2025年10月19日(日)礼拝説教 サムエル記第一1章1-19節 「心を注ぎ出す祈り」 説教者:赤松勇二師

サムエル記第一1章1-19節 「心を注ぎ出す祈り」

<子どもたちへ>
 昨日は、小学校で運動会がありましたね。どうでしたか?練習の成果を発揮することができたでしょうか。
 僕が小学生の時のことです。ある日、学校でとっても嫌なことがありました。だから僕は、一人で家に帰りました。すると家に電話がありました。クラスの担任の先生からでした。「赤松君が一人寂しそうに帰っている姿が見えたから、どうしたの」と気になって電話をしたのだそうです。僕は、先生が気にかけてくれたことが嬉しく、学校で嫌なことがあったことを話しました。僕は、担任の先生に自分の気持ちを言えたことが嬉しくて、次の日元気に学校に行く事が出来ました。

 今日は、ハンナと言う人のことを学びましょう。ハンナは、神様に心の中の思いを全部お祈りした人です。ハンナは、エルカナと言う人の奥さんでした。でもエルカナには、もう一人ペニンナという奥さんがいたのです。ペニンナには子どもが与えられましたが、ハンナにはなかなか子どもが与えられませんでした。夫のエルカナは、奥さんのハンナをとても大切にしましたが、もう一人の奥さんのペニンナは、ハンナをいじめるのです。
 エルカナは、年に一度大切な礼拝のために家族を連れて神殿があるシロという町に出かけていきました。この時の礼拝では、神様にいけにえを献げて、特別な食事をすることになりました。ペニンナには、子どもたちの分も含めて食事が出され楽しく食事をします。ペニンナは、「子どもたちと食事が出来るのはとても幸せね」とその姿をハンナに見せびらかすのです。ハンナは、寂しくて辛くて食事も出来ず、一人泣いています。

 食事の時間が終わって、ハンナは神殿に行きました。そこでハンナは、「神様、私は辛くて悲しくて仕方ありません。子どもが与えられないからです。ずっと祈っていますけれども、神様まだでしょうか。神様が男の子を与えてくださるなら、その子は神様にお仕えする子になります。神様、どうか助けてください。」と泣きながら、ずっと祈るのです。ハンナは、声に出さず心の中で静かに祈っていたので、口だけが動いていました。
 その様子をずっと見ていた人がいます。それは神殿の門に座っていた祭司のエリでした。エリは、泣きながら体を揺らし、口だけがもごもご動いている姿を見て、酒に酔っていると思ったのです。エリは、「あなたは、お酒に酔っているのですか。酔いをさましなさい。」とハンナに声をかけます。

 ハンナは、「祭司様、私はお酒など飲んではいませんし、酔ってもいません。私は、とても辛くて寂しくて神様に心からの祈りをしていたのです。どうしても神様に聞いてもらいたい願いがあったので今まで祈っていたのです。」と答えました。祭司のエリは、ハンナが心から神様に祈り願っていることが分かりました。そこで、エリは、「あなたが願った祈りを神様が聞いてくださるように。神様の祝福があるように」と言ってハンナを力づけました。ハンナは、祭司エリの言葉を聞いて、自分の祈りを神様が聞いてくださっていることが分かりました。ハンナは、「神様、ありがとうございます。神様に信頼します」と祈り、神様への感謝に顔が輝いていきました。
 その後神様は、ハンナに子どもを与えてくださり、ハンナは男の子を生むのです。名前はサムエルです。サムエルは、神様に仕える預言者として活躍することとなりました。

 今週の聖句を読みましょう。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」ペテロの手紙第一5章7節
 「思い煩い」って難しいことばですね。これは、皆の心配事や悩み、願いなどのことです。僕たちは、心配事や願いのすべてを「神様お願いします」ってお祈りすることが出来ます。神様は、皆の願いや祈りを聞いてくれて、皆のことを心配して守ってくれます。僕たちは何でも神様に祈りましょう。

<祈り>
 「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。ハンナは、悩みや心配事をすべて神様にお祈りしました。神様は、ハンナの祈りに答えてくださいました。神様が僕たちの祈りを聞いてくださり、僕たちの事を心配してくださることをありがとうございます。僕たちは、いつも神様にお祈りをします。僕たちを導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」             ペテロの手紙第一5章7節

<適用>
 私は、以前集中して祈る時間を確保した時がありました。私は、心を静めて目を閉じて祈り始めるのです。一人で祈りますから、声を出さずに祈ります。私は、祈っている中である問題と戦うのです。それは、睡魔との戦いです。気づくと意識が飛んでいてちょっと寝てしまっているのです。寝ないようにと目を開けて祈ると、見えることが気になり祈りに集中できないのです。これではだめだと気を取り直して祈りを再開するということがありました。
 私たちは、「祈り」ということで様々な経験をしているのではないでしょうか。私たちは、どのような祈りをするでしょうか。祈りは何をもたらすのでしょうか。ハンナの祈りは、私たちに祈りの恵みを教えています。

Ⅰ;万軍の主の御前で

 私たちは、万軍の主の御前で心を注ぎ出す祈りをすることが出来ます。ハンナは、「万軍の主よ」と祈りました。
 ハンナは、エルカナの妻でしたが、エルカナにはもう一人の妻がいました。一夫多妻が容認されていた時代ですが、聖書は一人の夫と一人の妻が夫婦であることを主張しています。また聖書には、一夫多妻が多くの問題を生み出していることも明らかにしています。アブラハム、ヤコブ、ダビデそしてソロモンなどが良い実例ではないでしょうか。エルカナの家にも例外なく問題がありました。エルカナは家族を連れて年に一度、神殿での礼拝のためにシロに巡礼をしていました。神殿(宮)と言っても神殿建設については何も触れられていないので、幕屋の様なものがあったのだと思います。この巡礼の時が、ハンナにとってとてもつらい時となりました。

 礼拝者が神様に捧げる感謝のいけにえは、家族ごとの人数に応じて礼拝者に分け与えられました。ペニンナには子どもがいましたから、いけにえの多くはペニンナとその子どもたちに与えられます。エルカナは、ハンナに特別な分を与えていたようですが、一人分であることには変わりありません。恐らくペニンナは、この時とばかり横柄な振る舞いをしたり、言葉でも辛辣で意地悪なことを言っていたのではないかと思います。特に5節では夫のエルカナがハンナのほうを愛していたとありますから、ペニンナの嫉妬や憎悪が絡み合って二人の妻の修羅場のようなことだったのではないでしょうか。

 この時のハンナの気持ちを想像することが出来るでしょうか。ハンナは、巡礼に行かなければなりません。でも毎年巡礼のたびに嫌な思いをするのです。神様を礼拝し祝福を受けられることを感謝し喜びたいのに、ハンナの心は暗く、沈んでしまうのです。ハンナの置かれている状況は、子どもが与えられない。ペニンナにいじめられ、惨めな思いをしている。家の中では逃げ場はない。主が胎を閉じている。誰も彼女の気持ちを理解してくれる人がいない。ハンナにとっては、苛立ちが募り、悲しみと苦しみが増し加わり、まさに八方ふさがりの状態でした。

 このような中でハンナは、「万軍の主よ。」と全世界を造り支配しておられる創造主なる神様に心から祈るのです。この祈りは、彼女の献身の祈りでもあります。おそらく普段からハンナは、神様に祈っていたのだと思います。彼女は、自分の問題を祈りながら神様の導きを求め、本当に願い求めることは何であるのかに気づいていくのです。それが11節の祈りの言葉となるのです。主が与えてくださる男の子を主に捧げ、主に聖別された者としてかみそりを当てないと主の前に誓います。それほど彼女は主の御前に切実に祈っているのです。

 私たちも時に、すべてを投げ出したくなるような、出口の見えない不安を抱えることがあります。何となく元気が出ない、鬱々としてしまうということもあります。「ブルーマンデー」と言う言葉があります。「ブルーマウンテン」ではなく、「ブルーマンデー」です。月曜日からの仕事や学校のことを考えると日曜日の夜に気が重くなる症状を言います。ある時ラジオを聴いていたら、このブルーマンデーの原因の一つに休日中に発生する時差ボケがあると言っていました。私たちは、休日と言うことでゆっくり休もうと考えます。しかしこの時、午前中を寝て過ごすとか普段と違う生活のリズムにすると、時間のバランスが崩れるのだそうです。ですから時間をずらすとしても2時間程度にすると良いそうです。出来るだけ午前に起きて日を浴びて、体内時計をリセットして一日を過ごすことです。そうすることで、休日の時差ボケを解消することが出来るそうです。

 とにかく、私たちには、様々な事柄が起き、予期せぬ事態に陥ることもあったりします。時にはハンナのように四方八方が塞がれて、まるで大きく深い穴に落ちてしまったのではないかと思うこともないわけではありません。胃が痛くなるようなストレスを感じることもあるでしょうか。そんな時私たちは、ハンナの祈りに目を向けましょう。ハンナは、「万軍の主よ」と祈りました。私たちは、ハンナのように、すべてを支配し私たちを導くことのできる「万軍の主よ」と天を見上げて祈ることが出来るのです。主の御前にあって、私たちは祈る道が開かれているのです。

Ⅱ;主の励ましを受ける

 私たちが、心を注ぎ出して祈る時、私たちは主の励ましを受けることが出来ます。ハンナは祈っている間、祭司エリが側にいることに気がつきませんでした。エリはハンナが祈っている姿を見て、酔っていると思いました。ハンナの口が動いていても声が聞こえなかったからです。

 私が学院生の時にある教会で実習生として奉仕をしていた時のことです。土曜日だったと思いますが、一人の男性が教会を尋ねて来ました。その人は、明らかにお酒を飲んで酔っているのです。お酒の匂いもしていました。教会の牧師と私は、しばらく相手の質問に答えましたが、あまりにも支離滅裂なことを言うので、「今日はこれくらいにしましょう。今度はお酒を飲まずに来てくださいね」と牧師、その人は「そうだね。そうしようか」と言って帰っていきました。その人は、ひとしきり教会で話が出来たからなのか、満足そうに帰っていきました。私は、教会っていろんな人が来るなぁと思った出来事でした。

 サムエル記の時代、祭司エリがいるツロでは主への礼拝が行われていました。その時に人々は、酔ったままの状態で神殿(幕屋)に出向いていたということが多かったのでしょうか。エリは頻繁に酔っている人を宮で見かけていたのではないでしょうか。だからハンナが一人泣きながら、ブツブツ祈っている姿を見て、すぐに酔っていると勘違いしたのです。
 ハンナは、酔っているのではない、心を注ぎだして祈っていること、つのる憂いといらだちのために、必死に祈っていることを告げます。エリは、自分の間違いをすぐに認めて、祭司としての祈りをします。17節の言葉は、祭司エリがハンナの思いを受け止めたこと、ハンナが祈った祈りが主によって成就するようにという祈りの言葉でもありました。

 ハンナの祈りは、祈りの道が私たちに開かれていることを教えています。そして彼女の祈りは、私たちがどのように祈れるのかについても大切なことを教えているのです。ハンナは心にある思いをすべて神様に打ち明けました。私たちは、心の中にある全ての思い、考え、願いを祈ることが出来るのです。ハンナは、「つのる憂いと苛立ちのために祈っていた」と言います。これはすごいことだと思いませんか。憂いの気持ちは分かります。私たちは、憂鬱な気持ちを神様の御前に祈ることがあります。でもハンナは、「苛立ちのために」祈っているというのです。彼女は、心にある苛立たしさまで神様の御前に祈っているのです。そして神様は、そのようなハンナの祈りを無視しないのです。

 祈り終わった後のハンナは以前のようではありませんでした。祈る前は深い悩みと悲しみと募る憂いがあり、苛立ちにより食事ものどを通らないのです。しかし、祈り終わったハンナはどうでしょうか。彼女は食事をしています。目にする現実は相変わらずです。しかし、悩みと悲しみは消え去り、憂いと苛立ちはなくなっていました。「その顔は、もはや以前のようではなかった(18)」のです。ハンナは喜びに溢れ、祈りが聞かれるという確信によって心が定まっていたのです。彼女は、祈りという主なる神様との交わりを通して心に力を得て、主からの励ましを受けて立ち上がることが出来たのです。
 これが祈りの力です。万軍の主なる神様は、私たちの祈りを聞いてくださり、御心に留めてくださいます。状況はすぐには変わらないかもしれません。けれども神様は、私たちを確実に導き、私たちを励まし、私たちに平安を与えてくださるのです。

Ⅲ;主が心配してくださる

 私たちは、心を注ぎ出して祈りましょう。万軍の主なる神様が私たちのことを心配してくださるのです。そこに神様の答えと導きがあります。
 ハンナは、心を注ぎ出す祈りを通して問題が解決しました。後は主に委ねるだけなのです。主はハンナの祈りに答えてくださり、彼女は男の子を産みました。そして「サムエル」と名づけました。神様が願いを聞いてくださったことを感謝してつけた名前でした。ハンナはどんなにか喜んだことでしょうか。こうして預言者サムエルが誕生し、その後のイスラエルの民を導くこととなりました。

 今日の聖句を読みましょう。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」ペテロの手紙第一5章7節
 何という励ましに溢れた御言葉でしょうか。私たちは、心の思い煩い、悩み、問題、苛立ち、憂いそして苦しみなどの一切を神様にゆだねることが出来るのです。なぜならば、主なる神様ご自身が私たち一人ひとりのことを心配してくださるからだと言われています。これは、「神は憐れみ深くあなたがたのために心を配って、油断なく注意をしてくださるから」と訳すことが出来ます(詳訳聖書)。もっと分かりやすく表現すると「神様のほうで万事、心にかけてくださるからです(リビングバイブル訳)」となります。神様が、私たちのことについて責任をもって心配してくださり、万事うまく最善に導いてくださるのです。

 私たちは、万軍の主の御前で心を注ぎ出して祈ることが出来る恵みを感謝しましょう。私たちは、心を注ぎ出して祈り主からの励ましを受けましょう。そして私たちは、主が心配し最善に導いてくださることを信じ信頼して心を注ぎ出して祈りましょう。

<祈り>
 「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。私たちは、ハンナのように募る憂いと苛立ちに心が支配され、悩み、苦しむことがあります。そのような時、私たちがハンナと同じように、『万軍の主よ』と祈ることが出来る恵みを感謝します。神様が、私たちの事を心配し、油断なく注意し、万事最善に導いてくださることを感謝いたします。私たちは、すべての事柄を神様にゆだねます。
 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」