<子どもたちへ>
小学校では、来月に運動会がありますね。そろそろ練習が始まるでしょうか。運動会の種目には、短距離走のような個人種目とクラスや学年で協力する団体種目がありますよね。そのような種目の練習だけではなく、自分が入っているチーム(赤団か青団)の応援の練習もするでしょう。その応援の言葉は、きっと聞く人を勇気づけ励ますものとなることでしょう。運動会が楽しいものとなるようにお祈りしています。
今日は、ナアマン将軍という人に注目しましょう。預言者エリヤの後を継いでエリシャが北イスラエル王国で預言者の働きをしていた時です。北イスラエル王国の隣の国アラムにナアマンという将軍がいました。
ナアマン将軍は、人々から尊敬され、王様にも信頼されている人でした。けれどもナアマンには、とても重い病気という大きな問題がありました。ナアマンは、体の皮膚にできた病気を治すためにいろいろな手を尽くしたと思いますが、治すことが出来ませんでした。
それを見ていたひとりの少女が、ナアマンの奥さんに「ご主人がイスラエルの預言者のところに行ったらきっと治ると思うのですが」と言いました。この少女は、イスラエルから捕らえられ、ナアマンの妻に仕えていたしもべでした。これを聞いた妻は、「本当に、そんなに素晴らしい預言者がいるのだったら、すぐにお知らせしなくては」と、ナアマン将軍に伝えました。するとナアマンは、アラムの王様に「王様、イスラエルから捕虜として連れてきていたしもべが、イスラエルに私の病を治すことが出来る預言者がいると伝えてくれました。すぐにでも行きたいのですが、よろしいでしょうか。」と願い出ました。アラムの王様は、「そうか分かった、イスラエルの王に手紙を書くから、すぐに行って来なさい。」と言って手紙を書いて、ナアマンを送り出しました。
ナアマン将軍は、北イスラエル王国に行って、イスラエルの王に手紙を渡しました。その手紙には、ナアマンを治してもらいたいと書かれていました。これを読んだイスラエルの王は、「私に病気を治す力などない、そんなこと出来るわけがない」と言って怒り出しました。これを聞いたエリシャは、ナアマンを自分のところによこしてくださいと伝えました。いよいよナアマンは、預言者と会う事が出来て癒してもらう事が出来ます。ナアマンは、「これから預言者は何をしてくれるのだろうか」とワクワク、ドキドキしながら預言者の家に向かった事でしょう。しかしエリシャは、ナアマンに会うことなく「ヨルダン川に行って7回体を洗いなさい」と伝えるだけでした。
ナアマンは、怒り出しました。「なんだ、あの預言者は。私は、預言者が自分の体に手をかざして、ありがたい呪文を唱えて、奇跡を起こしてくれるだろうと思っていたのに、ヨルダン川で体を洗えだと。しかも顔を出すことなく伝言だけだなんて、信じられん。」、「川で洗うなら、アラムにも素晴らし川があるじゃないか。どうしてイスラエルのヨルダン川に入らなければならないのか」。」ナアマンは、「もう帰る!!」と言って帰ろうとしました。
その時です。一緒に行っていた家来が「将軍、一言よろしいでしょうか。預言者が何か難しいことを言ったら、あなたはそれにチャレンジしたのではないしょうか。預言者は、川に入って体を洗えと簡単なことを言っただけです。試してみてはいかがでしょうか。」と言いました。
今日は、敬老を覚えての礼拝となっています。ナアマンの奥さんに仕えていた一人の少女とナアマンに仕えていた家来たちは、ナアマン将軍のためにと考えていました。皆さんのおじいちゃん、おばあちゃんは、皆の事をいつも考えてくれています。だから皆も、おじいちゃん、おばあちゃんを大切にしましょう。そしておじいちゃんやおばあちゃんのために祈りましょう。
さて、ナアマンは、家来に言われて冷静に考えて「それもそうだな。預言者エリシャの言葉に従ってみよう」と、ヨルダン川に入りました。体を水に沈ませて1回目、何も変化がありません。2回目、3日目、こうしてナアマンは、7回体を浸して洗いました。するとどうでしょうか。「おーー。治っている。治っているぞ」とナアマンは感動しました。
ナアマンは、イスラエルに主なる神の預言者がいることを知りました。それだけではなく、ナアマンは、主なるまことの神様を信じる信仰に導かれたのです。ナアマンは、エリシャによって語られて神様の言葉を信じて従いました。その結果、ナアマンは病気が癒され、神様の祝福を受けることが出来たのです。神様は、聖書の御言葉を通して僕たちに語りかけてくださっています。僕たちは、神様の言葉を素直に受け入れましょう。神様の御言葉は、僕たちのたましいを救うことが出来るのです。神様の御言葉は、僕たち一人ひとりにたくさんの恵みを与えてくれます。今日の聖句を読みましょう。「心に植え付けられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」ヤコブの手紙1章21節
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。ナアマンは、神様の御言葉に素直に聞き従った時、病気が癒されました。そして神様を信じる信仰に導かれました。僕たちも神様の御言葉を素直に受け入れ信じます。たましいを救うことが出来る神様の御言葉を信じて従います。神様、僕たちを導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」
「心に植え付けられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」 ヤコブの手紙1章21節
<適用>
私は、小学生の時に絵を描くことが好きでした。ある時、一つのポスターを描いて応募することにしました。私は、その絵の中に畳を描いたのです。ほかにもいろいろ書いたのですが、畳の面積が広くなりました。いざ色塗りに入った時、私は、畳の部分を黄緑と黄土色の混ざったような色で塗り始めました。すると父がそれを見ていて、「勇二、畳はただ塗るだけだとだめだよ。畳をよく見てごらん、色が違うだろう」と教えてくれました。父は、畳を一色でベッタと塗るのではなく、イ草の色合いを表現したほうが良いということでした。私もそれはわかっていたのですが、大変なのでベッタと塗ろうとしたのです。しかし私は、父に言われて、「確かにそうだ」と思い、畳の塗り方をイ草一本一本の風合いを出すように変えました。当然色も変えながら塗りました。やってみたらそれほど大変ではないのです。それはそのはずです。畳の色は基本的に同じですから、色を変える時にも同じ筆で出来るのです。畳の模様を塗るというのは時間がかかりましたが、父のアドバイスによって、そのポスターは良い評価を得ることが出来ました。
ナアマンは、エリシャの言葉に従いました。それはナアマンが神様の言葉を受入れ信じたということです。そしてナアマンは、神様の御言葉を受け入れたことで、たましいにも救いを得ることが出来たのです。
Ⅰ;神様は生きておられる
神様の御言葉は、私たちの魂を救うことが出来ます。なぜならば、私たちの神様は生きておられるからです。
ナアマンは、最初から神様の言葉を受け入れたわけではありませんでした。ナアマンは、エリシャに仕えているしもべによって伝えられたエリシャの言葉に対して否定的な思いを持っていました。この否定的な感情は、エリシャを通して語っておられる神様を否定しいるという事になります。ナアマンは、何故エリシャの言葉に激怒したのでしょうか。ナアマンは、アラムの将軍がせっかく、イスラエルに来ているのだから、快く出迎えてくれるだろうと考えていたのです(Ⅱ列王記5:11-12)。さらにナアマンは、エリシャが出て来て、儀式的な事を行い世にも不思議な奇跡を起こしてくれるだろうと考えていました。しかしエリシャは、顔を出さないどころか、ヨルダン川で体を洗いなさいと言うのです。ナアマンは、自分の考えていた方法とあまりにも違うので、エリシャによって伝えられた神様の方法を受け入れることが出来なかったのです。ナアマンは、神様の方法よりも自分の考えた方法を優先していたのです。ナアマンは、自分の意に沿わないことを言われて、激怒して従うことが出来ませんでした。
気をつけていないと私たちも同じようなことをしています。私たちは、ちょっと難しいこと、人には出来ないことを言われると挑戦したくなるものです。でも簡単なこととなると、それはしなくても出来ると決め込んで挑戦することはありません。また、自分の考えの通りでないと気が進まないことがあります。また、人にアドバイスを求めつつ、そのアドバイスを聞かないという事があるでしょうか。信仰においてもそうです。私たちは、神様に祈ります。でも神様に祈りながら、神様からの答えよりも自分自身の答えを持っていることがあります。だから神様の答えが自分の考えた事と違う時に、「この神様の導きは間違っている。それには従うことが出来ない」と神様の答えや導きを素直に受け入れることが出来ないのです。しかしそれでは正しく神様の御心を知ることは出来ません。
ナアマンに求められたことそれは、神様の言葉を素直に受け入れるということでした。ナアマンは、自分の家来に促されてエリシャの言葉に従うことにしました。その結果、ナアマンの体は癒されたのです。感謝に溢れるナアマンにエリシャは「私が仕えている主は生きておられる」と答えました。エリシャは、ここで大切なことをナアマンに告げるのです。それは、エリシャが顔を見せなかった理由でもあります。癒しのわざは、人のわざではなく、今も生きておらえる主なる神様のわざなのです。主なる神様の言葉は、生きて働き、私たちの心、私たちの人生を照らすまことの光です。
私たちが持っている聖書は、生きておられる主なるまことの神様の言葉です。この神様の御言葉は、私たちの魂を救い、私たちに平安と祝福を与えるものです。素直に受け入れていきましょう。
Ⅱ;心を開いて素直に受け入れましょう
神様の御言葉は、魂を救うことが出来ます。私たちは、心を開いて素直に受け入れましょう。
エリシャは、イスラエルの王がアラムの王の手紙を読んで驚き衣を引き裂いたことを知りました。そしてエリシャは、ナアマンを自分のところによこすようにと言いました。その言葉の中でエリシャは、「そうすれば、彼は(ナアマンは)イスラエルに預言者がいることを知るでしょう(Ⅱ列王記5:8)」と言っています。これは、この国に主の預言者がいることを知るという事であり、イスラエルの主なる神様こそ、まことの神だと知るようになるという事なのです。この言葉の通りにナアマンは、イスラエルに主の預言者がいることを知りました。それだけではなく、ナアマンは主なる神様の癒しを経験して、イスラエルの神こそ、まことの神様であると知り、信じたのです。
実は、ナアマンが主なる神様を信じるためには、何人かの人がかかわっています。その人たちは、神様の御言葉に心が開かれていたと言えるでしょう。ナアマンの家来たちも神様の言葉に期待を寄せていたと言えるかもしれませんが、一人は、ナアマンの妻のしもべとなっていたイスラエルの若い女性です。そしてもう一人は、預言者エリシャです。
ナアマンの妻に仕えていたしもべは、イスラエルに神の預言者がいることを知っていました。ヘブル語では、「預言者」の前に冠詞がついていて、この女性は、「あの預言者」とエリシャを名指ししているのです。彼女は、エリシャこそ主なる神の預言者であり、神の言葉を語り、神様がエリシャを通してみわざを行われることを信じていました。彼女は、生きて働く神の御力を信じ、預言者エリシャを信じて心から女主人に進言しました。だからこそ一人のしもべの言葉が、ナアマンの妻とナアマン本人を動かすのです。
エリシャは、どうでしょうか。もしエリシャが、自分の功績を求めていたら、きっと彼はナアマンと面会し、手をかざし祈って神の癒しを演出したことでしょう。けれどもエリシャは、ナアマンに会う事をしませんでした。なぜならば、癒しは神様のなさることであり、病をいやす方法や時は神様が定めておられるからです。エリシャは、ナアマンにそのことを知らせたかったのです。
一人の若い女性と預言者エリシャは、主なる神様を示すことが出来ました。そしてナアマンは、自分のすぐ側に主なる神を信じる人がいることを知りました。これは、とても素晴らしい事です。私たちの周りの人は、「ここに主なる神様を信じている人がいる」という事を知っているでしょうか。また家族や友達は、私たちを通して主なる神様がおられること、この方こそまことの神であり、恵みと祝福を与える方だと知ることが出来るでしょうか。
今日の礼拝は、敬老を覚えての礼拝となっています。教会には、様々な世代の人たちが集まっています。私たちは、教会の中で人生のそして信仰の先輩と出会うことが出来ます。これは実に素晴らしいことです。私たちは、高齢の方々(人生の先輩)の姿を通して実に多くの励ましを受けることが出来ています。そして皆さん(高齢の方々)が、神様を見上げ、神様を忠実に礼拝している姿を通して、私たちは生きて働かれる主なる神様だけを礼拝する大切さを知ることが出来ています。皆さんが、御言葉を受け入れている信仰の姿に教えられています。引き続き、皆様の健康が支えられ、神様の恵みが注がれるようにと祈ります。
ナアマンは、一人の女性を通して導かれ、エリシャの言葉によって主と出会い、病の癒しを受けて主を信じました。それだけではなく、ナアマンは主なる神様だけを礼拝する礼拝者にもなりました。ナアマンは、イスラエルの土を持ち帰りたいとエリシャに願い出ます。それは、主なる神様への礼拝のための祭壇を作ることを意味していました。ナアマンは、今後は、天地の造り主である主なる神様以外は礼拝しないと告白するのです。彼の生き方が180度変えられた瞬間でした。しかしナアマンは、将軍としてアラムの王に付き添い、アンモンという偶像礼拝の場に出ることになります。そこで膝をかがめても、偶像を礼拝する気持ちはないという事をエリシャに伝えました。エリシャは、「安心て行きなさい。」と答えます。これは、心が神様に向いていれば、偶像礼拝をしても良いという事では決してありません。エリシャが偶像礼拝を容認したわけでもありません。ここでエリシャが言っている事は、信仰の戦いの中にあっても主の守りがあるので、安心して主なる神に信頼しないと言う励ましの言葉です。
私たちは、日本という異教の中にあって様々な場面に遭遇します。信仰を守ることに葛藤を感じ、霊的な戦いを経験することがあります。けれども私たちは、安心して主なる神様にお任せする事が出来ます。なぜなら主なる神様は、今も生きておられ力強い御腕で私たちを導いてくださるからです。そして神様の御言葉は、私たちに救いを与えるのです。私たちは、御言葉の約束をしっかり握って、心を開いて御言葉を受け入れましょう。
「心に植え付けられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」ヤコブの手紙1章21節
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。今日も神様の御前に進み出て礼拝できる恵みを感謝致します。
神様、あなたは今も生きていて御言葉によって私たちを導いてくださいます。この世界には、あなたのほかに神はいません。あなたこそ唯一の神です。私たちは、あなただけを礼拝します。そして私たちは、神様、あなたの御言葉はたましいを救うことが出来ることを信じます。私たちは、御言葉を素直に受け入れ、信じ従います。神様、私たちの歩みを導いてください。
戦争・紛争が続いている地域にあっては、速やかに戦闘行為が終りますように。世界中に神様からの平和が与えられますようにとお願い致します。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」