2025年8月31日(日)礼拝説教 列王記第一18章16-24節 「信じよう主こそ神」 説教者:赤松勇二、CS説教:赤松由里子師

<子どもたちへ>
 今日で夏休みが終わりますね。熱い暑い夏でした。雨もずーっとふらなくて、畑のお野菜や山の木も枯れたりしているようです。私たち人間にはどうしようもないことってありますね。
 聖書には、3年も雨がふらないことがあったと書かれています。実は、イスラエルの人たちが偽物の神さまを拝むようになったので、本当の神さまが悲しんで雨が降らなくなっていたのです。その時起こったすごい出来事が今日のお話です。

 この怖い顔をしている人、この人がイスラエルの王様、アハブです。「わしはバアルの神さまを拝むことにしたぞ!」そう言って、ダビデ王さまやソロモン王さまの信じて来た、天と地、生き物、人間を造られた神様に逆らっていました。
 こちらの人は預言者のエリヤです。預言者とは神様のことばを伝える人のことです。神様が言われました。「エリヤよ、アハブ王のところに行って、わたしのことばを伝えなさい。」そこでエリヤは王様のところに出かけていきました。
 「王様、この国が困っているのはあなたが本当の神さまを捨てたからです」。そう言われて、アハブ王は怒り出しました。エリヤは言いました。「王様、バアルの預言者たちを集めて下さい。カルメル山の上で、どちらが本当の神なのか、はっきりさせましょう!」アハブ王は国中に知らせを出して、預言者たちをカルメル山に集めました。

 偽物の神さまの預言者は何百人もいます。それに対して本当の神様の預言者はエリヤだけです。たくさんの人が様子を見に集まってきました。エリヤは言いました。「あなたたちはどちらが本当の神様だと思っているのですか?はっきりさせなさい」。でも誰も何も答えません。
 山の上では2つの祭壇(さいだん)が用意されました。祭壇というのは、神様へのささげものをのせる台です。そこに大きな牛が持ってこられ、たきぎの上にのせられました。
 バアル用に牛1頭と、エリヤの神様用に1頭です。エリヤは言いました。「この祭壇の上に、天から火を降らせる方こそ、本物の神様だ」。
 まずはバアルの預言者たちの番です。「バアル様!私たちに答えて下さい。火をふらせて下さい!」そうバアルにお祈りしました。でも何も起こりません。そこで踊ってみたり、刃物を出して体を傷つけながら大声で呼びました。朝から始めてもうお昼すぎです。でも何も起こりません。

 つぎはエリヤの番です。エリヤはまず言いました。「大きな入れ物に水をたくさん入れて、ささげものにザブザブかけなさい」。3回もそうさせたので、お水はたきぎにもまわりにもあふれました。それから目を閉じてこう祈りました。「先祖たちが信じて来た本当の神様、あなただけが神様です。そしてわたしはあなたのことばを確かに伝えるあなたの預言者です。イスラエルの人たちが、あなたこそ神だとはっきりわかりますように。」続けてこう祈りました。今日のみことばです。「主よ、私に答えて下さい」。するとその時です。天から火が降ってきて、ささげものも祭壇も水も全部焼き尽くしました。エリヤの神様が答えて下さったのです。人々はびっくりしてひれ伏しました。「エリヤの神様こそ本当の神様です!」
 この後エリヤが7回お祈りすると、遠くの方に小さな雲が見えてきました。しばらくすると黒い雲と風が起きて、大雨が降り出しました。神様が雨を降らせて下さったのですね。

 皆さん、今日のみことばをどう思うでしょうか。私たちは本当だったら神様に話しかけるなんて、できない存在です。でも神様はお祈りすることを喜んで耳を傾けてくださいます。そしてエリヤのように「私に答えてください」と思い切ってお願いすることが許されています。もちろん、わがままや悪いことをお願いするのは間違っています。でも神様を信じる心でするお祈りを、神様は聞いて下さいます。私たちも心から信じて祈る人になりましょう。

<祈り>
 「天の父なる神様。今日も礼拝に来ることが出来てありがとうございます。天から火を降らせることができ、雨も降らせることも出来るのは、本物の神様あなただけだと知りました。答えてもらえることを信じて祈る人になれますように。そして神様が確かに生きて働いておられることが、はっきりわかるように、わたしたちをお導き下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」

「私に答えてください。主よ。私に答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたこそ神であり、あなたが彼らの心を翻してくださったことを知るでしょう。」 
                                   列王記第一18章37節

<適用>
 今年の夏は、とても暑い夏となりました。気温が38度から40度となることが珍しくはない気候になってしまいました。こよみではすでに秋となっていますので、今は残暑ということなのでしょう。最近では気象予報の精度が良くなりましたが、突然のゲリラ豪雨がいつどこで降るのか予測が出来ません。天気予報を信じて傘を持たずに家を出たけれど、外出先で突然の雷雨となり、慌てることとがあります。鞄に折り畳み傘を入れていたはずが、以前には入れていけれど、今は入っていないという事があったりします。
 私たちは、エリヤが言うように「主こそ神」と信じて日々歩むことが出来ます。

Ⅰ;日々の生活の中で

 私たちは、日々の生活の中で「主こそ神」と信仰告白をして歩みましょう。
 今日は、列王記第一18章を開きました。この18章に書かれていることは、16章28節から登場する北イスラエル王国のアハブ王の歩みと関係があります。アハブは、どのような王様だったかというと「オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行った。彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった(Ⅰ列王記16:30-31)。」とある通りです。アハブは、主なる神様を信じて歩むことをせず、神様の御言葉に心を向けることもせず、神様を礼拝するよりも、偶像の神々バアルやアシェラを礼拝し、仕えるのです。彼は、積極的に偶像礼拝を行い、主なる神様の怒りを引き起こすことを行っていきました。またアハブの妻イゼベルは、主の預言者を迫害し処刑するのです。アハブは、そのことについて何もしていないので、容認していたということです。

 このことに対し神様は、干ばつと飢饉という裁きをくださいます。エリヤは、アハブに対して「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間は、露も降りず、雨も降らない(Ⅰ列王記17:1)」と警告します。実際に雨が降らず干ばつとなり飢饉がやってきて、エリヤが神様の預言者であり、干ばつが神様の裁きであることが証明されたのですが、アハブは神様に立ち返ることをしませんでした。アハブがしたことは、国民のために水や牧草地を見つけることではありませんでした。彼は、水と牧草地を求めましたが、それは、軍馬のため、自分の家畜を養うためでした。アハブは、苦境に立っても、自分の罪や心の思いを考える事をせず、悔い改めて神様を求めることがありませんでした。
 数年の後(3年6か月/ルカ4:25)、エリヤは神様の導きを受けて、アハブ王に会う事となりました。この時の仲介者がオバデヤです。このオバデヤと言う人は、アハブ王の側近(宮廷長官)として仕えていましたが、神様を恐れ敬う信仰の人でした。王妃イゼベルが、主の預言者を迫害し殺害する時、オバデヤは危険を顧みず、主の預言者を100人も助け守ったのです。このように信仰に熱心な人がいても、アハブは主を信じようとはしませんでした。オバデヤは、アハブ王のしていることを間近で見ていて、心を痛めていたのではないでしょうか。オバデヤが主の預言者をかくまうには、相当な勇気が必要だったと思います。けれどもオバデヤは、いつも主を見上げていたので、神様からの励ましと勇気を与えられて行動する事が出来ました。

 私が小中学生の時、学校で遠足や旅行などに行く時、必ず神社やお寺がルートに入っていました。そこに行くと、多くの場合「お参り」がセットになっているのです。私は、どうして個人的な行動にしてくれないのだろうかと思ったものです。私は、皆が頭を下げてお辞儀をしても、ずっと立たままでいました。クラスの担任や友達は、私が牧師の子どもであり、クリスチャンである事を知っていました。それでも偶像礼拝を避けるために、皆と違う行動をとることは勇気が必要でした。私は、神様に力を与えてください、守ってくださいと祈り心をもって行動をしていた事を覚えています。感謝な事に神様は、私の行動を用いてくださいました。友だちは、私がクリスチャンであることをより意識してくれたし、聖書の神様を意識してくれるようになりました。そのために必要な信仰の戦いだったと思います。

 皆さんも、地域や会社などで行われる、仏事や神事があるでしょうか。そのような時にクリスチャンとしてどのように行動するべきか迷うかもしれません。それだけではなく、私たちは、いつ試練に直面するのか分かりません。私たちは、突然、心が揺れ動く不安な出来事を経験するものです。そのような時に私たちの日々の生活の仕方が問われます。オバデヤは、アハブ王の側近であるけれども、「主こそ神」という信仰をもって行動していたのではないかと思います。私たちも、普段から聖書を読み、教えられ、御言葉を心に留め、神様から知恵を与えていただきましょう。その一歩一歩が「主こそ神」という信仰を私たちの心に養い育てていきます。

Ⅱ;確信をもって祈る

 私たちは、「主こそ神」と言う信仰の確信をもって祈りましょう。なぜならば、主なる神様は、私たちをご覧になり、私たちの祈りに耳を傾け、答えてくださるお方だからです。
 エリヤは、アハブに一つの提案をしました。それは、カルメル山でいけにえを捧げた時、天からの火をもって答えるお方がほんとうの神であるというものでした。この時エリヤは、アハブを始めイスラエルの人々に、「主に従うのか、バアルに従うのか」といつまでどっちつかずの生き方をしているのかと問い詰めました(Ⅰ列王記18:21)。これは、人間が作った何も出来ない偶像を礼拝し続けるのか、それとも天地を造られ、私たちを愛し導いてくださる、まことの神を礼拝するのかどちらを選ぶのかという信仰の決心の問いかけでもありました。人々は、エリヤの問いかけ(神様からの問いかけ)に、一言も答えませんでした。

 まず、バアルの預言者から始めます。彼らはいけにえを祭壇の上に乗せ、朝から昼まで祈り続けます。しかし何も起こらず、そのうちに彼らは踊り始めました。それでも何も変化がありません。27節のエリヤの言葉は、偶像礼拝に対する痛烈な非難ですが、人々はそれでも心を変えようとしないのです。するとバアルの預言者は自分たちの体を傷つけて祈りだしますが、やはり何も起こりませんでした。それもそのはずです。人々は、エリヤが痛烈に非難したように、存在しない、何もできない偶像の神に祈りをささげているのです。祈る対象が空しいものであるなら、その答えもまた空しいのです。
 ここにきて、人々の目はエリヤに向けられることとなります。いよいよエリヤが動きました。Ⅰ列王記18章30節には、「壊れていた主の祭壇を築き直した。」とあります。これは、北イスラエルでは、主なる神様への礼拝がなおざりになっていて、主の祭壇が見向きもされなかったという事なのです。それだけ人々の神様への信仰が失われていたことを意味しているのです。エリヤは、祭壇を築き直し、周囲には溝を掘り、いけにえを祭壇の上に乗せました。そしてエリヤは、祭壇のすべてに水をかけるように指示しました。すべてが水浸しになったという事は、人間の力の入り込む余地がなく、誰の目にも火がつくなど不可能と思える状況にしたということです。

 ささげ物の時間となった時、エリヤは祈りました。バアルの預言者と比べると、短い祈りです。エリヤは、「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのおことばによって私がこれらすべてのことを行ったということが、今日、明かになりますように。私に答えてください。主よ。私に答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたこそ神であり、あなたが彼らの心を翻してくださったことを知るでしょう。(1列王18:36‐37)」と祈りました。このエリヤの祈りに対して天からの答えがありました。主の火が降って来て、一瞬にしてすべてを焼き尽くしてしまったのです。人々は、主なる神様の力強いみわざを見て、ひれ伏し「主こそ神です。主こそ神です(39)」と礼拝するのです。
 エリヤはバアルの預言者を滅ぼし、アハブに雨が降ることを宣言します。そしてエリヤが祈るとなんと雨が降り出しました。

 私たちは、「主こそ神です。(39)」の告白を自分の心からの告白として宣言しましょう。この地のすべてを造り、人間を造られた創造主なる神様こそ、まことの神様です。そして神様は、今も力あるみわざを行い、私たちを導くお方です。なぜならば、私たちの信じ信頼する主なる神様は、生きておられるからです(Ⅰ列王記17:1)。エリヤは神様を信じて疑わず、信仰を持って祈りました。それに神様はお答えになられたのです。
 エリヤは、イスラエルの民に「あなたがたは、いつまでどっちつかずでいるのですか」と問いかけ迫りました。エリヤは、今この瞬間も私たちに問いかけているのではないでしょうか。私たちは、どのように答えるでしょうか。あなたの信じているものは、本当に信頼できるものでしょうか。
 聖書は、私たちに心から信頼し、すべてを任せることが出来るお方、永遠に生きておられる創造主なる神がおられることを教えています。私たちの毎日の生活は、創造主なる神様のみわざで溢れています。ですから、私たちは、いつでも確信をもって祈ることが出来るのです。私たちは、家族のために、友人たちのために、彼らがまことの主なる神様を知ることが出来るように祈りましょう。神様は、私たち一人ひとりにご計画をもっておられます。神様の私たちへの計画は、神様ご自身がおられることを明らかにするものとなります。私たちは、主こそ神と信じて、祈り続けましょう。主は必ず答えを示してくださいます。

<祈り>
 「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。オバデヤは、主こそ神と信じて従いとおしました。神様、あなたは今も生きていて私たちを助け、導いてくださることを信じます。エリヤは、主こそ神であることが明らかになることを願い、信仰をもって祈りました。神様は、エリアの祈りに答えて火をもってお答えになりました。神様、あなたは今も私たちの祈りを聞き、答え、みわざを行ってくださることを信じます。
 私たちは、「主こそ神」と信じて告白して歩みます。私たちの日々の歩みを祝福し、導いてください。この祈りを、私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」