コリント人への手紙第二5章14-17節 「すべてが新しく!」
さだまさしさんの数多くの作品の中に「主人公」という歌があります。ご存じの方もおられるでしょうか。
私は、ご近所の皆さんのために毎月2回みんなで歌う会を開いています。もう2年目に入りました。まあ昭和の歌謡曲を私のギター伴奏でずっと歌いまくり、近況を話しあって大笑いしたり、しんみりしたりしている、それだけの会なんですが、つい先だって、コアなさだまさしファンのメンバーの方から聞きました。さだまさしファンの間で最も人気がある歌は、関白宣言でもなく、精霊流しでもありません、へえ、何ですか? 「主人公」という曲なんだそうです。私はさっそく用意をして翌月、さっそくみんなで歌ってみました。
歌いながら、どうしてこの曲がファンの間でも一番人気なのか、歌の途中にこういう歌詞が出て来るところでなにか理由が分かった気がしました。
「時を遡るチケットがあれば欲しくなる時がある あそこの別れ道で選びなおせるならって」
新しくやり直したい! 選び直したい! 若い時に戻りたい! 皆さんも思い当たることがあると思います。
・昨日の時点で株を売っていればなぁ、買っていればなぁ、やり直したい。
・先月、好きな豚骨ラーメン食べ過ぎた。止めときゃよかった、血糖値爆上がり、やり直したい。
・高校時代、あたし、なんで◯◯君に告白しなかったんだろう、今日結婚式の招待状が届いた、ああ、やり直したい。あんなに思っていたのに。
・男の日傘がもっともっと前からあればよかったのに、お顔のシミを気にしている自称イケメン親父、やり直したい。
どなたが最初に考えたのか知りませんが、「18歳と81歳の違い」というのがありますね。なかなか笑えます。
「道路を暴走するのが18歳。逆走するのが81歳」とか。確かに、分かりやすいですね。
こういうのもありました。
早く二十歳になりたいのが18歳。出来れば二十歳に戻りたいのが81歳。
身につまされます。
私たちは大きいこと小さいこと、日常的に「やり直したい症候群」に心悩ませています。
いや、株の上がり下がりやお顔のシミの事なんかじゃなく、人生全体を新しくやり直したい!と思う人も少なからずおられるようです。
先日、かつて私が牧師としてご奉仕していたある教会の長年の信徒のご夫妻に会いました。随分長くお会いしていなかったので、いろいろと積もる話しをお聞きしました。お話しの中の一つに、お仕事上の転職のことが出て来ました。ある大学の職員としてお仕事を始めて、希望していた職につけたのでやり甲斐をもってずっと働いてきて、少しずつ立場も昇進してきていたのですが、最近になって同系列の病院のほうに移るように辞令をもらったとのこと。「配置換えという形でしたが、実質転職で、続けていますが自分としてはやはり大学職員ということに誇りもあったので・・」と言葉を濁しておられました。ご本人にとっては、そろそろ定年も見えてきた段階になって自分のアイデンティティでもあった職業が変えられるということに至ったわけです。
ご本人にとっては今までの人生がすっかり別物にされたような気持ちがするのでしょう。
まだ下のお子さんが高校生で、これからいろいろと物要りですから、職を今から一から変える訳にもいかず、年齢的にはそんなことをするのは現実的でもなく、お気の毒なことだなと思いました。
仕事はやはり人生で大きな要素でその人の生き甲斐でもありますから、今からでもやり直したいと考える気持ちには切実なものがあります。
さらに踏み込んで、同じやり直したいという思いにももっと深いものもあると思います。
いや自分は最初から生まれ変わりたいんだ! 新しくなりたい。まったく違う人生があったんじゃないか? こんな自分じゃなく、私のなりたかった自分はもっと別の自分だったんじゃないか。職業や結婚や住宅やその他のどんなものでもなく、自分自身ですよね。生き方とも言うでしょうか。
変わりたい。本当はあったはずの本来の自分の姿を取り戻したい。そういう根源的な渇望を感じながら生きている人々もおられます。今すぐ困ることは何もないんです。むしろ何の不足もない、幸せな人生を歩んできているんだけど、これが自分がなりたかった自分なんだろうか、これが私が生きたかった人生なんだろうかという、漠然としていて深い「やり直したい症候群」もあるのです。
過去を振り返って、大満足できる人は、まず一人もいないでしょう。いやもしいるとしたら、よっぽど反省心のない、鼻持ちならない人かも知れないですね。悩む人生にこそ味わいがあるのかも知れません。
私もそうでした。私も違う自分になりたい、今までの人生を帳消しにして、初めからやり直したい、と思っていました。
高校生の頃でした。やり直したいと思うにはかなり早すぎましたね。まだ若かった、思春期の不安定な精神状態だったからかも知れません。しかし私にとっては深い悩みでした。
農家の長男として生まれて、跡取り息子として大事に育てられました。弟が一人いますが、時代のせいもあってだいぶ扱いが違っていた記憶があります。今から考えると弟は可哀想だったなと思います。そういう生育歴ですので、知らず知らずのうちに、私は周りから見ればとても尊大な人間になっていったと思います。人からの受けはいいんだけど、内心では俺、俺、俺という人間に成長していました。学校の休み時間に、みんなで話しているところに後から入っていって、その時誰が何の話をしていてもそれには構わず、話題を取ってしまい、自分の話を始めてしまう子でした。貧しい農家の友だちの気持ちも分からず、新しい消しゴム、鉛筆を見せびらかすような嫌な子どもでした。
細かなことは忘れてしまったのですが、ある時、クラスで友だちが◯◯欲しいな、買いたいなと言ったのです。私は「買えばいいじゃない」と返しました。その時、その友だちが「おまえ、お金はどこから来るのか知ってんのか」と聞いたんです。私はショックを受けて黙ってしまいました。まだ子どもでしたが、「俺は子どもだな」と思いました。
それ以来、暢気で周りもかまわず伸び伸び生きていた私が、自分に悩み始めました。やがて中学生くらいになって、こんな自分は友だちから嫌われているんじゃないかと思うようになり、高校に入った頃にはそれは確信に変わっていました。その頃には友だちのちょっとした行動や言葉が、みんな嫌われている、嫌がられている、避けられていることに思えて、一見すれば楽しくやっている学生に見えたと思いますが、心の中では自己嫌悪で一杯になっていました。
私は自分が嫌いだったのです。だから変わろうとしました。しかし、小さい頃からの生育歴で出来上がった自分の人間性は自分では容易には変えられませんでした。
こんなこと悩んでいるのは馬鹿馬鹿しい。止めよう、忘れようと思ったこともしばしばでした。でも打ち消すことは出来ませんでした。私は私が嫌いでした。違う自分になりたかったのです。生まれ変わりたかったのでした。しかしそれは叶わぬことでした。
自分で自分が受け入れられない、新しくなりたい、やり直したい。そう切実に思っていた私が、高校2年のクリスマスに産まれて初めて教会にいきました。初めて聞いたメッセージは、単純な内容でした。メッセージをして下さったのは私が行っていた高校の先輩にあたる方でした。その方も、学生時代の悩みを話したのです。自分よりも必ずいつもいい成績を取る友だちがいた。今度は勝ったろうと思うと、彼はいつも自分よりも少しいい点を取った。口では、「◯◯君、凄いね、よかったじゃない」と言っていても、私はいつも思っていました。「◯◯君さえいなくなれば」。消えて欲しい。そう思っていたと。メッセージをして下さった方は、そのことから自分が罪人だと分かったと語りました。そしてだから罪を赦していただくためにイエス様を信じましたと言いました。
私はその部分だけよく覚えています。声の調子まで覚えています。何故かと言うと、こう思ったからです。「この人、そんなことで悩むなんて子どもっぽいな」と。でも次の土曜日も日曜日も、あとずっとそれから毎週土曜日の高校生会と日曜日の礼拝に通うようになったのは、その人の話が忘れられなかったからです。内心では笑いながら、自分もそうじゃないかと突きつけられたのです。
教会に通い始めて早い時期に、創世記の1章1節に出会いました。「はじめに、神が天と地を創造された。」そういう神のことが、聖書に書いてあるんだと驚きました。子どもの時から何となく感じていた、何か人間を超えたもの、それを当時の私は神ともキリストとも思いませんでしたが、この目に見える範囲のものだけではない、農家の両親が天候を見ながら仕事をしているように、人間を超えた何か、人間がどう頑張っても敵わない、偉大なものが目に見えない世界に存在するのではないか、小さい頃からそう思っていました。聖書で神と言えば、それはこの世界全体を創造するような神のことを指しているんだと知って、ずっと何となく感じていた存在についに出会った気持ちでした。
教会では、イエス様が私の罪のために十字架にかかって死んで下さり、私の身代わりに命を犠牲にして下さったと聞きました。その時の牧師が、「髙橋君、もし世界に髙橋君だけが罪人で、他の全人類が罪人じゃなかったとしても、イエス様はたった一人、髙橋君だけのためにも、この十字架にかかって、身代わりに死んで下さったんですよ」と話してくれました。
私は、死んでもいいと思う程、いや実際に死んでまでしてこんな嫌な自分を愛して下さる神が存在するんだと思いました。こんな私は大切に思ってくれて、嫌がるのじゃなく、私のために実際に死んで愛をしめして下さった神のひとり子イエス様。私はそれが本当に嬉しくて、死ぬほどまでに自分を愛して下さっているイエス様を信じるようになりました。嫌いで嫌いで仕方がなかった自分が、神様からは愛されているというまったく別の光が差してきて、私は自分に対する思いが次第に変えられていきました。
今日、読んでいただいた聖書の箇所は、第2コリント5:14〜17です。お話しの題は、「すべてが新しく!」としました。
私はイエス様を信じてから、新しくなったと感じています。
14節A これは私自身の言葉でもあります。
14節B〜15節A イエス様の十字架の死とともに私も死んだのだと信じるようになりました。
15節B こんなに自分で自分が嫌いな自分なのに、イエス様は愛して下さるなら、自己嫌悪で悩んでいないで、イエス様が愛している自分を自分も愛そう。そして愛していて下さるイエス様のために生きようと思いました。
16節 自分自身のことも肉に従った見方をするのはもうやめよう。そう思いました。
17節 自分はキリストにあって新しく造られた者なんだ。古いもので悩むのは無意味になった。過ぎ去ったんだから。私のすべてが新しくなりました。
この「すべてが新しくなりました」という聖書の言葉については、今までお話ししてきた内容を越えたはるかに大きな意味があるということをお伝えしなければ不十分です。
私は、このお話しの冒頭から、株、血糖値、恋愛や結婚、お顔のシミ、職業、人生の生き方と、私たち人間はいろいろな意味で、いろいろなレベルで「やり直したい症候群」になるとお話ししました。しかし、この聖書の箇所が言っている「すべてが新しく」は、そういった細々とした人生の付帯物のことに留まりません。
もちろんそういった人生の一コマ一コマの後悔や喪失感も含めてですが、もっと偉大なことを語っているのです。
冒頭から申し上げてきたことは、いわば私たち人間の視点からの願望です。新しくやり直したい、最初からやり直したいという願いです。
しかし今朝の聖書箇所が言う「すべてが新しく!」とは、私たち人間の側の願望のことではなく、創造主の神様から見た時の神様ご自身の願望が言われているのです。
神様の願望とはなんでしょうか?
神様は私たち人間が抱く願いだけでなく、神様が創造された全世界、全宇宙を本来の姿に、神様が創造された時の美しさ、調和、秩序、豊かさにもう一度回復し、創造の時の全世界、全宇宙の輝きをふたたび現実のものにしようとされているのです。それが聖書全体の教えです。私たちの魂の救いは勿論のことですが、それだけでなく、造られた世界全体の回復です。「すべてが」という時、そこで語られているのはそういう無限とも言える大きさ、拡がりなのです。
この世界の環境の問題、政治の問題、経済の問題、社会的な問題、差別、格差、貧しさ、道徳的な堕落、戦争、不正などなど、すべてが新しくなる、そういう神様の御業がいま行われ続けていると聖書は語っているのです。壮大な神の御業のストーリーです。
私たちの問題、私たち個人個人の悩みは、その中の一部です。でも、たとえばお顔のシミの問題が、もし環境破壊によって皮膚のトラブルがもたらされた結果であるとすれば、実はその問題の上にも神様のすべてを新しくする御業が行われるに違いありません。私たちの日常にも関係があります。
聖書によれば、私たちだけが、魂だけが救われるのではなく、罪によって本来の姿から落ち、崩れてしまったこの世界全体がすべて新しくされます。この地球環境も宇宙の隅々まで神様の御手は及びます。なんというスケールの大きな救いに私たちはあずかっていることでしょうか? 驚かないではいられない聖書の教えのダイナミックさです。
皆さん、世界に多くの宗教があります。なぜそんなに多くの宗教があるのか、考えたことがありますか。
人間は皆、今の自分ではいけない。もっとよい存在になりたい。いやもっとよい存在だったじゃないか? 自分は本来の姿を失っているんじゃないか。本当は自分はこんな自分じゃないんじゃないか。そう思う人間の営々と続いて来た思考が、何かによって変わろうとするいろいろな思想や宗教となってきたからではないでしょうか?
しかし残念なことに、人間のそういう切実な願いをうまく絡め取って人を騙す人造宗教、新興宗教も後を絶たずに起こってきました。こうすれば新しくなれますと言われて、それを求めている人はすがる思いでやってみて、そしてそのたび人はがっかりし続けているのではないですか。これを買えば、これを身につければ、こっちの方角に向ければ、献金すれば、果ては頑張れば、修行して超能力を身につければなどなど、新興宗教が語ってきたことです。そして失望を生んできました。
だからある人はこの聖書の言葉も同じだと思うようです。これも数々の宗教と同じだろうと。もう騙されたくない、期待して裏切られたくない。
しかしよく考えてみて下さい。いま申し上げた事はみな、人間が何かすればという話でした。聖書は違う。聖書は、キリストが成し遂げられた御業があるからと語っています。人間じゃなく神がなさった御業に根拠があるのです。
新しくなりたい。
全人類が、時代、民族、言語、地域の別を越えて共通して抱いている願いです。
ここに、その願いに対する答えがあります。「すべてが新しくなりました」とあります。
「なりたい」でも「なるだろう」でもなく、すでに「なった」と言っているのです。
株や血糖値やお顔のシミで始まったお話しでした。自分の人間性に関する私の悩みのお話しもしました。それも悩みですが、聖書を読んでいると人間の最も根本的な悩み、人間の最も根本的な願いはそんな程度のものではないと分かります。
それは何か?
私たちもこの世界全体も、神によって造られている。その神様による創造のままの姿から見る影もなく落ちてしまっている。聖書はそれを罪と言っているのです。嘘をついた、人の物を盗んだ、それも罪ですが、もっと根本的な意味は、「神から離れている」ということです。
神様は、神から離れたままになって苦しんでいる私たちを、そして呻いているこの世界全体をもとのままに戻そうとして下さっています。
あなたも新しくなりたいですか。人間として本来の姿に戻りたいですか。神から離れたままでいないでください。私たちさえ顔を向ければ、神様はすべてを新しくして下さるのです。
