<子どもたちへ>
僕は小学生の時に色々なことに挑戦しました。絵を描くことも工作をすることもそして、スポーツでも挑戦しました。小学6年生の時、地域の小学校が集まって陸上大会をすることとなりました。その時僕は、走高跳と言うのに挑戦しました。120㎝のバーを跳べれば選手になれるということでした。僕は、この条件をクリアーすることが出来て選手になりました。友だちから「赤松すごいじゃん」とほめられ、練習に気合が入りました。最終的には150cmくらいを跳ぶことが出来たと思うのですが、大会でどんな成績を残したのか記憶にありません。あまりよくなかったのだと思います。でも結果はどうであれ、僕は、友達からほめられたし、注目されたことが嬉しかったのでそれでよかったのです。人からほめられるとうれしくなるものです。でもパウロとバルナバは、人からほめられて困ったことになりました。何が起こったのでしょうか。
先週、パウロとバルナバの二人が神様のことを伝えるためにアンティオキア教会から伝道に派遣されたことを学びました。パウロとバルナバは、色々なところに行って神様のこと、イエス様の十字架の救いの福音を伝えました。
リステラと言う町でもパウロたちは、「神様は皆さんを愛しておられます。イエス様は、あなたの罪のために十字架にかかって死んでくださいました。イエス様を救い主と信じるなら罪を赦していただけます。」と神様の事やイエス様の十字架の救いについて伝えていました。
そこにパウロのお話にじっと耳を傾けて真剣に聞いている人がいました。この人は、足が不自由で生まれた時から歩いたことがなかったのです。パウロは、その人を見ながら「あの人は、ずっとこっちを見ていて、聞いてくれている。きっと神様を信じる心を持っているに違いない。神様の癒しのみわざも信じている」と感じました。そこで、パウロは、その人に「あなたは神様を信じているようですね。今、自分の足で立ち上がってみなさい。きっと歩けるようになります。」と大声で叫びました。するとどうでしょうか。声をかけられた人は、「えっ、本当ですか。私は自分で立ち上がって歩けるようになるのですか。」と答えます。「私は、神様を信じて立ち上がります。」そう言って立ち上ろうとすると、なんと立つことが出来ました。飛び上がって歩くことも出来たのです。素晴らしい神様の奇跡が行われました。
これに驚いたのは、歩けるようになった本人だけではありません。周りにいた人たちもびっくり、「おーーなんてすばらしい奇跡なのだろうか。きっとギリシャの神々が人間の姿をとってこの町に来てくださったに違いない。」と大騒ぎです。人々は、地元の言葉で騒いでいたのでパウロたちには、何を言っているのかさっぱりわかりませんでした。
「さぁ、さぁ、ゼウス様、ヘルメス様、こちらにどうぞ、あなた様は素晴らしいお方です。」人々は、ギリシャ神話のゼウス神殿の祭司を連れてきて、パウロとバルナバを神々として礼拝する準備をしたのです。ようやくパウロたちは、何が起こっているのかを知ることが出来ました。今度はパウロたちがびっくりです。「皆さん、そんなことはしないでください。これは偶像礼拝と言って、本当の神様が悲しまれることです。私たちも皆さんと同じ普通の人間です。礼拝すべきお方は、天地を造り、私たちを愛して導いてくださる創造主なる神様です。神様は、皆さんが立ち返ることを待っておられるのです。主なる神様を信じて、神様だけを礼拝してください。」と言って、パウロは人々が自分たちを礼拝することをやめさせることが出来ました。
パウロとバルナバは、人々からほめられ、神として礼拝されそうになった時、それをやめさせました。天地を造られた神様こそ礼拝されるべきお方であり、イエス様こそ救い主だからです。神様は、リステラの町の人たちが、神様を信じて立ち返ることを待っておられました。同じように今、神様は僕たちが神様を信じることを待っておられます。イエス様を救い主と信じて、神様だけを礼拝しましょう。今日の聖句を一緒に読みましょう。
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様は、リステラの人たちが信仰をもって悔い改めて立ち返ることを待っておられました。今も、神様は僕たちが神様を信じるのを待っておられることを知りました。僕たちは、神様を信じて神様だけを礼拝ます。どうか導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」
「私たちもあなたがたと同じ人間です。そして、あなたがたがこのような空しいことから離れて、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えているのです。」 使徒の働き14章15節
<適用>
私は、16歳(高1)の秋に洗礼を受けました。私の上には兄と姉がいるのですが、それぞれ高校1年生の時に洗礼を受けたのです。教会の学生たちは、ほとんど高校生で洗礼を受けていました。私は高校1年になった時点で、次は私の番と思っていました。そしてきっと牧師である父が、兄や姉に声をかけて洗礼の準備をさせたに違いないとも思っていました。実は、これは私の思い込みでした。私は、高校1年になって父がいつ声をかけるか待ちました。4月がさすがに早いから、6月くらいには呼ばれるだろうかと思ったものです。けれども7月になっても声はかかりません。私は、心の中で「あれ、声がかからない。どうしてだろう」と思いつつ、8月の高校生バイブルキャンプに参加しました。このキャンプで私は、洗礼が順番ではなく、しっかりと信仰告白をして洗礼の決心をすることが大切だと学びました。私は、講師のメッセージに応答して信仰の表明と洗礼の決心をすることが出来ました。
私は、キャンプから帰って、早速牧師である父の所に行き、洗礼を受けたいと伝えました。すると父が、「やっと来たか」と言ったのです。待っていたのは私だけではなく、父も私の決心を待っていたのです。そして今、私は、他の誰よりも神様が私の決断を待っていてくださったという事を知っています。
神様は、今も私たちを待っておられます。
Ⅰ;神様の恵みの知ることを
神様は、私たちが神様の恵みを知ることを待っておられます。パウロとバルナバが宣教したリステラの町の人たちは、神様の恵みを知りませんでした。リステラの町の人たちは、ギリシャ神話を信じ、多くの神々を信じていたと考えてよいと思います。リステラの町には、ユダヤ人たちが住んでいたようなのですが、ユダヤ人の会堂があったのかは分かりません。使徒14章8節以降のリステラでの伝道について「会堂に入って」は書かれていないので、恐らくパウロとバルナバは、人々が集まっている場所で宣教をしたという事だと思われます。
その場に座っていた一人の男性は、足が不自由で生まれた時から自分の足で歩くことが出来ませんでした。パウロが彼の心の中に「癒される信仰がある」と見たのは、御言葉に真剣に耳を傾けて聞き、信仰をもって喜んでイエス様を信じる信仰を持っていたという事です。彼の表情に神様の御力を信じ信頼するという信仰が現れていたのでしょう。パウロは、声をかけるだけでこの男性を癒しました。リステラの町の人たちは、このような奇跡を見たことがありません。彼らは、リカオニア語で「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになった」と言って町中が大騒ぎとなりました。共通語のギリシャ語ではなく、その地域の言葉を使っていることからその慌てようが分かります。
この地方には一つの伝説がありました。「昔、ギリシャの神々であるゼウスとヘルメスがお忍びでこの地方に現れたことがあったのだそうです。それとは知らない町の人々は、皆この神々には無頓着で、誰一人もてなす者がいなかったのです。その時ピレモンとバウキスという老夫婦が、二人を招き入れもてなしをしたのです。その結果、この老夫婦だけが、報いを受けることとなったのです。」このような伝説があり、リステラの町の人たちは、先祖がしたような過ちを繰り返してはいけないと思ったようです。こうして彼らは、バルナバをゼウス、パウロをヘルメスと呼び礼拝の準備をしました。
そのことを知ったパウロとバルナバは、慌てて礼拝行為を止めさせるのです。この時のパウロの弁明は、全ての人間が知るべき基本的な事柄について教えています。それは、この世には唯一のまことの神様だけが存在するという事です。最初にパウロの弁明の後半部分を見る事にしましょう。パウロは、唯一のまことの神様を知らないにしても神様は、自然の恵みによってご自身を示しておられると語りました(使徒14:17)。この世界は、神様によって創造され、神様によって支えられています。その神様は、天からの雨によって地を潤し実りの季節を与えてくださるお方です。
今は、温暖化が進み異常気象と言われ、今年も雨が少なく気温が上がり続けています。しかしもともと神様がこの世界を創造された時は、とても良かったのです。けれども人が罪を犯し神様に背を向けてしまった結果、人間だけではなく自然界もバランスを崩してしまったのです。世界中の環境が神様の憐れみを受けられるように祈りましょう。ともあれ、それでもなお私たちの世界は、神様の御手によって支えられていることは確かなことです。神様は、全ての人に太陽を昇らせ、雨を降らせてくださいます(マタイ5:45)。そして神様は、私たちに作物を与え、食べたり飲んだりすることが出来るようにしてくださり、人々の生活を支え、喜びを与えておられます。このように私たちの環境は神様の恵みで溢れているのです。それは何も食べ物だけのことではありません。私たちが経験する様々な事柄の中に神様の恵みは確かにあるのです。しかし多くの場合、この神様からの恵みに気づかないのです。なぜなら、神様に期待する心を持たないからです。あなたは、日常に溢れている神様からの恵みに気づいていますか。神様は、恵みを知ってもらいたいと待っておられます。
Ⅱ;神様に立ち返ることを
神様は、私たちが神様に立ち返ることを待っておられます。この神様の思いを知っているからこそパウロとバルナバは、自分たちが礼拝されるのを断固拒否したのです。
どんなことがあっても人やものを神として礼拝してはいけないのです。そのようなことは、まことの神様の御名を汚し、冒涜することになるからです。だからパウロたちは、「私たちもあなたがたと同じ人間です。」と言いその行為をやめさせたのです。
同じようなことがペテロとコルネリウスの出会いの時にもありました。コルネリウスは、ペテロが家に来た時ペテロの足もとにひれ伏して拝みました。するとペテロは、「お立ちください。私も同じ人間です」と言ってそれをすぐにやめさせました(10:25-26)。ペテロも礼拝されるべきお方は、主なる神様だけであると知っていたからです。それとは正反対のことがありました。当時のユダヤの支配者であったヘロデです。ある時ヘロデは、王服を着て人々に演説をしました。集まっていた会衆は、「神の声だ、人間の声ではない」とヘロデを称賛しました。ヘロデは、群衆が自分を称えていることを喜び、神様に栄光をお返ししなかったのです。その結果、その場でヘロデは神様に打たれて息絶えたのです(使徒12:20-23)。人は、自分たちよりも優れた人、物(石や木など)を拝みたくなるものです。それは、そのような礼拝によって信仰の対象を持ち、安心したい、自分を慰めたいという思いがあるからです。
私は小学生の時、泥団子作りにはまったことがありました。粘土質の土を水で湿らせて丸くまとめ、砂をかけて磨いていくのです。磨いては乾かし、磨いては乾かしを繰り返して数日かけて作業します。するときれいな、輝きをもった泥団子が完成するのです。私は、2~3個の泥団子を作り、誰にも見つからないように隠しました。学校から帰るとまず、自分で作った泥団子を眺めます。この時点でおかしいですよね。その内、泥団子がそこにあるだけで安心して、挨拶までするようになってしまうのです。これって偶像礼拝の入り口のようなことです。私は、神様に守れていたのだと思います。なんか違うと感じてすぐに泥団子を壊したのを覚えています。私たちの周りには、神様の恵みが溢れていますが、偶像礼拝の要素も溢れています。本当に気をつけなくてはいけないことです。
パウロは、偶像礼拝が「空しいこと(14:15)」と言いました。詩篇135篇15-18節では、「異邦の民の偶像は銀や金。人の手のわざにすぎない。口があっても語れず 目があっても見えない。耳があっても聞こえず また その口には息がない。これを造る者も これに信頼する者もみな これと同じ」と言われています。偶像は、人間が造ったものです。その材料は、木や石、金や銀などです。このように造られたものを神とするのも人です。人が造ったものにどんな力があるのでしょうか。
聖書は、神が人間を創造したと教えています。人が神を造るのではありません。神が人間を創造したのです。パウロは、空しい偶像礼拝から唯一のまことの神様を信じて、イエス様の十字架の救いを受けてほしいと願い宣教をしていることを語りました。パウロとバルナバの願いは、一人でも多くの人が、偶像礼拝から離れて、天地の造り主であり神様を信じて立ち返ることです。これは、神様ご自身の熱い願いでもあります。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます(Ⅰテモテ2:4)」
神様は、私たちが神様を信じて悔い改めて神様に立ち返ることを待っておられます。すでに神様を信じてイエス様の十字架の救いを受けている人は、さらに私たちの心が主なる神様に向けられ、日々信仰の目を主に向けて歩む決断をしましょう。
まだ信仰が明確になっていない人にお勧めします。あなたは、神様なしの空しい偶像礼拝を続けますか。私たちを造り、私たちに命を与え導き、平安を与えることの出来る主なる神様を信じ悔い改めて立ち返り、主なる神様を礼拝する歩みを始めませんか。神様は、あなたが立ち返ることを待っておられます。
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様は、リステラの人たちが立ち返るのを待っておられました。同じように今、神様は私たちが、罪を悔い改め主に立ち返ることを待っておられることを知りました。神様、私たちはあなたを信じます。私の罪をお赦しください。私たちは、神様に立ち返って神様だけを礼拝します。どうか私たちの歩みを祝福し導いてください。神様、私たちが日々あなたの恵みに気づき知ることが出来るように助け導いてください。
先週大きな地震があり、被害が出ています。被害を受けた地域に神様の憐れみをお与えください。世界中に神様の平和と憐れみが満ち溢れますようにお願いします。
この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」