2026年3月1日(日)礼拝説教 ヨハネの福音書13章1-15節 「注がれている愛」
<子どもたちへ>
今、「シール帳」が流行っていますね。たくさんの人たちがシールを集めています。自分だけで集めるのではなく、お友だちとシール交換をしていたりするようですね。そのようにして自分の好きなものを友だちと楽しんでいるようです。
イエス様は、十字架を前にしてご自分の愛を弟子たちに教えてくださいました。イエス様は、ろばの子に乗ってエルサレムに入城されました。その後、宮きよめを行われました。それは、イエス様が十字架につけられる一週間目の出来事でした。それからしばらくしてイエス様は、二人の弟子たちをエルサレムに遣わして、過越しの食事の準備をさせました。過越しの祭りは、ユダヤ人たちにとって、とても大切な祭りです。その時には、特別な食事をする決まりとなっていました。イエス様と弟子たちも過越しの特別な食事をするのを楽しみにしていたことでしょう。「いやー、今年も過越しの祭りがやって来た!今日は、過越しの食事だ!」と弟子たちは、やや浮かれ気分です。
けれどもイエス様にとっては、今回の過越しの食事は特別な意味を持っていました。それは、イエス様が十字架にかかる前の最後の食事となったからです。イエス様は、そのことをご存じで、弟子たちと特別な時間を過ごしていました。そしてイエス様は、この過越しの食事を通して大切な事を弟子たちに伝えることにしていました。
イエス様は、食事の席から突然立ち上がり、何かの準備を始めます。「あれ、イエス様は何をしているのだろうか」突然のイエス様の行動に弟子たちは、それを見守る事しかできません。弟子たちは、イエス様のしておられることが良く理解できませんでした。
イエス様は、上着を脱いで、腰に手ぬぐいを巻いて、たらいに水を汲みました。これから何かをするのでしょうか。イエス様は、水の入った、たらいを持って弟子たちの所に行き、なんと足を洗い始めたのです。「イエス様、そんなことしなくても」弟子たちは、目を丸くしてびっくりです。だって、足を洗うのは奴隷のする仕事だったからです。でもイエス様は、黙々と弟子たちの足を洗うのです。
イエス様が、ペテロの所に来た時、ペテロは、「イエス様、私の足を洗う必要はありません。そんなことはしないでください。」と言いました。「さすがペテロ!」ペテロは、師であり先生であるイエス様に自分の足を洗わせることなど出来ないと思ったのです。当然ですね。「洗わないでください」と言ったペテロに対してイエス様は、「もしわたしが洗わなければ、わたしとあなたは何の関係もありませんよ」と言いました。ペテロは、「イエス様との関係が切られてしまう」と言われ、焦ったのでしょうね。とっさに「では、足だけではなく、手も頭も洗ってください」と言ってしまったのです。ペテロは、イエス様のしておられることを理解出来なかったのです。でもどうしてイエス様は、突然このようなことをしたのでしょうか。
イエス様は、弟子たちの足を洗うという事で、イエス様の十字架の救いの恵みを伝えようとされたのです。イエス様は、僕たちの罪が赦され、きよめられ、救いを受けられるように十字架に進んで行かれました。誰でもこのイエス様の救いの恵みを受ける時、イエス様との素晴らしい関係が与えられ、罪の赦しを受けることが出来ます。皆は、イエス様との特別な関係を持っているでしょうか。イエス様の与えてくださる救いを受けていきましょう。
もう一つイエス様が弟子たちの足を洗った事には意味がありました。イエス様は、弟子たちの足を洗い終わった後、「あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません(14)」と言われました。イエス様が弟子たちの足を洗ったという事は、イエス様が弟子たちを大切にされたという事なのです。イエス様は、弟子たちがお互いに仲良くし、相手のことを大切にするようにと教えてくださったのです。
イエス様は、僕たちのことも愛してくださり、僕たちのために十字架にかかってくださいました。僕たちは、イエス様の愛に感謝し、イエス様の十字架の救いを信じましょう。そしてイエス様が、僕たちを愛し、大切な存在と言ってくださるように、僕たちも周りの人たちのことを大切にし、親切にしていきましょう。
今週の聖句を読みましょう。「愛をもって互いに仕え合いなさい。」ガラテヤ人への手紙5章13節
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様は、弟子たちを愛し、弟子たちの足を洗ってくださいました。イエス様は、僕たちのために命を捨て十字架にかかってくださったことを感謝いたします。イエス様は、互いに愛し合いなさいと言われました。僕たちは、イエス様が教えてくださったように、お友だちを大切にし親切にしていきます。イエス様どうか導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」
<適用>
「麻婆豆腐」の素に「極」というのがあります。見た目から辛そうなパッケージです。私は辛いのが苦手ですから食べることはないと思いますが、本当に辛いそうです。辛い食べ物が好きな人には、美味しく感じるそうです。「極」ということですから、辛味を追求した結果たどり着いた究極の辛さということでしょうか。このように私たちは、「技の極」というような表現をすることがあります。
今日開いたヨハネの福音書13章には、イエス様の愛が「極まで」示された出来事が記されてあります。弟子たちに向けられ、今、私たちにも向けられているイエス様の愛に注目をしましょう。
Ⅰ;最後まで残るところなく
私たちに注がれているイエス様の愛は、「最後まで(残るところなく)」示されています。新約聖書には、4つの福音書があり、4人の福音書記者がイエス様のご生涯、イエス様によって示された福音を記しています。マタイ、マルコ、ルカは、最後の晩餐での聖餐式の制定とゲッセマネの祈りを記しています。しかし、ヨハネは3人の福音書記者が記していない、最後の晩餐でのイエス様の行動とその教えについて記しているのです。ヨハネは、「後でわかるようになる」とイエス様が言われたように、イエス様の十字架と復活のあと、最後の晩餐でのイエス様の行動の意味と最後の説教の意味を理解したのです。
イエス様は、地上の生涯の最後の最後に弟子たちにご自身の愛を残すところなく示されました。それは、ユダヤ人にとって大切な「過越しの祭り」の時です。イエス様は、今まで過越しの祭りを守るために何度もエルサレムに上っていました。けれども今回の過越しは、イエス様にとって重大な意味を持っています。1節の「この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた」の「時」は、イエス様が人類を罪の滅びから救うために十字架にかけられ、死なれる時が来たと言うことです。この神様の時を知ってイエス様は、ご自分の弟子たちに愛を示してくださったのです。しかも「最後まで(残すところなく)」と言われているようにイエス様は、ご自身の愛をすべて表現しようとされたのです。イエス様の弟子たちへの愛が、どれほど深く大きいものであるかを知ることが出来ると思います。
この時の弟子たちの事を考えてみましょう。イエス様が、ご自身の愛をすべて示した時の弟子たちは、それを受けるに十分な者だったのでしょうか。この時の弟子たちは、と言うと、まずイスカリオテのユダは、悪魔の誘惑に負けてイエス様を裏切る決意をしていました。他の弟子たちは、イエス様を信じ従う思いを持っていましたが、イエス様の言葉をすべて理解したわけではありませんでした。それどころか、彼らは、弟子たちの中で誰が一番偉いか議論をしているほどだったのです。「また、彼らの間で、自分たちのうちでだれが一番偉いだろうか、と言う議論も起こった(ルカ22:24)。」
イエス様は、弟子たちの中に「裏切る者がいる」と言われました。それを聞いた弟子たちはお互いに顔を見合って「そんなこと自分がするわけないだろう。」と言いながら「弟子の中で一番の俺が」など言い合ったのでしょうか。弟子たちは、誰一人としてイエス様の気持ちを察し、イエス様に寄り添うことが出来ませんでした。その意味では、彼らは不十分で、不完全で、イエス様の愛を知らない人たちです。しかしイエス様は、その弟子たちをこの上なく愛されたのです。それは、弟子たちがイエス様の十字架と復活を理解し、彼らの生き方が変わるためです。そしてもう一つ、イスカリオテのユダがイエス様の愛に触れて方向転換することを願っていたのではないでしょうか。けれどもイスカリオテのユダは、その決意を変えることがありませんでした。
イエス様の愛は、私たちにも注がれています。私たちの状態は、弟子たちと同じようなものでしょう。私たちは、神様の言葉、イエス様の言葉を十分理解するには時間がかかります。私たちは、いつも神様に喜ばれることをしているのかと問われれば恥ずかしくなります。私たちは、イエス様に愛されて当然と堂々と言う事は出来ないのです。けれどもイエス様は、私たち一人一人を愛しておられるのです。その究極の現われが十字架です。イエス様の愛は、私たちのためにいのちを捨て、私たちを罪から救うというほどに大きく深い愛なのです。私たちには、イエス様の愛が注がれています。
Ⅱ;徹底した愛
私たちに注がれているイエス様の愛は、徹底した極までの愛です。イエス様は、私たちにご自身の愛を「最後まで」示されました。1節の「最後まで」という言葉は、これまで「残るところなく」と訳されて来ました。リビングバイブルは、「最後まで徹底的に愛しとおされた。」と訳します。聖書の欄外には「極まで」とあります。これらの事をまとめると、イエス様は、「最後まで徹底的に」、「この上なく最後まで」、「究極的に」愛を示されたということになります。イエス様の愛は、中途半端ではなく、最後まで貫かれた愛であり、イエス様は私たちの状態がどうであれ徹底して愛し抜いてくださるお方なのです。私たちが、イエス様の愛を感じることが出来ない時でさえ、イエス様の愛は変わらずに注がれているのです。イエス様は、そのような徹底した愛を一つのことで示してくださいました。
この最後の晩餐の席で、イエス様は突然立ち上がり上着を脱ぎ、腕まくりをして、手ぬぐいを腰にまとわれました。そしてたらいに水を入れ弟子たちの足を洗い始めたのです。これは、しもべや奴隷がする仕事であったために弟子たちは驚きあわてたことでしょう。けれども誰もイエス様を止めることはありませんでした。ただペテロは、イエス様に足を洗ってもらうなど出来ないと断りました。ペテロは、イエス様がどうしてそんなことをするのかその意味を理解できなかったのです。イエス様は、もし洗わなければ「あなたはわたしと何の関係もありません」とお答えになりました。ペテロは、単純な性格の人物ですので、「何の関係もない」と言われて、「それは困ったことになる」と思い、「それでしたら、頭も手も洗ってください」とこれまた訳の分からないことを言ってしまうのです。結局ペテロは、イエス様に足を洗ってもらいました。こうして12弟子全員が、イエス様に足を洗ってもらうのです。
実は、イエス様が弟子たちの足を洗ったのには、非常に重要な意味があります。この時の弟子たちは、先ほど言いましたように、ひとりはイエス様を裏切る決意をし、他の弟子たちは、誰が一番偉いのかという議論をしていました。弟子たちは、イエス様がどのような思いでおられるのか察することが出来ず、自分のことだけを考えていたのです。そんな弟子たちにイエス様は、「あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています(ルカ22:27)」と言われました。そうして弟子たちの足を洗ったのです。
イエス様は、このことを通して、イエス様ご自身が人類の罪のためにご自分のいのちを犠牲にして、謙遜を尽くして仕える者となることを示されたのです。イエス様が上着を「脱いだ」と訳されているギリシャ語は、別の個所では「命を捨てる」と訳されています。「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。(ヨハネ10:22)」
イエス様が上着を脱いだのは、イエス様が私たちのために命を捨てるということを現しているのです。先ほども言いましたように十字架が、イエス様の愛の究極の現われです。ですから足を洗うことを拒んだペテロに対してイエス様が言った「何の関係もありません」という言葉は、イエス様が十字架で示してくださった愛を拒む者は、イエス様と何の関係もないということを意味しているのです。イエス様が徹底的に、最後までとことんまで愛を示してくださった十字架の愛を、私たちが謙遜に受け入れるならば、私たちの罪は赦され、きよめられるのです。私たちには、イエス様の十字架以外に救いの方法はありません。
イエス様は、私たちのために自らを低くし、仕える者となっていのちを捨ててくださったのです。それは、イエス様によって私たちが救いを受けて、罪赦されきよめられるためです。イエス様の愛の中を歩むようになるためです。もしかしたら私たちは、弟子たちのようにイエス様を悲しませているかもしれません。そして私たちは、イエス様を悲しませていることに気づいていない愚か者かもしれません。けれどもイエス様は、そんな私たちを最後まで愛し抜いてくださるのです。私たちは、イエス様に愛されています。だからこそ私たちは、自分のうちにある罪を知ったならばすぐに悔い改めて、イエス様のきよめをいただきましょう。
Ⅲ;イエス様に倣おう
イエス様は、最後まで極まで私たちに愛を注いでくださいました。私たちは、このイエス様の愛を模範として歩みましょう。今週の御言葉を読みましょう。
イエス様は、弟子たちの足を洗い終わり、13-15節のように言われました。有名な落語家や漫才師の所には、多くの人が弟子入りしています。弟子は、師匠を見ながらそれを真似して習得していきます。
私が小学生の時のことです。夏のバイブルキャンプに行った時、一人の友達が落語を話してくれました。私は、キャンプで語られる聖書のお話よりその落語のほうが面白くなりました。そしてその友達に、落語を教えてもらいました。その落語は、「じゅげむじゅげむ」です。私は、友達が話す「じゅげむじゅげむ」を聞き、繰り返し真似をして覚えました。三泊四日のキャンプで、「じゅげむじゅげむ」を最後まで覚えました。キャンプから帰って家で「キャンプはどうだった?」という話しになり、私は得意げに友だちから教わった「じゅげむじゅげむ」の落語を話して聞かせたのです。当然その年のキャンプのメッセージは、全く覚えることはありませんでした。あまりまねてはいけない態度ですね。楽器やスポーツの練習も上手な人のまねをして練習を積み重ね上達していくのです。
「互いに愛し合う」事について、弟子たちも私たちも同じです。弟子たちも私たちも、「互いに愛し合う」ことに欠けの多い者です。ですからイエス様を模範とするのです。イエス様は、謙遜を尽くし自ら進んでしもべとなって、いのちを捨てて救いの道を開き、徹底して愛することを示してくださいました。私たちは主イエス様の弟子ですから、イエス様を模範として歩むことが必要です。「互いに足を洗い合うべき」というのは、お互いにへりくだり、仕え合い、愛し合うようにということです。私たちは、イエス様が私たちを愛してくださったように、互いに愛し合うこと、互いの得を高め、お互いのためになることを心がけることが大切なのです。あなたの愛は、独りよがりな自分勝手な愛ですか?それとも、イエス様を模範とした愛の実践となっているでしょうか。
私たちに注がれているイエス様の愛を受け、イエス様の愛に生かされ、イエス様の愛に倣う者として歩みましょう。
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様が私たちを最後まで、極まで愛してくださっていることを心から感謝いたします。私たちは、イエス様の愛を模範として、互いに支え合い、愛し合って歩みます。イエス様、私たちの心をご自身の愛で満たしてください。いつでも罪を悔い改めてイエス様の救いを受け、聖められて歩むことが出来るように導いてください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」
