2025年9月28日(日)礼拝説教 列王記第二22章1-13節 「心を神に向けて」 説教者:赤松勇二師、CS説教:赤松由里子師

列王記第二22章1-13節 「心を神に向けて」 説教者:赤松勇二師、CS説教:赤松由里子師

<子どもたちへ>
 王様のお話が続いていますね。先週はヒゼキヤ王のお話でした。きょうはそのひ孫にあたる王様のお話です。その王様の名は「ヨシヤ王」です。一体どんな人だったのでしょうか。
 ヨシヤが8歳(小学2年生くらい)の時です。お父さんが亡くなって、自分が王様になることになりました。16歳の頃から熱心にまことの神様を信じるようになっていました。「ぼくは先祖のダビデ王様やひいおじいさまのヒゼキヤ王のように、神様に従う王になろう」。ヨシヤはそう決心しました。

 大人になったヨシヤは、立派な王様になりました。神殿をきれいに修理させることにしました。「神様を礼拝する神殿がほったらかしだなんて、良くないことだ」と思ったのですね。
 すると工事中の神殿から知らせが来ました。「王様、ご覧ください。神殿で律法の巻物が見つかりました。」神様のみことばを書いた書物が出てきたのです。長い間、誰も神様のみことばを呼んだことも、どこにあるかも知らなかったのです。家来がそれを読み上げました。聞いているうちにヨシヤ王はショックで泣き出しました。そして着ていた服を、ビリビリと引き裂いたのです。
「この国は神様のご命令をすっかり忘れて神様の教えに逆らっていたのだ。神様ごめんなさい。」巻物に書いてある、本当の神様だけを礼拝しなさい、という教えと正反対に、ユダの国では偶像が礼拝されていたのです。
 預言者が来て言いました。「神様は言われます。『わたしはユダの国に厳しい罰を与える。だがヨシヤ王は心から悔い改めたので、王が生きている間は罰を与えることはしない。』」神様はヨシヤを見ておられたのですね。

 そこでヨシヤ王は、国を良くしていこうと立ち上がりました。人々に神様のみことばを読んで聞かせ、お祈りしました。「私たちはこれから、みことばを大切にして本当の神様だけを礼拝します。」人々もヨシヤ王と一緒に神様に従う約束をしました。
 今日のみことばを読みましょう。「私はあなたのみことばを心に蓄えます。」(詩篇119篇11節)。神様のみことばは、どこかにしまい込まれてほこりをかぶっていては、忘れられてしまいます。何が罪なのか、何が神様に喜ばれることなのかわかるように、みことばをしっかり覚えましょう。それが「たくわえる」ということです。聖書を読み、礼拝に出てお話を聞きましょう。そして暗記しましょう。神様が教えて下さることを実行する力を、神様から頂いて行きましょう。神様はヨシヤを見ておられたように、私たちのことも見守って下さいます。そして私たちの信仰を喜んで下さるのです。

<祈り>
「神様。ヨシヤ王が神様のみことばをよく聞いて、みことばの通りに実行していったことを学びました。どうぞ聖書のみことばにしっかり覚えて実行する力を、私たちにお与え下さい。ヨシヤのような素直で力強い信仰を持つことが出来ますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」

      「私はあなたのみことばを心に蓄えます。」    詩篇119篇11節

<適用>
 「心ここにあらず」と言う言葉があります。私は、中学生の時にそのような状態になったのを覚えています。その一度だけではないと思うのですが、はっきりとその時の情景が思い出されるのです。あれは、中学3年の夏でプールの授業が終わった時です。次の授業で私は、プールの疲れとプールの水で体が冷えて気持ち良い気分になっていました。ベランダ側の窓際の席に座っていた私は、風に吹かれて「あー気持ちいいなぁ」と思って、「心ここにあらず」という状態で授業を受けていたのです。ですから何の科目の授業だったのかは全く覚えていませんが、気分の良い時間を過ごしました。
 私たちは、神様に対して「心ここにあらず」とならないように注意しなければなりません。私たちは、心を神様に向けてしっかりと信仰をもって歩んでいきましょう。

Ⅰ;人生の指針を持つ

 私たちは、心を神様に向けて歩みましょう。その時私たちは、人生の指針を持つことが出来ます。
 ヨシヤは列王記第二22章1節で言われているように、8歳で南ユダ王国の王となりました。ヒゼキヤの後その子マナセが王となり、そしてアモンが王となりました。二人とも神様に従うことをせず、神様に対して罪を犯していきました。そしてアモンの後継ぎがこのヨシヤです。幼くして王となったヨシヤは、右にも左にもそれずに神の道を進みました。歴代誌第二34章をみると「彼の治世の第8年に、彼はまだ若かったが、その先祖ダビデの神に求め始め(3)」とあります。8歳でユダの王となったヨシヤは、16歳の時に神様の御前に正しく歩むことを求め始めました。そしてヨシヤは、20歳の時に偶像を取り除く宗教改革を行い(Ⅱ歴代誌34:3)、26歳の時に神殿の修復を始めるのです(Ⅱ歴代誌34:8)。ヨシヤが20歳から26歳になるまでの間に南ユダ王国の預言者として神様に立てられたのが、エレミヤです。「このエレミヤに主のことばがあった。ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第13年のことである(エレミヤ1:2)。」ヨシヤがエルサレム神殿の修復を始めたのがその治世18年の時ですから、彼は預言者エレミヤによって語られた神様の言葉を聞いていたことでしょう。そしてエレミヤは、預言者としてヨシヤの信仰を支える霊的サポートをしていたのではないでしょうか。そのような中でヨシヤは、心を神様に向けて歩み始めるのです。

 何とこの神殿の修復の時に、律法の書を発見したのです。大祭司のヒルキヤが「律法の書を見つけました(Ⅱ列王記22:8)」と言うからには、その存在は知られていなかったということです。それだけ王や祭司の心が神様から離れ、神様の律法を忘れ、ひたすら偶像礼拝を追い求めいたということです。
 ヨシヤは、律法の書が発見され、読まれた時自分の衣を引き裂きました。これは、自分の罪を知り、心を痛めたことの表れです。すでに神様を求めていたヨシヤですから律法の書が何を言おうとしているのかすぐに理解したことでしょう。彼はすぐに、何をするべきか、神様の御心を求めたのです。列王記第二22章13節を見てください。ヨシヤは、「行って、この見つかった書物のことばについて、私のため、民のため、ユダ全体のために、主を求めよ。私たちの先祖たちがこの書物のことばに聞き従わず、すべて私たちについて記されているとおりに行わなかったために、私たちに向かって燃え上がっている主の憤りが激しいからだ。」を言っています。この時見つかった律法の書物が何かは明かではありません。しかしそこにあったのは、神様が語られた律法のことばであり、御言葉に従う者には恵みと祝福を与え、聞き従わないならば厳しい裁きを下すという言葉でした。

 ヨシヤは、心を神様に向けて歩み始めた時、律法の書を通して神様の御言葉を知りました。その結果、ヨシヤは人生の指針をはっきりと知ったのではないでしょうか。すでに偶像を排除していたヨシヤでしたが、それは間違いではなく、徹底的に偶像を取り除き、神様の祝福の中を生きていくという指針です。
 私たちも、人生をどのような方向に進み、どのような基準をもって生きるべきなのかという人生の指針を持つことは大切なことです。そして私たちが、どのような人生の指針を持つのかと言うことは、私たちの心が何に向いているのかを示すことにもなります。私は、人生を自分の欲望に任せて自分の好きなように生きよう、と考えていた時期がありました。そのように私の心が自己中心という指針に支配されていた時、私は不安と恐れと希望のない日々を空しく過ごしていました。しかし、そのような生き方を悔い改めて心を神様に向けて、神様の御言葉という指針を持った時、私の心は平安と喜びに満たされたものとなりました。
 ヨシヤ王は、心を神様に向けた時、さらに進むべき道を知ることが出来ました。私たちも、心を神様に向ける時、人生の指針を持ち、主の道を進むことが出来るようになります。

Ⅱ;御言葉を心に蓄えよう

 私たちは、心を神様に向けて、御言葉を心に蓄えましょう。ヨシヤは、律法の書にある神様の言葉を聞いた時、さらに宗教改革が必要であることを知りました。そして御言葉を心に蓄え、信仰をもって主に従う決心をするのです。
 列王記第二23章のヨシヤの宗教改革の様子を読む限り、ユダの人々は主なる神様を信じると言いながら、その心は神様から離れている状態であったことが分かります。ヨシヤの曽祖父は、主に信頼し偶像を取り除き、主なる神様に従ったヒゼキヤ王でした。しかしその後のマナセ(ヨシヤの祖父)とアモン(ヨシヤの父)は、主なる神様を忘れ、偶像礼拝を行うのです。彼らは、あらゆる偶像、太陽、星などを礼拝し、そして占い、霊媒など神様が禁じていることをことごとく行っていました。そのような状態に対してフルダによって語られた神様からのメッセージは、「南ユダの人々は、イスラエルの神を離れ、偶像礼拝をして罪を犯した結果、必ず神の裁きを受けなければいけない。しかし、ヨシヤ王は忠実に主に従ったので、ヨシヤ王の後の時代にユダの国は滅ぼされる」ということでした。

 ヨシヤは、ユダが滅ぼされることが主の御心であることを知りました。そして自分が生きている時はそれが起こらないことが分かりました。ヨシヤは、それで安心しませんでした。彼は、自分は良いかもしれない、けれども後に残るユダの人々のことを考えたのです。そしてヨシヤは、律法の教えを守り、主の御言葉に従い、生きることを決心しました。まず、民の代表を集め、律法の書を読み聞かせます。そして主に従うと言う誓約を立てます。さらに国中にある偶像を取り壊し、偶像礼拝となるもの全てを取り除いて行きます。徹底して神様に立ち返るように指導していったのです。ヨシヤは、律法の書の言葉、預言者フルダやエレミヤによって語られる神様の言葉を心に蓄えながら、行動をしていたことでしょう。
 皆さん、これは昔々、南ユダ王国のヨシヤ王の時代に起きた古い話だと思わないでください。北イスラエルの人々も南ユダの人々も心を神様に向けず御言葉を心に蓄えることもしなかったので、神様の喜ばれる歩みをすることが出来なかったのです。私たちも心を神様に向けることをしないならば、同じように罪の中を歩むことになってしまうのです。そうならないために必要なことは、心を神様に向け、御言葉を心に蓄えることです。

 時々私たちは、聖書の御言葉が何を言っているのか分からず戸惑う事があります。御言葉が頭の上を通り過ぎてしまう様な事がありませんか。御言葉を聞いていても、説教を聞いていても、右の耳から入って左の耳に抜けて行ってしまうということがあるかもしれません。私も自分の信仰の歩みを振り返ってみると、聖書を読んでいても何も心に残らないという読み方をしていたことがあります。また、学校の授業だけではなく、礼拝での説教の時も、心ここにあらず、の状態になりボーっとしていて気がついたら説教が終わってしまったということがありました。その時の牧師先生にも神様にも申し訳ないことをしてしまったと思います。当然このような御言葉の聞き方を神様は喜ばれません。

 今週の聖句を一緒に読みましょう。「私はあなたのみことばを心に蓄えます。」詩篇119篇11節。詩篇119篇9節には「どのようにして若い人は、自分の道を、清く保つことができるでしょうか。」という問いが投げかけられています。その答えとして詩篇の作者は「あなたのみことばのとおりに、道を守ることです。」と語ります。そしてそのために、「みことばを心に蓄えます」と宣言するのです。当然それは、自分の道を清く保つためですが、11節の続きには「あなたの前に罪ある者とならないために」と続くのです。私たちが神様の御前に罪を犯し神様から離れてしまうことがないように、私たちは神様の御言葉を心に蓄えることが大切です。
 ヨシヤは、神様の御言葉を聞き、信仰の応答をして宗教改革に取り組みました。神様の御言葉は、彼の人生を大きく変えるこことなったのです。私たちもまた信仰をもって御言葉を心に蓄えて、神様の御言葉に従って歩むならば、私たちの心は確実に変わって行きます。神様の愛と救いの恵みを知ることが出来、素晴らしい祝福を与えて頂くことが出来ます。そして私たちは、ヨシヤ王と同じように「主に従って歩み、心を尽くし、いのちを尽くして主の命令を証しと掟を守る」と決心して心を神様に向けていっぽいっぽ歩んでいきましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。私たちが、心を神様に向けて歩む時に神様は人生の指針を与えてくださることを感謝いたします。そのために私たちは、神様あなたの御言葉を心に蓄えます。神様、私たちに御言葉を理解する知恵を与えてください。私たちは、信仰をもって心から御言葉に応答して歩みます。私たちが神様に喜ばれる歩みをすることが出来るように支え導いてください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」