<子どもたちへ>
礼拝のお話に、イスラエルの預言者が何人も出てきましたね。山の上の対決で火をふらせたエリヤ。また、川の水でナアマン将軍の病気をいやしたのはエリシャ。今日はヨナと言う預言者のお話をします。預言者なのに、神様の言うことを素直にきけなかった、伝えようとしなかった変わった人です。
この人が預言者ヨナです。慌てて港に向かっていますね。「大変だ、あの船に乗らなくっちゃ。」どうしたのでしょうか?実は神様にこう言われたのです。「ヨナ、ニネベの人々は悪いことばかりしている。ニネベに行って私のことばを伝えなさい。」ヨナはニネベが大嫌いでした。「あんな外国の悪い町に行きたくないよ。神様の罰を受けたらいいんだ」。そう思って、遠くタルシシュに行く船に乗り込んで神様から逃げ出しました。ほっとすると寝てしまいました。
するとどうでしょう。強い風が吹きつけて雨が降り出しました。嵐です。ザブーン、サバーンと波が打ち付けて、船が沈みそうになりました。「おい、起きろ!お前の神様にお祈りしなきゃだめじゃないか!」船長に起こされて、ヨナは自分のせいだと気づきました。「わたしは神様から逃げている途中です。私のせいでこの嵐が起きたのです。私を海に投げ込んで下さい」。船乗りたちは仕方なく、ヨナを海に投げ込みました。すると嵐はやんで海は静かになりました。
ヨナはどうなったでしょうか?ブクブクブク…海の底まで沈んでしまいました。苦しくなったヨナは、神様に祈りました。
「神様ごめんなさい、助けて下さい」。するとその時、大きな魚が近づいてきて、ヨナをごくん、と呑み込んだのです。ヨナは食べられてしまったのかな?いいえ、この魚は神様から送られたもので、ヨナはお腹の中で息が出来たのです。そして魚のお腹の中でお祈りしました。「神様、助けて下さってありがとうございます。これからは神様に従います。」魚は三日三晩たつと、ヨナを陸地に吐き出しました。
ヨナはニネベの町に行って大声で言いました。「みなさん、あなた方が悪いことばかりしているので、神様はこの町を滅ぼされます!」ニネベの王様にもこのことが知らされました。なんと、王様はすなおにヨナの言葉をきいて悔い改めました。そして神様に赦してもらおうと、食べたり飲んだりしないで、国全体で神様にお祈りしました。それで神様はニネベを赦すことにしました。
良かった、よかった…そうなるかと思いきや、腹をたてて怒っている人がいます。そう、ヨナです。「神様、あんな悪い人たちを赦すなんてあんまりです。だからニネベに行くのは嫌だったのです。あなたは優しすぎます!」
神様に文句をいうヨナのために、神様はとうごまという一本の植物を生えさせました。葉っぱが茂ってその下にいると涼しいので、ヨナはとうごまがとても気に入りました。けれど、神様は一匹の虫も送ってとうごまをかませたので、とうごまは枯れてしまいました。ヨナは怒って言いました。「ああ暑い、私をこんな目にあわせるなんて、これじゃ死んだ方がましです!」。
文句ばかり言うヨナに神様は静かにおっしゃいました。「ヨナよ、あなたは自分で育てたわけでもないのにとうごまが枯れたことを惜しんでいる。ニネベの人が滅びてしまったら、わたしはもっと悲しいのだよ」。そう言ってヨナに教えて下さいました。
今日のみことばを読みましょう。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」(Iテモテ2章4節)神様は、だれもが滅びないで救われることを願っておられます。そして私たちが神様と同じ気持ちを持つことを願っているのですね。ヨナにとってのニネベのように、苦手な人や嫌だな、と感じる相手がいるかもしれません。でも神様は私と同じようにその人のことも愛しておられます。神様の恵みをみんなが受け取っていけるように、お祈りしましょう。
<祈り>
「天の父なる神様、礼拝をすることが出来てありがとうございます。ヨナのお話から神様の広くて深い愛を知りました。あなたのような愛の心をわたしも持つことが出来ますように。そして苦手に感じる人のためにもお祈りして神様の恵みを伝えることが出来るようお導き下さい。イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。」
「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」
テモテへの手紙第一 2章4節
<適用>
ヨナ書には印象的な場面がたくさん出てきます。例えば、ヨナが海に投げ込まれる場面もそうです。また童話ピノキオに似たような場面が出てきますが、大きな魚に飲まれて嵐の海から救われた話が有名です。これもヨナ書の話が元になっているそうです。
このヨナ書ですが、神様に従わなかった預言者ヨナを、神様がどのように取り扱われたのか、を私たちに示しています。
預言者ヨナの不思議な物語には、神の愛が示されています。ヨナ書を物語として見るなら、3章までで完結してもいいはずです。しかし4章で、神様はヨナの心を取り扱い、ご自分の愛と恵みを理解させようとなさいます。今日はヨナ書4章から「恵み深くあわれみ深い神」ということを、共に教えられたく願います。
1.心のギャップを取り扱われる神
1~2節には、ヨナが怒りを発したとあります。「恵み深くあわれみ深い神」というのが怒りの理由になるというのです。なんと滅茶苦茶な理由でしょうか。
しかし神様はニネベの悔い改めを喜んでおられました。同じ事実を見ているのに、神様は喜んで、ヨナは怒っている。神様と自分、その心のギャップがここにあります。4節「ですから、主よ、どうか今、私のいのちを取って下さい。私は生きているより死んだほうがましです。」と怒りました。そして神様は「あなたは当然であるかのように怒るのか」と問われました。私たちは心の思いを神様によって照らされ探っていただかないと、間違った感情に支配されてしまうことが起こります。
ヨナはなぜここまで不機嫌と怒りにとらわれてしまったのでしょうか?
私はいくつかの要素があったと考えています。1つは、預言者にとって、その預言が実現しない事は大きな恥辱であったことです。「あと四十日するとニネベは滅びる」(3:4)と預言したのに、ニネベは赦され滅びませんでした。それはヨナが偽預言者とされかねない事態でした。「神が私に恥をかかせた!」という感情が生まれたことが想像できます。
もう1つはニネベの暴虐の問題でした。1:2で「彼らの悪がわたしの前に上って来た」と神様も言っておられます。ニネベ王の布告にも「人も家畜も、荒布を身にまとい、ひたすら神に願い、それぞれ悪の道と、その横暴な行いから立ち返れ」(3:8)とあります。つまり自他共に認める悪と罪の現実があったということです。
更にヨナのいた北イスラエル王国にとってアッシリアは軍事的な敵でした。実際この後、北イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされてしまいます。ですからヨナの本音は、イスラエルが滅びないためにニネベは滅んで欲しかったのです。
私の小学生の頃、学校から帰って来てテレビをつけると、再放送で水戸黄門という番組がやっていました。江戸時代後期、水戸藩の徳川光圀公が全国を漫遊して、悪人をこらしめ庶民を救うという内容です。徳川家の家紋付き印籠を差し示して一喝すると、悪人たちが降参します。視聴者はすっきりした思いで見ていることができました。勧善懲悪がテーマの大いなるマンネリズムが、人々から愛されていた理由に思えます。
私たちはこうした分かりやすく痛快な勧善懲悪を求めるところがあります。しかし人生も信仰生活も、そう単純ではありません。不適切な人が祝福されているように見える現状に、納得できない思いが生じるかもしれません。そこに罠があります。
ヨナの怒りの根底にあったのは、神よりも自分の考えの方が正しいという考えです。もちろんそれは大きな間違いです。しかし案外私たちはこの間違いに陥りやすい気がいたします。
怒りについて、ヤコブ書1:20にはこうあります。「人の怒りは神の義を実現しないのです。」またエペソ書4:26にはこう言われています。「怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日がくれるようであってはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい」。怒ってもよいのです。しかし、それにずっととらわれていると私たちは罪に陥ってしまいます。堅く握った怒りのこぶしは、神様の前でいつか開かれなくてはなりません。そして神様、あなたの思いを今一度教えて下さい、と祈らせて頂くことが必要です。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)のみことばを、私たちは自分だけでなく罪ある人たちのためにも心に刻むことが大切です。
神様は私たち信仰者に、ご自身と一つ心で歩んで欲しい、と願っておられます。その招きに一歩ずつ応答させて頂こうではありませんか。
2.すべての人を求めておられる神
神様はヨナの心を取り扱うために、実物教育を始められました。ヨナはニネベの町から出て東の方に仮小屋を建てました(5節)。もしかしたら、神が自分の抗議を受けてニネベに裁きを下して下さるかもと期待したのでしょう。
しかしそこは中近東の猛烈な日差しが降り注ぐ場所でした。神様はヨナのために1本のとうごまを一夜にして生えさせて下さったのです(6節)。何のためでしょうか?「ヨナの不機嫌をなおそうとされた」のです。
我が家のリビングには三浦綾子さんのある言葉が飾ってあります。「なくてはならぬもの、愛すること生きること」という著作からの抜粋で、このような内容です。「不機嫌を自分で直せないのは、大人のすることじゃない。大人じゃない証拠です。」三浦綾子カレンダーにあったものを、切り取って貼ってあります。不機嫌なままでいるのは、成熟した人にふさわしくない、ということでしょうか。これで行くとヨナは、大人じゃないことになります。自分で直せないヨナに代わって、なんと神様が不機嫌をなおして下さるというのですから驚きです。
さて、とうごまはその実からひまし油をとったりするそうで、人の手の平のような形の大きな葉を持つ植物です。神様の超自然的はみわざで現れたとうごまは、日除けとして大変役に立ち、ヨナはとても喜びました。
私が行田教会で伝道師をしていた時、婦人会で遠足に出掛けたことがあります。たしかあやめの時期で、5月の快晴の日でした。さてお弁当にしようとした時、屋根のある東屋は先客がいて、利用することが出来ませんでした。それで仕方なく、ひょろ長い貧弱な松の木の陰に陣取ることにしました。すると驚いたことに、全員が座るには心許ないような小さな陰なのに、十分に涼しいのです。ご婦人たちは「ヨナの気持ちがわかるわね」と口々に言っておられました。
しかし神様のお取り扱いは続きます。神様は虫を備えてとうごまを枯れさせます。更には焼けつくような東風を吹かせました。神様は大切なものが失われる痛みをヨナに経験させました。それは神様が罪人の滅びをどんなに惜しんでいるかを教えるレッスンでした。
ヨナは暑さの中で身も心も弱り果ててしまいます。ヨナはとうごまに神の好意を感じていたのに、それがとり去られてがっかりしたのかもしれません。再び激しく怒って「私が死ぬほど怒るのは当然です」と食ってかかるのです(8)。
ここまで読んで来て、聖書のある人物が思い出されます。罪ある兄弟が赦されたことに怒り、すねる兄。それをやさしく諭す父。そうです、放蕩息子の話に出てくる兄息子を思い浮かべてしまうのです。
彼はこう父に抗議しました。「長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友達と楽しむようにと、子やぎ一匹下さったことはありません。それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために子牛を屠られるとは」(ルカ15:29,30)。
兄息子は、父は弟のことばかり愛して恵んでいる。自分は少しもよくしてもらっていない、と言っています。しかしそうでしょうか?これはヨナにも言えますが、自分に与えられた大きな恵み、赦し、救いのみわざを人は容易に忘れてしまうということでしょう。「神様、どうしてですか?」という思いが湧くときには、これまでの主の恵みのみわざを思い起こしましょう。また、今与えられている祝福を数えましょう。そしてこれから約束されている祝福を、数え上げてみましょう。とても、私はあの人より恵まれていません、あなたはずるい方です、などと言えるはずがありません。
ここで神様は口を開かれます。10,11節「主は言われた。『あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左もわきまえない12万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか」。
神様はへりくだってヨナにこう語りかけてられました。神様は、ニネベを惜しみ求めておられました。同時にヨナにも恵み深く、あわれみ深く、心を含めた全存在を求めておられました。
聖書は人間を「神のかたちとして創造された」と表現しています。霊的な本質において神に似せて造られたという意味です。だから人が滅びることを神は悲しむのです。さらにここでは、動物の命すら大切に思っていると言われます。
信仰者は、神の道を右にも左にもそれずに歩みたいと願っています。しかし神様は、右も左もわきまえない者すら愛しておられるのです。ヨナ書のテーマはこの神の愛です。「主の御顔を避けて」というヨナ書の説教集の中で、遠藤嘉信牧師はこう言っておられます。「ヨナ書が4章まであるのは、神と同じ愛の心を信仰者に持たせたいからとしか説明が出来ない。」と。
11節の終わり方は唐突にも思えます。しかしこれは、読者に問いかけるための手法と考えられます。この書を読む者がどう応答するか、それはひとり一人に委ねられています。このヨナ書がヨナ本人かその証言に由来すると考えれば、ヨナが体験したこのお取り扱いを読者もまた体験できるようにと記したのでしょう。
願わくは、罪人の魂を惜しむ神様の愛を、神様と共有させて頂けますように。祈りの内に自らと向き合い、私たち自身の心を取り扱って頂きましょう。
<祈り>
「恵み深い天の父なる神様、御名をほめたたえます。あなたの広く深い愛をヨナ書から学ばせて頂きました。あなたの御思いとギャップが生じやすいのは、私たちも同じです。どうぞ取り扱いを与え、あなたの御思いと心一つに持たせて下さい。あなたがいかに深い恵みとあわれみを示して下さっているかを、今一度思い起こさせてください。また、罪人の魂を惜しむ愛を、神様あなたと共有させて頂き、ふさわしく証することが出来ますように。イエスさまのお名前によってお祈りします。アーメン。」