2025年12月7日(日)アドベント第2週 礼拝説教 ルカの福音書1章26-38節 「その名はインマヌエル」 説教者:赤松勇二師

2025年12月7日(日)アドベント第2週 ルカの福音書1章26-38節 「その名はインマヌエル」

<子どもたちへ>
 12月に入りましたね。皆にとって2025年は、どんな一年だったでしょうか。楽しかったこと、嬉しかったこと、驚いたことなどいろいろあったと思います。後で聞かせてくださいね。
 僕は最近驚いたことがあります。僕は道を歩いていて、ちょっとジョギングでもしようと思って、走り始めたのです。そうしたら、なんか走り方がおかしいなぁと感じました。そう、僕は、走り方を忘れてしまったようなのです。皆は、学校で毎日のように走っているでしょう。マラソン大会の練習とかあるからね。でも僕は、久しぶりに走ってみようとしたのです。昔は(もう少し若い時は)、ちゃんと走れたような気がするけれど、今はうまく走れないみたいです。僕は、ジョギングをする前に走り方から練習しないとダメみたいですね。本当にびっくりです。

 マリアの驚きはそんなものではありませんでした。ガリラヤのナザレと言う町にマリアと言う女の人がいました。マリアは、心から神様を信じている人で、ヨセフと結婚の約束をしていて、その日を楽しみにしていました。マリアは、神様に祈りながら結婚に向けて準備をしていた事でしょう。そんなある日、御使いガブリエルがマリアに現れて、「おめでとう、マリア。神様があなたとともにおられます。」と挨拶をするのです。突然の出来事でマリアは、とってもびっくりして、「えっ、いったい何の挨拶なのだろうか?」と考え込んでしまいます。状況が理解できずキョトンとしているマリアに対してみ使いの言葉が続きます。「恐れることはありません。マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」さらに御使いは、マリアから生まれる男の子が、いと高き神の子、救い主だと言うのです。

 マリアにとって御使いの言葉は、耳を疑うような言葉で、まったく理解できませんでした。そしてマリアは、「まだ、結婚していないのにどうして子どもを産むなんて事が起こるのでしょうか」と御使いに尋ねました。ユダヤ人であるマリアにとって、結婚していない自分が赤ちゃんを身ごもることはあってはならないことでした。ユダヤ人の律法では、結婚前に妊娠するようことがあれば、厳しい裁きを受けることになるのです。
 理解できず不思議に思っているマリアに、御使いは「マリアの妊娠は、聖霊がマリアに働き、神様の直接の力によってなされる。」と伝えました。そして、御使いガブリエルは、「神にとって不可能なことは何もありません。」と語るのです。マリアは、御使いの言葉を聞きながら、「神にとって不可能な事は何もない」という言葉を信じました。マリアは、全ての事を可能にする神様が共におられることを信じたのです。

 一方マリアの妊娠を知って驚いた人がいました。結婚の約束をしていたヨセフです。ヨセフは、マリアが子どもを身ごもったことを知ってから「困ったな~。あ~~困ったな」と毎日考え込んでしまいました。そして「結婚前に子どもを身ごもったことが知れ渡ったらマリアは律法によって裁かれてしまう。それではマリアがかわいそうだ」そんなことを考えながら眠りにつきます。するとヨセフはとっても不思議な夢を見ました。御使いが夢に現れて「ヨセフ、恐れなくてもよいのです。マリアは決して間違いを犯してはいません。マリアは、神様の御力によって子どもを宿しています。マリアから生まれる子どもは救い主です。」と教えてくれたのです。そしてその子が「インマヌエル」と呼ばれることも教えてくれました。これは、神様がいつも一緒にいてくれるという約束の言葉です。ヨセフは、神様が一緒にいてくれるなら大丈夫と信じることが出来ました。こうしてヨセフはマリアと心を一つにして、イエス様の誕生の準備を始めました。

 神様は、今も僕たちと一緒にいてくれます。イエス様は、どんな時でも僕たちから離れることはなく、一緒にいて力づけてくださいます。インマヌエルであるイエス様を心にお迎えしましょう。一緒に今週の聖句を読みましょう。
「『その名はインマヌエルと呼ばれる。』それは、訳すと『神が私たちとともにおられる』という意味である。」マタイの福音書1章23節

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様がいつも僕たちと一緒にいてくださることを心から感謝いたします。イエス様を救い主として与えてくださり心からありがとうございます。神様、僕たちの心をクリスマスの喜びで満たしてください。この祈りを救い主イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「『その名はインマヌエルと呼ばれる。』それは、訳すと『神が私たちとともにおられる』という意味である。」              マタイの福音書1章23節

<適用>
 子ども番組で「ピタゴラスイッチ」というテレビ番組があります。その番組の中で「僕のお父さん」という曲が流れる時があります。この曲の歌詞は、「お父さん、お父さん、僕のお父さん 会社へ行くと会社員、仕事をする時課長さん、食堂入るとお客さん、歯医者に行くと患者さん、歩いていると通行人」と続きます。世の中では、行く先々で違う呼ばれ方をされているけれど、家に帰ってくるお父さんは「僕のお父さん」という歌詞です。この曲を聞いて、私も行く先々で違う呼ばれ方をするんだと知りました。皆さんも生活の中で、お客さんになったり、患者さんになったり、運転手になったりしていますよね。
 さて、救い主イエス様について聖書はどのような呼び名を使っているでしょうか。先週ではイザヤ書からいくつかを見ました。救い主イエス様は、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれるお方です。そして今日の箇所では、「その名はインマヌエルと呼ばれる」とあります。その名はインマヌエルと呼ばれるお方(イエス様)について見ていきましょう。

Ⅰ;マリアの戸惑い

 マリアがこの事実を知り確信しました。み使いガブリエルの「救い主預言の成就」の知らせは、マリアを戸惑わせ、恐れさせました。マリアは、御使いガブリエルの挨拶を受けて「ひどく戸惑って、これはいったい何の挨拶かと考え込んだ」しまいました。彼女にとって身に覚えのないことが告げられるわけですから、それは当然のことです。
 「ひどく戸惑った」と訳されている言葉は、「かき乱す」とか「困惑させる」、「恐れる」と言う意味があります。マリアは、御使いの突然の出現と思いもよらぬ挨拶を受けて、心底びっくりし、戸惑ってどうしていいのか分からず、恐れたのです。だからみ使いは、「恐れなくも良い。マリア。・・・」と、彼女の心が神様の御前に整えられるように優しく語りかけるのです。けれども御使いの言葉を聞けば聞くほど、理解を超えることが語られていきます。恐らくマリアは、心臓が飛び出そうなくらい、ドキドキしていたはずです。マリアは、「どうして結婚もしていない自分が、子どもを宿すことなどあるのか。そんなことになったら、自分はユダヤ人の社会では生きていけないのではないか。」と考えました。マリアは、ダビデの家系のヨセフと婚約していました。ユダヤ人の婚約は、結婚を控えた男女にとってすでに夫婦としての拘束力を持っていますから、結婚する前に子どもを宿すことは赦されないことでした。そしてユダヤ社会では、未婚の母はありえないことでした。この時のマリアは、10代前半だったと言われていますので、相当困惑したのではないでしょうか。

 御使いは、丁寧にマリアの信仰に触れるように語ります。マリアの身に起こることは、聖霊によることであり、神様の主権のもとで行われる事であることを説明します。そして御使いがマリアに告げた言葉は(35節)、神様が約束し、ユダヤ人たちが切に願っていたことです。神様は、アブラハムを選び契約を結び、その契約がイサク、ヤコブに受け継がれました。そして神様は、多くの預言者を通して、この祝福の契約が救い主によってもたらされると語られました。そして今、マリアが、その当事者として選ばれているのです。
 マリアにしてみれば、理解しがたいことが次から次へと告げられました。御使いは、マリアの動揺を受け止めつつ最も必要な言葉を語ります。それが37節「神にとって不可能なことは何もありません。」です。全地全能の神様は、ご自身の力を現されるお方です。神様にとって不可能なことはなく、全てが可能なのです。み使いは、この主なる神様が「あなたとともにおられます」とすでに伝えていました。マリアは、この約束「神様には不可能なことは何もない事、そして全てを可能にする神様が共におられること」を信じました。だからこそマリアは、「あなたのおことばとおりこの身になりますように」と言って告白し、従う決心をしたのです。

 今も神様は、様々な事柄に直面する私たちに対して「恐れることはない」と語りかけてくださいます。私たちは、マリアと同じように「神様には不可能なことは何もない」と信じて歩みましょう。

Ⅱ;思わぬ事態の中でも

 その名はインマヌエルのお方は、思わぬ事態の中でも変わらず私たちと共におられるお方です。ヨセフが直面した出来事は、神様から見たら計画通りだと思いますが、ヨセフ(人間)の側から見るとそれは思わぬ事態でしかありません。マタイの福音書1章18-25節を開きましょう。ヨセフは、まさに人生を揺るがす出来事を目の前にしていました。彼は、一人悩むのです。けれども神様は、まさにその思わぬ出来事の中でも共にいてくださいました。

 ヨセフは、マリアと婚約していました。ユダヤ人の婚約期間は、およそ1年あり、その間婚約した二人は法的に夫婦と認められるのです。この婚約期間後に二人は、正式な婚礼によって夫婦となり、二人の生活が始まります。ですからマリアは、婚約期間を両親のもとで過ごしていたのです。しかしこの婚約期間中にあってはならないことが起きてしまいました。マリアが妊娠するという事態が発生したのです。18節には、「身ごもっていることが分かった」とあります。この「分かった」というギリシャ語には、「判明した」という意味もあります。マリアの身に起きたことは、ヨセフにとって予期せぬ出来事です。マリアは、み使いガブリエルが現れたことをヨセフに伝えたことでしょう。でも聖霊による妊娠などヨセフにとって信じられるものではありませんでした。ヨセフにしたらまさに「寝耳に水」「晴天の霹靂」と言った感じです。そしてこのような事態には、早急に対応する必要がありました。
 なぜならば、ユダヤの律法では、姦淫の罪を犯した者は、裁きを受けなければならないという法律があったからです。ヨセフは、ユダヤ人として律法を忠実に守る正しい人でした。その正しさゆえに、婚約者でも姦淫の罪を見過ごすわけにはいかなかったのです。けれどもヨセフは律法に従うという気持ちだけではなく、マリアをさらし者にしたくないという愛も持っていました。ですからヨセフは、表沙汰になる前に解決しなければなりません。人生最大のピンチです。ヨセフは、婚約者のマリアを失うだけではなく、自分自身の人生に対する希望も何もかも失ってしまう可能性がありました。ヨセフの苦悩ぶりを想像することが出来るでしょうか。ヨセフが出した答えは、律法に従って正式に証人を立てて離婚状を作成してマリアと離縁することでした。この方法は、マリアをさらし者にしないですむのです。ヨセフは、律法に従って考え決めていきますが、彼の心の中にはそれでも、どうにかならないだろうかという思いがあったのです。ヨセフは、マリアにとって何が最善かを考え、神様の御心は何かを祈り求めていたのではないでしょうか。「思い巡らす」とは、祈り求めていたと言っても良いのだと思います。ヨセフは、思わぬ事態に遭遇して、主に祈る信仰を持っていました。それが次の段階へと彼を導くことになりました。

 ヨセフが思い巡らしていた時に、御使いが夢の中でヨセフに語ります。何で神様は、もっと早くヨセフに語りかけてくださらなかったのでしょうか。もしかしたら、ヨセフはこんなにも悩む事はなかったかもしれません。けれども私は、ヨセフにとってこの悩みの時間は必要だったと思うのです。ヨセフは、悩み、思い巡らした時間があったからこそ、御使いの言葉を聞いて信じることが出来たのではないでしょうか。もし、マリアが、自分の潔白を訴えてヨセフを説得しようとしたら、ヨセフは耳を傾けなかったでしょう。二人の溝は深まるばかりとなります。そして神様がすぐにヨセフに語りかけたとしても、ヨセフは信じ難いと受け入れられなかったのではないでしょうか。ヨセフにとっては、苦しい経験でしたが、実は、神様の御声を聞き、従うために必要な時間だったのです。
 どうして神様は、マリアによる救い主誕生と言う方法をとられたのでしょうか。救い主が、処女からお生まれになることは、とても大切なことで、キリスト教にとって重要なことです。まず、救い主が人間として誕生するという事が重要なことでした。人間の罪を完全に取り除く救い主の条件は、私たちと同じ人間であることが必要でした。人を通して生まれることでこの条件を満たすことが出来ます。さらに必要なことは、人として来られる救い主は、「罪のない完全な人」であるとことが必要でした。通常の出産で誕生する人ではこの条件を満たすことが出来ません。パウロが言うように、全ての人は、罪があるからです。この条件を満たす唯一の方法が、人が介入することなく「聖霊によって、いと高き方の力によって」実現する、処女降誕という超自然的な神様のみわざなのです。

 このような救いのみわざが実現するためにマリアとヨセフの二人の信仰が必要でした。ヨセフは、信仰を持ちつつも苦悩します。神様は、苦悩するヨセフを見放していたわけではありません。ヨセフが苦悩していた時、神様は共におられ、彼の苦悩をご覧になっていました。そして神様は、一番良い時に、一番良い方法でヨセフに語りかけてくださったのです。神様は、私たちと共におられます。私たちは、何か思わぬ出来事に直面する時、何を考え、どんな感情を持つでしょうか。「神様がいるならどうしてこのようなことが起こるのか。神様は何をしているのか」など不平不満な思いが心に渦巻くでしょうか。そのような感情は避けられないかもしれません。しかしヨセフの経験は、神様がどんな時も私たちと共にいてくださると教えています。思わぬ事態の中にあっても、神様は私たちと共におられます。
 その名は、インマヌエルであられる救い主イエス様は、いつでも、どんな時でも私たちと共におられます。

<祈り>
「天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。マリアとヨセフは、思いもよらない事態に遭遇し、戸惑い恐れ困惑しました。けれども神様は、マリアとヨセフを励まし力づけておられました。そしてマリアもヨセフも主なる神様を信じて前進することが出来ました。
 私たちは、神様には不可能なことは何もないと信じます。神様は、全ての事が可能であり、全てを導いておられます。私たちは、イエス様がインマヌエルと呼ばれるお方であると信じます。イエス様は、いつでもどんな状況にあっても私たちを共にいてくださり、最善をしてくださると信じます。イエス様が、私たちのためにお生まれくださり、救いを与え、恵みを与えてくださることを信じます。
 神様、私たち一人一人の毎日の歩みを導いてください。何時も励ましの御手を差し伸べてください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。」