くことによってさらに多くの人々が加えられました。
こうして教会が建て上げられる中で、アンティオキアの町で一つの変化がありました。イエス様を信じる人たちが、「キリスト者」と呼ばれるようになったのです。このニックネームは、当初、軽蔑的な意味を持っていました。キリスト者(クリスチャン)と言うのは、キリスト党員・キリストの所属する者という意味合いがあります。しかし「キリスト者」という呼び名は、クリスチャンの特徴を的確に言い表しているニックネームだと思います。そして、この呼び名は、イエス様の弟子たちが自分から言い始めたものではないと言う事がポイントです。アンティオキアの町の住民たちは、イエス様を信じ、福音を伝えている人たちのことを無視することが出来なかったのです。バルナバやパウロを初めとして、アンティオキア教会のクリスチャンたちは、「あいつらは、クリスチャンだ。キリスト、キリストばかり言っている」「キリストしか知らないのか」と言わせる程、強烈な印象を与えるようになっていきました。アンティオキア教会の信徒たちは、周りの人たちが認めざるを得ない程、喜びと情熱をもってキリストについて語り、信仰を言葉でも行動でも表現していたのです。だから、周囲の人々から「彼らは、キリスト者(クリスチャン)」だと呼ばれるようになったのです。
このように呼ばれるほどの信仰をもっていたクリスチャンだから、言葉や文化の壁を乗り越え、福音を知らない人たちに宣教するという動きが出来たのだと思います。アンティオキア教会のクリスチャンたちの姿を見ていると、私たち自身の信仰の姿勢を問われるような気がします。私たちは、どれほどの情熱をもってイエス様を伝えているでしょうか。どれほどの喜びをもって証しをしているでしょうか。周りの人たちは、私たちの言葉を聞き、態度を見て、私たちがクリスチャンであることに気づくことが出来るでしょうか。私たちの周りの人たちは、私たちが自分から「私はクリスチャンです」と言わなければ、イエス様を感じることが出来ない状態になっていないでしょうか。もしそうだとしたら、私たちは、心を新たにしてイエス様の祝福と喜びと臨在に満たしていただく必要があります。
アンティオキア教会の誕生は小さな一歩から始まりましたが、それは実に大きな一歩を生み出すこととなりました。
Ⅱ;神様の導きとみわざ
福音が世界へ広がっていくのは、まさに聖霊なる神様の導きとみわざの連続でした。アンティオキア教会は、バルナバとパウロによって導かれ、急成長をしました。またアンティオキア教会では、さらに指導的立場の人が3人加えられました。「ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン(13:1)」です。「ニゲル」はラテン語で「黒い肌」と言う意味ですから、恐らくアフリカ出身の人だったと思われます。「クレネ人ルキオ」も北アフリカ出身です。「領主ヘロデの乳兄弟マナエン」は、ヘロデと一緒に養育された人物だと思われます。バルナバとパウロを含めてこの5人が教会での奉仕に当たっていました。この5人を見てもアンティオキア教会の特徴を知ることが出来ます。先ほどそれぞれの出身地を説明しましたが、彼らは、バラバラの出身地で、育った環境も文化も肌の色も違いました。さらにマナエンは、ヘロデの乳兄弟というのです。このヘロデは、バプテスマのヨハネを処刑し、イエス様を尋問したヘロデのことです。マナエンは、ユダヤ人にとって、そして教会にとっても宿敵とも言えるヘロデに匹敵する身分や地位を持っていたと言うことになります。それに加えてクリスチャンへの迫害の先頭に立っていたパウロがいるのです。そのほかアンティオキアの教会には様々な環境にあった人たちが集まっていたと想像できます。けれども彼らは、身分、人種、文化の違いを乗り越えて心を一つにして、信仰の一致を持っていたのです。パウロがローマの手紙(12:16)やピリピ人への手紙(2:2)などで、信仰の一致を勧めているのは、このアンティオキア教会での経験から学んだクリスチャンの姿なのかもしれません。
アンティオキア教会の特徴は、まさに神様によって救われた者が主によって集まると言う信仰共同体だったということです。この姿は、私たちにも大切なことを教えています。私たちは、神様によって救われ、信仰によって主のもとに集まる一人一人であり、神様に愛されているお互いであるということです。ですから私たちは、お互いを励まし合い、助け合い、祈り合って歩むことが出来るのです。
こう言う訳でアンティオキア教会は、聖霊なる神様の導きの中で、すでに世界宣教への備えが出来ていたと言えるでしょう。そこに神様の御手のわざがありました。アンティオキア教会に集まるクリスチャンたちが共に集まり主を礼拝し断食の祈りをしている時に「聖霊が『さあ、わたしのためにバルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい(13:2)。』」と言われました。教会は、聖霊によって示された時、躊躇しないでバルナバとパウロを断食と祈りをもって按手によって、喜んで送り出すのです。こうして、世界宣教はスタートしました。もしかしたらアンティオキア教会は、多くの地での宣教を祈っていたかもしれません。けれどもその実行は、人が発案し、計画したものではなく、聖霊によって示されたことでした。
アンティオキア教会を導き、ご自身のみわざを行われた神様は、今も私たちの教会を導きご自身のみわざを現してくださいます。この聖霊なる神様の御声を聞き、歩むために必要なことは、礼拝と祈りです。アンティオキア教会は礼拝と共に断食をしていました。聖書では、断食はしばしば祈りと共に記されています。その断食は、祈りに集中し、専念するためにするものです。ですからアンティオキア教会は、神様を礼拝するために心を集中し、専念していたということになります。そしてそこには、信仰の一致が伴っていたのです。聖霊様は、心が神様にだけ向けられる時、心から礼拝が行われる時、御言葉をもって語りかけてくださいます。神様を王の王、主の主として心から礼拝し、主の御心に従おうという信仰のあるところには、神様はいつでも御心を示して導いてくださるということではないでしょうか。
私たちは主なる神様を礼拝する者として、心から神様だけを見上げて礼拝しましょう。私たちは、日々祈り心を持って主を礼拝し真実をもって主に祈りましょう。
このようにして福音が世界に伝えられ、全世界に広がりつづけています。アンティオキアで始められた神様のみわざは、今でも世界中で行われています。私たちも、私たち自身から福音が広がり、証しをすることが出来るように祈り求めましょう。聖霊なる神様は、私たちを用いてくださいます。
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。福音は、神様の導きによって世界に広がっていきました。そのきっかけは、小さな一歩でした。神様は、信仰をもって忠実に神様に従う者たち一人ひとりを用いてくださいました。今も神様は、福音宣教のためにクリスチャン一人ひとりを用いておられます。私たちは、アンティオキアでクリスチャンと呼ばれた初代教会の信仰者のように、私たちの生き方によって神様の栄光を現し、イエス様を証して歩みたいと願いします。神様、私たちが、周りの人たちに福音を証しすることが出来るように私たちを用いてください。
そして私たちを通して、教会を通して福音が広がっていくように神様の祝福を注いでください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」