2025年12月14日(日)アドベント第3週 ルカの福音書2章1-20節 「あなたのための降誕」
<子どもたちへ>
クリスマスシーズンになりました。買い物に行くと、あちこちでクリスマスソングが聞こえてきます。有名な「赤鼻のトナカイ」という曲がありますが、あるお店で聴いたことのないバージョンの赤鼻のトナカイがかかっていました。「暗い夜道はピカピカのお前の鼻が役に立つのさ」というサビのところが、「親のない子もエス様は 守ってくれる 元気を出して」となっているのです。赤鼻のトナカイにはトナカイとサンタさんしか出てこないな、と思っていましたが、このバージョンには「イエス様が出てくる!」と嬉しくなりました。世の中のクリスマスはにぎやかですが、それはイエス様が登場しないクリスマスです。イエス様が真ん中にいる、本当のクリスマスは、心に元気をくれるものです。毎年聞いているお話ですが、本物のクリスマスのお話に耳を傾けていきましょう。
この人たちはマリアとヨセフ。2人は遠いベツレヘムに向かって旅をしています。役所に自分たちの名前を登録するのです。でももうすぐ赤ちゃんが生まれるのですから、大変な旅です。「大丈夫かいマリア。苦しくないかい?」ヨセフがマリアに聞きました。「大丈夫よ、ヨセフ」。2人は何日もかかってようやくベツレヘムにつきました。
「ごめんください。泊めてもらえませんか?」何軒も訪ねて回りましたが、どこも旅人でいっぱいです。「ごめんよ、うちは満員だ。他に行っておくれ」。ヨセフは困って町の人に頼みました。「妻のお腹には赤ちゃんがいるのです。どこでもいいので泊めてください。」「家畜小屋で良かったら使っていいよ。」それで2人は家畜小屋に泊めてもらいました。
ベツレヘムにいる間に、マリアは元気な男の赤ちゃんを産みました。この赤ちゃんこそ、イエス様です。イエス様は布にくるまれて「飼い葉おけ」(動物のエサ入れ)に寝かされました。動物たちの鳴き声とにおいの中で、イエス様は生まれたのです。
その夜、ベツレヘムの野原で羊飼いたちが羊を見守っていました。すると突然まぶしい光が輝いて、み使いが現れました。羊飼いたちはこわくて震えあがりました。するとみ使いが言いました。「怖がることはありません。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」するとたくさんのみ使いが現れて賛美の歌を歌いました。「天では神様に栄光がありますように。地上で平和が、みこころにかなう人たちにありますように。」こうしてみ使いは天に帰って行きました。
羊飼いたちは顔を見合わせて言いました。「救い主が生まれたって!」、「み使いが知らせてくれたことを見てこよう!」
羊飼いたちはベツレヘムに行って、家畜小屋を一軒一軒見て回りました。そしてついに、飼い葉おけに寝ている赤ちゃんをみつけました。「この赤ちゃんが救い主なんだね!」そういうと、大喜びで神様を礼拝しました。これが本物のクリスマスのお話です。
皆さん、羊飼いたちは、世の中では無視されたり馬鹿にされたりすることが多かったそうです。でも羊飼いたちは、神様が救い主の誕生を教えてくれた、とわかって本当にうれしくなりました。神様に愛されて罪から救ってもらえる、とわかったからです。
今日のみことばを読みましょう。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3章16節)
クリスマス、それは神様が愛を示してくれた恵みの時です。神様が羊飼いだけでなく私たちも愛してくれていることを、心にとめましょう。それは罪をゆるして、祝福と永遠のいのちを与えるため、と書いてあります。救い主イエス様、というプレゼントを贈って下さったのですから、「信じます」とお答えして受け取って行きましょう。
<祈り>
「神様、救い主イエス様が生まれてこられたことを感謝します。私たちもイエス様を心にお迎えして、羊飼いのように喜びながら歩んでいきたいです。神様に愛されていることを信じます。どうか一人ひとりの心にイエス様が来てくださって、罪のゆるしと永遠のいのちを受けることが出来ますように。イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。」
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
ヨハネの福音書3章16節
<適用>
町ではクリスマスの飾りつけやイルミネーションが目につく季節です。職場の人たちとの会話にも、ケーキはどうする?ツリーは飾る?などが当たり前のように出てきます。クリスチャンかどうかは関係なく、祝って当たり前なのがクリスマス、となっているようです。
しかし、「私たちは一体何を祝っているんだろうか」と考えたことはあるでしょうか。「キリストの誕生日を信者が祝っているのでは?」と考える人もいるでしょう。
これは正解でもありますが、不正解でもあります。確かにクリスマスはイエス様のお誕生を祝います。その意味では正解です。
けれどもイエス様を祝福するのがクリスマスか?と言えば、少し違います。イエス様は「あなたがたのために」生まれた、と言われています。キリストの誕生は、イエス様を祝ってあげるものでなく、神様から私たちへの祝福を喜び感謝するお祝いなのです。お互いへの神様の恵みを見て「おめでとう」と声を掛け合うのがクリスマスです。
今日は3つの点から、私たちのための降誕の恵みを学んで参りたいと思います。
1.神が人となられた降誕
まず覚えたいのは、神の御子が人として生まれて下さった、ということです。
先ほど見ましたように、ベツレヘムでマリアは男の子を産みました。「ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」(2:6-7)。
飼葉桶があったことから動物が飼育された場所が産屋だったと思われます。それは洞窟とも、民家の一画の家畜小屋とも言われています。マリアとヨセフの信仰と愛、手助けした人たちの善意と祝福はあったでしょうが、当時としても決して恵まれているとは言えない出産でした。
しかし皆さん。この時生まれてイエスと名付けられた赤ちゃんは、受胎告知の時にこう言われていました。「それゆえ生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます」(1:35)。イエス様は神の子である、と聖書ははっきり語っています。
更に使徒ヨハネはこう言いました。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である」(ヨハネ1:14)。ことば、とはイエス様のことです。「ことばは神であった」(1:1)と言われています。
これらのことから何が分かるでしょうか。イエス様は神のひとり子であるのに、その栄光を捨てて貧しく弱い人間の赤ん坊として、この世に生まれて下さったということです。この後見て行きますが、そうしなければならない神のご計画があったからです。栄光を捨てる、ということの中に、私たちへの愛と恵みがあります。誰彼のためではない、私たちのための降誕の恵みです。受け取って欲しいと願っておられる神様に、今日心を開き向き合わせて頂きましょう。
2.小さき者のための降誕
2つ目に覚えたいのは、降誕の恵みは小さき者のためだ、ということです。その代表とも言える羊飼いが、世界で最初に救い主誕生の御告げを受けた様子を見て参りましょう。
「さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」(2:8-9)。
羊飼いたちはユダヤ人社会、特に神殿礼拝に欠かせない羊の飼育を仕事としていました。彼らがいてこそ社会が回るというのに、ユダヤ人の中で羊飼いはさげすまれていたと言います。すなわち動物の世話のため安息日や儀式を守れなかったからです。さらには普段通りの仕事をしていたことから、住民登録の対象にもされていなかったことがわかります。
しかし、救い主誕生を世界で最初に聴いたのは、この羊飼いたちでした。羊飼いに代表される、疎外され無視され、みじめさすら味わっていた人たちにこそ、真っ先にこのメッセージが必要な人たちでした。御使いは告げます。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」(2:11)。
「あなたがたのために」という言葉には希望があります。立派な仕事のある人、家庭がうまくいっている人、思い描いたような進路を切り開けた人、そうした成功した人であることは、神の恵みを受ける条件ではありません。人はみな神の前に罪人であり、すべての痛みと苦しみ、最終的な滅びが罪からくる報酬です。神様はそんな小さき罪人に目を注ぎ、恵みを与えることを決心しておられるのです。
2:12にはこうもあります。「あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです」。
「あなたがたのためのしるし」と言われた飼葉桶は、家畜が飼育される場所にありました。イエス様が粗末な場に生まれて来られたので、貧しく汚れた服を着た羊飼いでも訪ねていくことが出来ました。また家畜がエサを食べる飼葉桶は、衛生的なものではありません。そこに神の御子が寝かされたことを覚える時、罪に汚れた私たちもイエス様に近づく勇気が与えられるのです。
神様はこのように「あなたのために」「わたしのために」、救い主イエス様の誕生を備えて下さいました。罪深く不完全な自分であったとしても、人生に後悔や失敗が続いていたとしても、私たちを神様は深く愛してイエス様を贈って下さったのです。恐れることはありません。羊飼いたちがイエス様を捜し出して喜びに溢れたように、私たちもイエス様の前に出て信仰を捧げるなら喜びを頂けるのです。
3.罪の赦しと永遠のいのちのための降誕
最後にこの降誕の恵みは罪の赦しと永遠のいのちのためであることを見て参りましょう。
本日の中心聖句はヨハネ3:16です。このみことばは降誕の意味を深く教えてくれています。ご一緒にお読みしましょう。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3章16節)
神がひとり子を与えて下さったのは何故でしょうか。クリスマスカラーと言われる色がありますが、それと重ねて考えたいと思います。真っ先に思い浮かぶのは赤です。これはイエス様がやがて十字架で流すことになる血潮を表しています。イエス様は本来罪人が受けるべき神の裁きを身代わりに受け、十字架で死なれます。罪のない神のひとり子にしか引き受けられない役割です。ですからクリスマスには命を捨てて赦して下さるイエス様と、ひとり子を惜しまず与えて下さった神の愛を覚えたいのです。
また、緑もクリスマスカラーですが、これは永遠のいのちを表しています。今年の猛暑では街路樹や山の木すらも枯れました。常緑樹であっても不死ではありません。しかし、救い主が下さるのは「永遠のいのち」だと約束されています。肉体はいつか滅んでも、私たちの存在はさばきを免れ「永遠」に神と共にあることが出来る、というのです。人知を超えた教えですが、罪と死の暗闇で終わらない、救いの世界に神は招いて下さいました。クリスマスに来られた救い主によって、私たちは驚くべき恵みを与えられました。受け取るための条件はただ一つです。「御子を信じる者」となることです。イエス様を救い主として信じお受入れする信仰を、それぞれが表明しようではありませんか。
クリスマスカラーを目にする時、神様が「あなたのために」と愛をこめて差し出して下さっている罪の赦しと永遠のいのちの恵みを、今一度感謝しほめたたえて参りましょう。
<祈り>
「神様、わたしたちのためのご降誕の恵みをありがとうございます。あなたは羊飼いを選び、最初に降誕を知らせて下さいました。
小さき者にこそ目を留め恵みに招いて下さることを感謝いたします。十字架で血潮を流して罪から救い、永遠のいのちを与えて下さる驚くべき恵みをありがとうございます。恐れずにこの恵みを受け取る者となりたく願います。どうぞイエス様への信仰に堅く立って、あなたを賛美しながら歩み続けられますようお導き下さい。イエスさまの御名によってお祈りします。アーメン。」
