使徒の働き28章16-31節 「神の御手に守られて」
<子どもたちへ>
皆は、家族でお出かけする時(例えば、東京ディズニーランドに行く場合)どんな手段を使いますか?小川から東京ディズニーランドまで、自転車や歩きで行く人?車でも行けるけれど、たぶん、電車で行くでしょうか。高速バスと言う手段もあるかもしれませんね。
パウロは、イタリアのローマまで行くのに、歩きと船で移動しました。パウロは、神様の福音を伝えるためにローマに行きたいとずっと願っていましたが、なかなか行くことが出来ませんでした。どうしてローマに行く事が決まったのかと言うと、エルサレムでユダヤ人たちの反対を受けて捕まってしまったのです。そこでパウロは、ローマで正しい取り調べを受けたいとお願いしました。こうしてパウロは、ローマに行く事になりました。
移動手段は、船です。けれどもパウロたちが旅をしている途中、船で旅をするには危険な季節になってしまいました。
「百人隊長殿、私は何度も船で旅をしている経験から申し上げます。もう冬になりますので、風が強く吹き船で移動するのは危険な季節となっています。移動は温かい季節になってからが良いと思います。」とパウロは、百人隊長に話しをしました。百人隊長は「う~ん、そうか、しかし船長や船で働く人たちは違う意見を持っているようだ。そして今いる場所は冬を過ごすには適していないので、もう少し進むことにする」と答えました。
こうして百人隊長は、パウロの忠告を無視して、船旅を継続します。するとどうでしょうか。「さっきまで天気が良かったのに、急に雲が出て来たぞ。」「風も強くなってきた」風が吹いてきて船は、操縦が出来なくなり、前に進むことが出来ません。「うわ~~~、波も大きくなって船を飲み込んでしまうぞ。」「このままでは沈んでしまう。船の荷物を全部捨てろ!」みんな大慌てです。何日も太陽も星も見えない日が続くので、自分たちが海のどこにいるのか分かりません。船は、海の中で迷子になってしまいました。パウロたちが乗っている船は、波に打たれボロボロ、いつ壊れてもおかしくない状態になりました。船に乗っている全員が疲れ果ててしまいました。
その時です。パウロが皆を集めて話しをします。「こうなると私は忠告をしました。船は今にでも壊れてしまいそうですが、大丈夫です。私たちは全員助かります。神様が、私が必ずローマ皇帝の前に出ることと、私と一緒にいる皆さんが助かると約束をしてくださいました。」パウロは、神様が約束してくだったことを伝えました。そしてパウロは、続けます。それが今週の聖句です。一緒に読みましょう。
「ですから、皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています。私に語られたことは、そのとおりになるのです。」使徒の働き27章25節。
パウロは、約束して導いてくださる主なる神様を信じていること、神様の言葉は必ずその通りになることを、皆に伝えました。皆パウロに勇気づけられて、食事をして元気を取り戻すことが出来ました。その後、乗っていた船は壊れてしまいましたが、パウロをはじめ全員が助かり、ローマに行く事が出来ました。パウロは、ローマに到着すると番兵付きの家に住むことが出来て、人々を家に招いて、神様の事、イエス様の事を伝えることが出来ました。
パウロを守り導かれた神様は、今も僕たちと一緒にいて守ってくれます。僕たちは神様を信じましょう。神様は、聖書の御言葉で約束してくださっている通りに、僕たちを守り導いてくださいます。
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。パウロは、危険な船の旅の中でも神様を信じて神様の言葉を信頼していました。神様はパウロが信じた通りに導いてくださいました。
僕たちは、神様が聖書の御言葉で約束してくださっている通りに僕たちを助け守ってくださることを信じます。神様、僕たちと一緒にいて守ってください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」
「ですから、皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています。私に語られたことは、そのとおりになるのです。」 使徒の働き27章25節
<適用>
私は、子どもたちの姿、特に幼子の姿を見るとすごいなぁと思うことがあります。赤ちゃんは、親の腕に抱かれてすやすや眠ります。親は、子どもを落とさないようにしっかりと抱っこしています。当然ですよね。赤ちゃんは、どうかと言うと親が腕をどかすことなどないと確信しているかのように信頼しきって眠ります。子どもが歩くようになるとどうなるでしょうか。親と一緒に歩いている子どもは、隣にいる親に黙って手を差し出します。なぜならば、親が自分の手をしっかり握ってくれることを知っているからです。ほんの一例ですが、子どもはこのようにして親の守りとか支えを学び取っていくのだと思います。
神様は、私たちをご自身の御手でしっかりと守ってくださっています。私たちは、そのことをちゃんと知っているでしょうか。
Ⅰ;ローマ行きが決まる
パウロのローマ行きの中には、神様の御手の守りがありました。先週は、使徒19章のエペソでの伝道を学びました。今日は、使徒28章を開いています。「ちょっと進みすぎ」と思ってしまうかもしれません。19章から28章の間に何があったのでしょうか。簡単に流れをみる事にしましょう。
エペソでの働きの後、パウロたちはほかの地域にも伝道に行こうと思いましたが、ユダヤ人の迫害があって予定を切り上げて帰路につきます(使徒20章3節)。パウロは、帰路の中で「御霊に縛られてエルサレムに行きます(使徒20章22節)。」とエペソの長老たちに伝えています。当時は、クリスチャンに対するユダヤ教の迫害が強まるばかりです。特にパウロに対する迫害は、厳しいものでした。エルサレムに到着したパウロは、エルサレム教会の仲間から、パウロに対する根拠のない誹謗中傷があることを聞きました。そしてパウロは、彼らの勧めによってユダヤ人たちが大切にしているしきたりに従って神殿での清めの儀式を行うことにしたのです。ところがエルサレムにパウロがいることを知った、ユダヤ教の人々は、群衆を扇動してパウロを捕らえてしまったのです。エルサレムにいたローマの千人隊長が、神殿での騒ぎを聞きつけて、パウロを確保しました(使徒21章)。使徒22章は、ユダヤ人たちに対するパウロの証しです。使徒24章から26章では、当時のカイサリアにいた総督フェリクスへの弁明があり、パウロはローマ市民として「私はカエサルに上訴します」と主張しました(使徒25章11節)。パウロは、アグリッパ王に対しても自分がどのようにイエス様と出会ったのか、イエス様によって成就した福音がどれほど恵みに満ちているのかを語り続けました(使徒26章)。
こうしてパウロは、ローマに行くことになるのです。けれどもそれは、「いざローマへ!」という意気揚々とした出発とはなりませんでした。それは、思わぬ出来事の連続で、パウロは囚人としてローマに連行されることとなったのです。ローマへの船旅は、先ほど話したように苦労の連続となりました。パウロは、揺れる船の中でただ一人神様を見上げていました。それだけではなく、パウロは神様の約束を信じて、同船していた人々を励まし続けました。人々は、パウロの信じている神様に少なからず感謝し、主を見上げる人も起こされたのではないでしょうか。
でも考えてみてください。パウロは、ローマに行く事が神様の計画であることを確信していました。それならば、問題なくローマに行くことが出来たら良いのにと思ってしまいます。また、パウロの伝道旅行を見ると彼は度重なる困難を経験していました。私たちは、多くの困難や問題に直面することがあり、不安に陥ることもあります。それは、神様の計画が失敗したからでしょうか。神様が私たちを見放したからなのでしょうか。パウロは、何度も困難を経験しながら何と言っているでしょうか。「私は、どんな境遇にあっても満ちたりることを学びました。・・・私は、私を強くしてくださる方によって、どんなこともできるのです。(ピリピ4章11-13節)」パウロは、一つ一つの経験を通して神様を学び、神様の恵みを経験し、どんな状況でも神様は一緒にいて助け導いて下さることを知ったのです。こうして彼は、信仰が強められたのです。
フィリップ・ヤンシーは、その著書「痛むとき、神はどこにいるのか」の中でこのように書いています。「私たちが住んでいる世界は、不完全です。でも、クリスチャンは、神は善であり愛であるということを全面的に信じています。そして、神が愛であることをこの世界が知る唯一の方法が、教会なのです(28頁)。」人々は、苦しみ悩む時、神はどこにいるのかと問いかけ、時に神様を否定します。けれども神様は、その問題の只中にいて共に歩んでくださるのです。これが神様の約束だからです。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています(ローマ8章28節)。」
神様の私たちへの計画は、決して失望で終わる事はありません(エレミヤ29章11節)。かといって問題や困難がなくなるのでもありません。神様は、どのような状況の中にあっても私たちと共にいて、私たちに生きる希望を与えてくださるのです。神様は、あらゆる状況を益として私たちを導いてくださるのです。この神様の約束は、その通りになります。
Ⅱ;ローマから世界へ
ローマでのパウロの生活は、神様の御手に守られていました。それだけではなく、パウロのローマでの伝道と世界へと拡がる福音宣教も神様の御手に守られていました。
ルカは、念願のローマに到着してからのパウロについて詳細を書いていません。ローマには、すでにクリスチャンたちがいました。彼らは、パウロたちを迎えに来てくれたのです(使徒28章15節)。ですから当然、ローマではローマにいるクリスチャンたちと交わりを持ち、礼拝をしたはずなのです。でもルカは、それを書かずユダヤ人たちとの会合を重視しているようなのです。パウロは、ローマにいるユダヤ人の指導者を集めました。そして彼は、自分がローマに来ることになった経緯を簡単に説明しました(使徒28章17-20節)。
パウロの説明に対して、ユダヤ人の指導者たちは直接パウロから聞くことが良いと考えていると話します。そこで彼らは、日を定めて改めてパウロの元に集まりました。パウロは、朝から晩まで、神の国のことやモーセと律法からイエス様について語り、説得しようとしました。神様の愛は、イエス様の十字架のみわざによって明らかにされました。そしてイエス様によって神様の支配が私たちに及ぶのです。
このパウロの説教に対して二つの反応がありました。福音が語られる所では常にある反応です。パウロは、福音を否定する人たちに対して、預言者イザヤの言葉を引用して忠告します(使徒28章26-27節)。厳しい警告の言葉ですが、パウロは、先祖たちが神様に対して心をかたくなにし、御言葉を聞かず、従わず、不信仰になったことを、あなたがたは繰り返してはいけないと伝えたのです。パウロは、心を込めて伝道したことが伺えます。
私たちは、ローマでのパウロの姿をもう少し知りたいと願いますが、ルカは30~31節で唐突に使徒の働きを終わらせています。パウロが2年間自費で借りた家に住んでいたというのは拘留期間のことで、パウロは2年後には釈放され、自由に伝道できるようになりましたが、再び捕らえられ殉教したと考えられます。
パウロのローマでの伝道がどのような結果になったのかについて、パウロはピリピ人への手紙の最後の挨拶の中で「カエサルの家に属するも人たちが、よろしくと言っています(ピリピ4章22節)」と、ローマで信じる人が起こされていたことを触れています。さて皆さんは、ルカが使徒の働きを「少しもはばかることなく、また妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」と締めくくっていることをどのように受け止めるでしょうか。この使徒の働きは、ルカからテオフィロに宛てた文章です。ですから長い文章を締めくくるための言葉があってもよさそうなものです。しかしルカは、それをしていません。
私は、使徒28章30から31節をルカからの私たちへのチャレンジと受けとめることが出来ると考えています。どのようなチャレンジかというと、「パウロは困難な中でもこのように福音を伝えたのだけれど、あなたはどうしていますか?どのように福音を伝えますか?」というチャレンジです。イエス様は、「聖霊があなたがたの上に臨むとき、・・・地の果てまで、わたしの証人となります」と約束されました(使徒1章8節)。その約束は、今でも継続しています。使徒の働きは、現在でも継続していて、私たちは使徒の働きの中に生かされているのです。ルカは、次はあなたの番ですと言っているのではないでしょうか。
パウロの宣教を守り支え導いておられた主なる神様は、今も私たちの宣教を導いておられます。私たちは、パウロと同じように神様の御手に守られて伝道することが出来るのです。
来週からアドベントを迎えます。私たちは、救い主イエス様のお誕生を、喜びをもって人々に伝え、イエス様によって与えられる救いの恵みを証ししましょう。
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。パウロは、常に神様を信じ、神様の導きと御手の守りを信頼して歩んでいました。神様は、どんな時にもパウロと共におられ、宣教の働きを導いて来られました。
神様の御手は、今も私たちに差し伸べられていることを感謝します。私たちは、神様を信じて信頼して歩みます。クリスマスを迎えるこの時、神様の愛と救い主イエス様の恵みが一人でも多くの人の心に届きますように、導いてください。私たちが、救い主イエス様の誕生を心から喜び、証しすることが出来るように力を与えてください。
神様、一人ひとりの日々の歩み、健康を守り、全ての必要を満たしてください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」
