2026年1月1日(木)新年礼拝 マタイの福音書7章7-11節 「求め続ける信仰」 説教者:赤松勇二師

2026年1月1日(木)新年礼拝 マタイの福音書7-11節 「求め続ける信仰」

 新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。2025年最後の礼拝から4日しか経っていませんが、皆さんは、どのような年末を過ごされたでしょうか。家の片づけや掃除、新年の食事の準備など忙しく過ごされたかもしれません。あっという間に年末になり新年を迎えるといった具合かもしれません。新しく始まった2026年が、神様の恵みに溢れますようにと祈ります。
 「継続は力なり」と言います。小さなことでも続けていくことで大きな力になると言うことです。皆さんは、一年を始めるにあたり何か目標というか抱負などあるでしょうか。そのことのために一つひとつのことが積みあがっていくように願います。
 私たちは、信仰の歩みにおいても継続は力です。神様を礼拝し続けること、祈り続けること、賛美し続けること、伝道し続けること、その一つ一つが私たちの信仰の成長につながっていきます。2026年の新年礼拝のためにマタイの福音書7章7-11節を開きました。私たちは、この一年を「求め続け、探し続け、たたき続ける信仰」をもって歩みましょう。この三つのことをまとめて「求め続ける信仰」と言う題をつけさせていただきました。

 Ⅰ;神様は与えてくださいます

 私たちは、求め続ける信仰をもって歩みましょう。神様は、与えてくださいます。イエス様は「求めなさい。探しなさい。たたきなさい。」と言われました。この言葉のギリシャ語の意味は、「~し続けなさい」という命令となっています。イエス様は、「求め続けなさい。探し続けなさい。たたき続けなさい」と言っておられるのです。そうすれば私たちは、与えられ、見つけ出し、開かれるのです。神様は確かに与えてくださるのです。しかも「誰でも」です。今日初めて神様を知った人でも、クリスチャンとして長年人生を過ごしてきた人でも、おとなでも子ども、年齢、性別、人種など何の区別なく誰でも受けることが出来るのです。神様は、一人一人の祈りに応じてくださるお方です。
 では神様は、私たちの祈りで左右されるお方なのでしょうか。私たちの祈りを聞かないと、神様は私たちに何も与えることが出来ないのでしょうか。決してそんなことはありません。神様はこの世界と人間を造られたお方です。神様は、私たちの全てをよく知っておられます。神様は、私たちが祈る前から、私たちのことを知っていてくださいます。「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。(マタイ6章8節)」
 とすれば、私たちに祈ることが勧められているのは何故なのでしょうか。私たちの祈りは、天の父なる神様との交わりです。祈りを通して、私たちは自分の願いを語り、神様の導きを知るという親しい関係を持つことが出来ます。

 親は子どものことを知っていて、ある程度何が必要なのかを知っています。でもすぐに手を差し伸べることはしません。子どもが自分で考え、自分の必要に気が付くのを待っているものです。親が先回りして何でも与えてしまえば、子どもは考えることも忍耐することもせず、自立を妨げることとなってしますでしょう。子どもは、自分で考え、そして親に助けを求めます。これが親と子の大切なコミュニケーションの一つとなります。親はすぐに求めに応じることもあれば、駄目だと言う時もあります。時には、少し時間をおきさらに子どもに考えさせることもあります。そのような中で子どもは求め続けますが、本当に自分に必要なことは何かを考え続けることにもなるのです。
 それと同じことを私たちは、神様との関係でしているのです。私たちは様々な願いを持ち、計画を立てます。それを「祈り」という手段で神様に求めます。神様は、すぐに応じてくださる時とそうではない時があります。私たちは、祈り続けることによって、自分の願いと神様のお考え、神様が本当はどのように導こうとされているのかを思い巡らすことになります。これが神様との親しい交わりとなります。天の父なる神様は、私たちの求めに応じて答え、御手を指し伸ばしてくださいます。

 ただ一つ重要な点があります。それは神様の御心が実現することを願いながら、求め、探し、たたくと言うことです。ヤコブ4章2-3節でこのように言われています。「あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。」
 私たちが、自分の快楽や自己実現ではなく、心から神様を信頼し、私たちが神様の御心に従って歩むことを祈り求める時、神様は私たちに祝福を与えてくださいます。

Ⅱ;何を求め、探し、たたくのか

 私たちは、求め続ける信仰をもって歩みましょう。私たちは、何を求め、探し、たたくのでしょうか。
 まず、私たちが求め続けるもの、それは、マタイ6章33節です。「まず、神の国と神の義を求めなさい。そすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」です。私たちが求めるもの、それは、神の国と神の義です。「神の国」とは、神様の支配と言う言い方も出来ると思います。私たちは、私たち自身の心、考え、行動、言葉等の全てが神様の支配を受け、神様の喜ばれる道を進むことが出来るように求めましょう。「神の義」とは、神様の正しさとか、神様の救いの恵みと言うことも出来るのではないでしょうか。私たちは、神様の正しさを知り、神様の救いを受け、神様を礼拝して歩むことを求めるのです。
 そうすれば、神様は、私たちに必要なものをすべて与えてくださると約束されています。なぜならば、神様は、私たちが神の国と神の義を求めることを喜ばれるからです。

 私たちは何を探すのでしょうか。私たちは、神様ご自身を探すようにと勧められています。「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見出す。(箴言8章17節)」、「あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける(エレミヤ29章13節)」
 「神様を探す」って不思議な言い方と思うかもしれません。神様は、探さないと見つけることが出来ないお方なのでしょうか。神様は、私たちが必死になって探さないと一緒にいてくださらないのでしょうか。決してそんなことはありません。昨年のクリスマスの時に見たように、神様はインマヌエルのお方、いつも共におられるお方です。ではなぜ、探すと見出すと言われるのでしょうか。神様は、私たちと共にいてくださり、決して見放すことはなさいません。しかし、私たちは、神様を見失うことがあります。

 5人兄弟の私は、いつもおやつは5人で分け合っていました(小さなお菓子でも5等分です)。しかし時々、一人一つお菓子がもらえる時がありました。私は、自分の分をしっかり手に持って食べていました。そうしたら、なんと自分のお菓子がないのです。私は、「自分のがない、誰が取った?」と必死に探し回りました。私は、左手にお菓子を持ち、右手で探していたのです。私は、眼鏡を使用していますが、時々眼鏡を頭の上にのせていることがあります。私は、眼鏡を頭の上に乗せたことを忘れて、眼鏡を必死になって探し回ることがあります。
 あるはずのものが「ない」と思い始めると、私たちはあるはずのものが見えなくなります。そして「あるはずのものがない」という勘違いに捕らわれてしまいます。私たちの人生は山あり谷ありです。いつも平坦ということはなく、困難や問題や悩みという山があり、物事がうまくいかず転落してしまうような谷を経験することもあります。実は、そのような現実が私たちの心の目を遮ってしまい、共にいてくださる神様を見えなくしてしまうのです。
 だからもし、私たちが目の前の現実にばかりに心が集中してしまうような時、「ひとり孤独に悩む」のではなく、神様を探しましょう。私たちが、神様の臨在を求めて探し続けるなら、私たちは、どんな時にも常に共にいて導いてくださる神様の恵みを体験することが出来ます。

 私たちは、何をたたき続けるのでしょうか。それは、伝道の扉です。イエス様は、弟子たちに言われました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい(マタイ9章37-38節)。」
 今は、福音宣教が難しい時代と言われるようになりました。日本では、かつて教会に人々がたくさん集まっていた時代がありました。ベビーブームと言われた時代、子どもの数が爆発的に増え、教会学校にも子どもたちが何十人も集まり、伝道集会をするとたくさんの人が集まり、救われる人たちが大勢いました。しかし今は、子どもたちの人数が減り、教会学校の人数も減っています。伝道集会をしても新しい人が集まらないということがあります。何が違うのでしょうか。今は、人々の心を満たす娯楽がたくさんあり、欲望を刺激するものが溢れているから、人々が神様に心を向けることが少ないと言われています。それは、事実だと思います。しかし、イエス様の時代と今は少しも変わっていないのです。イエス様の時も現在も「収穫は多い」のです。神様に心を向ける人が少ないと言うことは、救われるべき人が多くいると言うことだからです。しかし私たちは、伝道が難しいと思うのも事実です。私たちは、教会が建てられている地域の人々への伝道、友だちへの伝道、家族や親族への伝道など課題がたくさんあります。私たちは、どこから手を付けたらよいのでしょうか。

 イエス様は、「収穫の主に働き手を送ってくださるように祈りなさい」と言われます。そうです私たちは、働き手を送ってくださいと求めることが出来ます。そして私たちは、伝道の扉を開けてくださいとたたき続けることが出来ます。私たちが、信仰をもってたたき続けるならば、神様は伝道の戸を一つ、また一つを開けてくださるのです。
 最後にマタイ7章7節の御言葉を信仰の宣言として一緒に読みましょう。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」
 私たちは、神の国と神の義を求め続けましょう。神様は、私たちのことを喜び、必要なすべてを与えてくださいます。私たちは、どんな時にも神様の臨在を探し続けましょう。たとえ逆境の時も私たちはすぐ側にいる神様の臨在を見出すことが出来ます。私たちは、伝道の扉が開かれるようにたたき続けましょう。神様は、必ず開いてくださいます。

<祈り>
 「天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。2025年の歩みを守ってくださったことを感謝いたします。神様、新しく始まった2026年の歩みを導いてください。
 私たちは、神の国と神の義を求め続け、いつでもすぐ側にいてくださる神様の臨在を探し続け、伝道の扉が開くようにたたき続けます。私たちは、神様が必要の全てを与えてくださり、神様の臨在の恵みが与えられ、神様によって伝道の扉が開くことを信じます。
 神様、お一人ひとりの2026年の歩みを導いてください。仕事を祝福し、経済を祝福してください。一人ひとりの健康を守ってください。私たちの家族や親族が、神様を信じる信仰へと導かれますようにとお願いします。
 神様、世界から戦争や紛争がなくなり、神様の平和に包まれるようにとお願いいたします。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」