2026年1月11日(日)礼拝説教 ダニエル書6章6-24節 「獅子の口をふさぐお方」
<子どもたちへ>
先週のお話はダニエルと3人の友達の話でしたね。まだ少年だったけれど、連れて行かれた外国で精一杯神様を第一にしていましたね。
今日はその続きです。と言っても、何十年も後のことで、ダニエルはこの通りのおじいさんになりました。子どもの頃に連れてこられたバビロニアの国は、もっと強いペルシャの国に支配されました。ペルシャの王様は、知恵があるダニエルを頼りにしていつも相談します。「ダニエル、これはどうしたらよいと思うか?」「はい王様、こうしたらいかがでしょう」。ダニエルは神様から知恵を頂いていました。それで誰よりも優秀だったのです。そんなダニエルを良く思わない人たちがいました。他の大臣たちです。「ダニエルの悪口をいいつけてやろう!」そう思ってみていますが、何もみつかりません。それで大臣たちは悪だくみをはじめました。
「王様、あなたは本当にすばらしくて、神様のようなお方です。これから30日間は王様以外にお祈りしたらいけない、もし破ったらライオンの穴に投げ込む、という決まりです。いかがですか?」ニヤリ。
王様はよく考えないで「よいだろう」と許可しました。それでこれは変えることの出来ない法律となったのです。
こんな困った法律が出来たのを聞いたダニエルはどうしたでしょうか。家に帰って、窓の開いた部屋に行きました。子どもの頃離れたふるさとエルサレムの方向に、窓は開いています。みことばを読みましょう。「彼は以前からしていたように、日に三度ひざまずき、自分の神の前に祈って感謝をささげていた。」ダニエル書6章10節
ダニエルは、「お祈りしてはいけない」という法律よりも、「いつも通り」「神様に感謝のお祈りをする」ことを大切にしたのです。
ところがこれを見張っていた大臣たちは、王様のところに行って言いつけました。「王様、ダニエルは自分の神にお祈りしましたよ。法律違反ですからライオンの穴に放り込んでください!」。そう言って王様を困らせました。「何とかダニエルを助けたい」と思った王様は色々手を尽くしました。でもどうすることも出来ず、ダニエルはとうとうお腹を空かせたライオンのいる穴に入れられてしまいました。「ダニエル…あなたの神様が助けて下さるように…。」王様はそう言うしかありませんでした。
夜が明けて、王様はダニエルのところに急いでいきました。心配で夜も眠れなかったのです。「ダニエル!神様はお前を助けてくれたか?」するとどうでしょう、穴から声がしました。「王様、私は無事です。神様が守ってくれたので、ライオンは私を襲ったりしませんでした。私は神様にも王様にも悪いことをしていません」。王様は大喜びです。そして王様とダニエルを罠にかけた悪い大臣たちをライオンの穴に放りこませました。そして国中に手紙を書きました。「ダニエルの神こそ本当の神である」。そう知らせたそうです。
ペルシャの王様にこう言わせた「ダニエルの神」は私たちが信じる神さまです。神様は信じる人たちをいつも心にかけて心配し、守って下さるお方です。私たちも神様に信頼してお祈りしていきましょうね。
<祈り>
「神様、今年も聖書を学び始めました。この1年もしっかりみことばを学び、神さまの側から離れずに歩めますようお守り下さい。ダニエルのように困ったとき、いつもの通り神様にお祈りして乗り越えていけますように。どんなことでも出来るあなたをしっかり信じていけますように。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン」
「彼は以前からしていたように、日に三度ひざまずき、自分の神の前に祈って感謝をささげていた。」 ダニエル書6章10節
<適用>
昨年の秋は、日本列島のあちこちで熊の出没が報道されました。露天風呂で人を襲ったとか、住宅街で柿を食べていたとか、はては銀行の支店やスーパーの鮮魚コーナーに入り込んだなど、びっくりするニュースが多くありました。
そうかと思うとこの小川町でも熊出没情報はありました。私の勤務している小川町ひばり台で熊らしき動物が目撃された、と報道がされました。利用している駐車場もすっぽりそのエリアに入りますので、しばらくの間は熊鈴を持ち歩いておりました。野生動物の存在をあらためて意識させられ、会ったらどうしよう、会いたくないな、と憂鬱な気持ちで過ごしました。
ダニエルの直面した獅子の穴に投げ込まれる、という試練は想像を絶するものです。かつて「熊は時期を間違えなければ人を襲わない」と考えて熊の出没エリアでキャンプをした人がいたとのことですが、やはり襲われてしまったといいます。飢えた獅子に対しては、そんな油断をする人はいないでしょう。獅子の穴に陥れば命を落とすことは必定です。しかしその獅子の口をふさいでダニエルを守った神さまに注目をしたいと思います。
ダニエル書1章から6章は数十年の時間の幅があるものと考えられています。それはバビロン捕囚からエルサレム帰還までが70年、ということで、ちょうどそれくらいの年数をダニエルが異国で過ごしたと考えられるからです。10代の少年だったダニエルも、時間的な幅を見て50年後とすれば60代、字義通り70年後とすれば80代の老年期になっています。もしかしたら信仰の友シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴのうち何人かは召天しているかもしれません。
活躍した信仰者の晩年に大きな試みが与えられた、という側面が今日の箇所にはあります。しかしながらダニエルは、不思議なくらい動じることなくこの試練を乗り越えて行きました。今日は試みを乗り越えていくために大切なことを、3つの点から学んで参りたいと思います。
1.決して変わらぬお方
まず覚えたいのは、私たちの神様は「決して変わらぬお方である」ということです。
ダニエルが生きたのは国の勃興の激しい時代でした。1章にはダニエルのふるさとユダが滅ぼされ、バビロン捕囚の憂き目にあったとありました。少し整理しておくと、新バビロニアというのが国名、バビロンはその首都です。カルデア人が建国し、ネブカデネツァル王の時に最盛期を迎えました。
しかし5:30-31にはこうあります。「その夜、カルデア人の王ベルシャツアルは殺された。そしてメディア人ダレイオスが、およそ六十二歳でその国を受け継いだ」。
何が起きたのでしょうか。ネブカデネツァルより時代が下って、新バビロニアがメディアとペルシャの連合国に征服されたというのです。この帝国はメド・ペルシャとかアケメネス朝ペルシャと呼ばれたりしています。インドからエジプト、エチオピアに至る世界帝国となり、聖書の舞台もこのペルシャに移ります。
ダニエルもまた仕える国、仕える王が変わりました。また、前回のお話はバビロンが舞台でしたが、恐らくこの6章ではペルシャの複数の都の1つ、スサに移っているものと思われます。このあとエステルもネヘミヤもスサの城を舞台として登場してきます。時代は大きく動いたのです。
こういう時代だからこそ、でしょうか。ダニエルは30日間祈りが禁じられた時も動じず、「以前からしているように」まことの神への感謝の祈りを捧げ続けました。本日のみことばの前に大切な一文があります。「その屋上の部屋はエルサレムの方角に窓が開いていた」。ダニエルの心の思いはぶれることなくイスラエルの神、主に向かい続けていた、ということです。
埼玉県の中学生が受ける学力テストに「北辰テスト」があります。埼玉県特有のテストで、多くの受験生が全体の中でどれくらいに位置しているか学力を知るために受験します。この北辰という言葉ですが、「北極星」の別名でもあります。北極星は真北にあって動かないように見えることから、夜に方角を知るための目印として、航海などで昔から親しまれてきました。変わらない、動かないものがあってこそ、今自分がいる位置がわかる、ということです。
私たちの人生の歩みにも、不動の北極星が必要です。でなければすべての物が移り変わる中で、私たちはどこに向かっていいのか道を見失い迷ってしまいます。神さまとそのみことばを私たちの中心に据え続けることが私たちを守り支えます。「以前からしていたように」とは地味な営みです。しかしならが神に向かうその地道な祈りの生活が、ダニエルを支えたのです。
移り行くものを追いかけてぶれてはいけません。決して変わらぬお方、私たちの造り主にして愛して下さる神をしっかり見上げて参りましょう。
2.不可能のないお方
2つ目に覚えたいのは、神様は不可能のないお方だ、ということです。大帝国に君臨するダレイオス王ですが、ダニエルのことでは窮地に陥りました。王以外に祈るものは獅子の穴に投げ込む、という法律が王をも縛ることになったからです。14節「このことを聞いて王は非常に憂い、ダニエルを救おうと気遣った。そして彼を助けだそうと、日没まで手を尽くした。」しかしどうなったか。「法は変えられない」と策略者にあげつらわれて、「お前がいつも仕えている神が、お前をお救いになるように」(16節)という他ありませんでした。
皮肉なのは、王が自分の無力に気づいた時、自然とダニエルの神への祈りが口をついた、ということです。いかなる権力があっても人は全能ではありません。王は一晩中断食をしましたが、これは祈りを捧げ祈願していたと捉えてよいでしょう。ただ一人、まことの神様のみがすべてを支配しておられることを私たちも覚える必要があります。
早朝にかけつけた王に穴から答えたダニエルの言葉を見ましょう。22節「私の神がみ使いを贈り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の危害も加えませんでした。それは、神の前に私が潔白であることが認められたからです。」飢えた獅子の口をふさいでダニエルを守る、というのは神様の奇跡です。獅子は寝ていたのでも満腹だったのでもありません。神の意志のもと、危害を加えぬようその口がふさがれたのです。
ダニエル書3章には、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴたち、ダニエルの友が偶像礼拝を拒否して燃える炉に投げ込まれた様子が記されています。その時3人が刑に処されたのに4人目の神々の子のようなお方が見えた、と聖書は記します。火の害はなく髪も焦げず、火のにおいもせずに彼らは炉から出てきました。3人の友は3:17-18「私たちが仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。…しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません」と答えていました。
この友らの信仰がダニエルを大いに励ましていたことでしょう。神に不可能はなく、信じ従うものに大いに恵みを施して下さる方だ、と言う確信がそこにあります。
と同時に「たとえそうでなくても」神に従う、という委ねる信仰が彼らにはありました。御心なら奇跡すらなされると堅く信じ、委ねる。この両輪を私たちも持たせて頂けるよう祈って参りましょう。
3.心を寄せて下さるお方
最期に覚えたいのは、神様は私たちの弱さに心を寄せて下さるお方だ、ということです。私たちは孤独な信仰の戦いに放り込まれたのではないのです。
獅子の口から救い出されたのはダニエルが特別だったからでしょうか。先ほども見たように22節「それは、神の前に私が潔白であることが認められたからです。王よ、あなたに対しても、私は何も悪いことはしていません。」とダニエルは言いました。神の前に潔白、というのは、罪を犯したことがない、という意味ではありません。ダニエルもまた罪人なのは論を待ちません。神への祈りを途絶えさせない、偶像礼拝に陥らない、という点でダニエルの行動は神のみこころに叶っていたし、王に対しても罪となるものではない、という意味でしょう。
しかしながら、ダニエルの信仰と人格がすぐれていたことは明白です。どうしても自分とダニエルを比べてしまうものです。神の前に胸を張れる信者でなければ神は助けて下さらないとしたら、私たちには絶望しかありません。しかし私たちは自己義認で胸を張るのでなく、むしろ神の憐れみを謙遜に求める者であることが大切です。私たち弱き者に心を寄せ、とりなしの祈りをして下さるお方、イエス様により頼むのです。
へブル7:25にはこうあります。「イエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」
イエス様もダニエルのように妬みによって捕らえられ、獅子の穴ならぬ十字架刑に処せられました。しかもイエス様には「たとえそうでなくても」の道、十字架の死の道が与えられました。それは私たち罪人を義とするためです。ダニエルのようになれない私たちも、イエス様の救いを受けるなら、父なる神様の御恵みを受け取ることが出来るのです。
更には私たちのために聖霊が取りなしていて下さいます。ローマ8:26「同じように御霊も、弱い私たちを助けて下さいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです」。
獅子の穴に入らねばならないような経験をする時、私たちは寄り添ってとりなしの祈りをして下さっているイエス様と聖霊様を思い出しましょう。ピンチにこそ神が働かれる舞台があることを覚え、神のご栄光をほめたたえることが出来るよう、互いのために祈って参りましょう。
<祈り>
「天の父なる神様。ダニエルを獅子の穴から救い出されたあなた様のみわざを学ぶことが出来、ありがとうございました。ダニエルのように常に変わらぬあなたに心の軸をしっかりと向け続けていきたいと願います。また不可能のないあなた様への信仰に堅く立ちつつ、「たとえそうでなくても」従い通す信仰を、どうぞお与え下さい。自分の弱さに足がすくむとき、イエス様が寄り添っていて下さること、御霊様がとりなしていて下さることを覚え、孤独な戦いでは決してないことを思い出し続けられますように。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。」
