2026年3月8日(日)礼拝説教 ヨハネの福音書15章1-17節 「イエスはぶどうの木」 説教者:赤松由里子師

2026年3月8日(日)礼拝説教 ヨハネの福音書15章1-17節 「イエスはぶどうの木」

<子どもたちへ>
 みなさん、おはようございます。みんなに質問があります。先週私はさくらの枝をもらいました。花びんにさしてお部屋にかざりましたが、そのまま大事に置いておけば、サクランボがなるでしょうか?答えは…実はならずに枯れる、です。切ったお花は時間がたつと花びらが落ちて枯れ、それでおしまいです。実がなるのは木から切り取られていない枝だけです。

 十字架にかけられる日が近づいたイエス様は、ぶどうの木のお話をしてくれました。
「みなさん、わたしはまことのぶどうの木で、父なる神様はぶどうを植えて育てる農夫ですよ。」どういうことでしょうね?ぶどうを育てるにはまず良い苗を選んで植えます。お水をあげたり肥料をあげたりします。
 そして生え過ぎた枝や葉っぱは切り捨てます。おいしくて大きい実がなるには、こういいうお世話が必要です。そのように、父なる神様は聖書のお言葉を通して、私たちの良くないところを取り除き、良い心という実がなるようにしよう、と思っている、というのです。
 今日のみことばを読みましょう。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」イエス様が木で、イエス様を信じる私たちは枝です。イエス様に繋がっているなら、私たちは力を頂いて元気に成長することが出来ます。

 反対に、イエス様なんて関係ないよ、と離れてしまうとどうなりますか?ぽきんと折られてしまった枝はもう栄養も水分ももらえず、枯れて行くだけです。どんなに時間がたっても実をつけることはありません。わたしたちも同じです。イエス様から離れてしまうなら、元気がなくなって実を結べなくなってしまいます。私たちはイエス様につながり続けて、聖書のみことばをいつも聞き続けることが大切なのです。イエス様を信じてお祈りをする、聖書を読む、毎週教会に集う、その一つひとつが私たちをイエス様につながらせてくれます。

 イエス様に結びついている人はこう言われています。「その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです」(5節後半)。
 「実」とはなんでしょう?それはイエス様に罪を赦してもらって新しい自分にしていただける、ということです。たとえ子どもでも、罪がゆるされているという心の安心がなければ元気に生きてはいけないのです。そしてイエス様をお手本にして愛のある人になれることです。ぶどうの枝が木に繋がっていたら甘い実をつけられるように、イエス様とつながっていれば私たちも実をつけられるというのですから素晴らしいですね。
 新しい生活が始まる前の今だからこそ、イエス様にしっかりつながって、離れないようにしましょう。そしてイエス様の下さる力を頂いて、実を結ぶ人にして頂きましょう。

<祈り>
「神様、今の学年も終わろうとしています。1年間の守りを感謝いたします。みんなそれぞれに卒業、進学、進級の時期を迎えています。新しい生活に期待と不安があると思いますが、しっかりイエス様にとどまっていられるように、どうぞお守りください。そして神様が約束して下さった素晴らしい実を実らせていけますよう、恵みをお与え下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」                    ヨハネの福音書15章5節

<適用>
 以前奉仕していた沼田キリスト教会には、ぶどうが植えられていました。主人の父が奉仕していた時、近所の造園業の方から譲りうけた巨峰の苗を植えたそうです。教会学校の教材にもなるし、日当たりが良すぎる牧師館の日よけにもなるだろうというのが動機だったそうです。お世話をして大きくなり収穫の時期が来ましたが、そこになったのは、なんと緑色の小さなぶどうでした。巨峰のはずが、小粒のマスカットだったのです。なーんだ、と少しがっかりしたようですが、結構甘くおいしいぶどうでした。その後もお世話を続けて、何十年と食卓を楽しませてくれました。
 このケースでは種類は違っても豊かな実りを楽しむことが出来ましたが、植えたはずのものと違うというのは園芸では致命的です。当然持つべき特徴を備え、確実に良い実をならせる「本物」が期待されるのです。
 イエス様はイスラエルでなじみの深い「ぶどう」にご自分を例えました。しかも「まことの」ぶどうの木とおっしゃったのです。その本物に連なるのがあなたがたなのだよ、わたしに繋がりとどまっていなさい、とイエス様は語り掛けられます。そのお言葉に耳を傾けましょう。

1.農夫である神様(1~3節)
 1節でイエス様は「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です」と言われました。イエス様というぶどうの木を植えられたお方がいる、ということです。まずは農夫である神様に目を向けさせていただきましょう。
 旧約聖書で神の民イスラエルはぶどうに例えられていました。イザヤ書5章にはこうあります。「わがぶどう畑になすべきことで、何かわたしがしなかったことがあるか。なぜぶどうがなるのを心待ちにしていたのに、酸いぶどうができたのか。…万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えたもの。主は公正を望まれた。しかし見よ、流血。正義を望まれた。しかし見よ、悲鳴」(イザヤ5:4,6)。
 イスラエルとユダの両王国は罪ゆえに滅亡してしまいました。甘い実をたわわに実らせることを期待したのにすっぱいぶどうしか実らないようなものです。神様は残念に思われました。

 しかし神様は、新たに良い実をならせるまことのぶどうの木を植えなおされることにされました。それが御子イエス様です。イエス様に連なる者が良い実を豊かにつけることで、今度こそ神様の栄光が表されるためです。私たちはイエス様を通して、この農夫なる神様のお働きの中に入れられているのです。私たちの目には、人生を豊かにしてくれそうなものが色々映るかもしれません。しかし、まことの神様が植えたまことのぶどうの木こそが、私たちのつながるべき木なのです。
 さらには2節のみことばに注目しましょう。「わたしの枝で実を結ばないものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈込みをなさいます。」刈込み、ということばですが、別の翻訳では「手入れをなさる」と訳されています(新共同訳)。また、新改訳聖書の欄外注には直訳として「きよくなさいます」ともあります。

 農夫がいらない枝、取り除くべき病葉を取り去るように、神様は良い実の結実に妨げとなる罪や重荷を清めようとなさいます。これは必要な「手入れ」であり、裏を返せば私たちは「手入れを必要とする」存在だということです。
 神様が手入れを始められるのはどんな枝でしょうか。それは「実を結ばない枝」です。イエス様を信じてクリスチャンにしていただきながら実を結ばないなら、神様はそのことに目を向けられます。
 刈込んで取り除く、というと非常に厳しい言葉に聞こえます。しかしこれは、ある人は実をつける枝だから残され、他方の人は実をつけないから取り除かれてしまう、という選別と捉えるべきではないでしょう。むしろ、1人の人の中に、実を結べている部分と、実りに欠けている部分とが混在しているのではないでしょうか。

 神様のお言葉は時に耳に痛く、心をさぐり締め付けることがあります。それこそが神様の刈込みです。私たちの内側で結実を妨げているものを取り除くべく、神様はみわざを続けていかれます。
 3節を見ますと、イエス様のみことばによって私たちはすでにきよい、とあります。この「きよい」と「刈り込み」ということばは同じ言葉の派生語です。主はイエス様によって既に清めた者を、更にきよめて下さいます。イエス様のみことばによってです。
 私たちは、刈込をしようとする鋭いみことばに耳を閉ざしたり、後回しにしたりする弱さがあるように思います。けれども刈込は、私たちがみことばに聴き、みことばに生きるよう導かれる中でなされていきます。それは実を結ぶようになるために通らされるプロセスです。願わくはわたしたち内のの取り除かれるべき部分が、御手によって清められていきますように。心を固くすることなく、祈り心でみことばを聞いて参りましょう。

2.実りをもたらすぶどうの木(4~11節)
 イエス様は改めてこう言われました。本日のみことばをもう一度読みましょう。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です」(ヨハネ15:5)。
 ここではキリストにつながっていることが勧められています。私たちはぶどうの木と繋がっている限り一体です。しかし幹から離れた枝は何の役にも立ちません。ぶどうが材木に適しているとは聞いたことがありません。つる細工などには使えるでしょうが、実をとる以外に有用な点がぶどうの木にはないのです。ですから枝は木にしっかりとどまり実を結んでこそ、その存在意義があるのです。
 実りをもたらすのはまことのぶどうの木であるキリストです。自分が木であるかのように錯覚してはなりません。私たちはあくまでも枝に過ぎないのです。

 5節の後半から8節では、実を結ぶことが神様の栄光につながる、と書かれています。私たちの人生において、自分の望む実りを生もうとやっきになるのは、聖書的には的外れだと分かります。夢の実現、豊かで充実した暮らし、かくあるべしという立派な生き方、人はこうした実りを何かしら思い描いて生きています。しかしイエス様は8節で、「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります」と言われました。実を結ぶ生き方とは、弟子となる生き方だというのです。神の栄光のための実り、という視点をもつことが必要です。そうでなければいくら努力したとしても、それはすっばいぶどうになってしまいます。

 しかしキリストと深くつながるなら、神の意図された良い実が約束されています。キリストとの愛の繋がりと喜びが生まれるというのです。9節では、イエス・キリストの愛に生かされる人生へと招かれています。それは10節にあるように、みことばを重んじることと同義です。さらにそこには11節「キリストの喜びが満ち溢れる」ことも語られています。神の栄光のための実りは、私たちにも愛と喜びを与えてくれます。それはキリストに繋がり続け刈込を受け入れる中で生まれるものなのです。

3.愛の命令(12~17節)
 最後にイエス様のご命令のお言葉に耳を傾けたいと思います。12節「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」17節「あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。」

 この告別説教において、イエス様が愛を語られたことの意味を考えたいと思います。かつてNHKの「プロフェッショナル~仕事の流儀」という番組で、一人の鰻職人の方が特集されたことがありました。調べたところ2013年の番組で、金本兼次郎さん(85歳)がその人でした。創業200年を超える老舗の鰻屋の五代目で、当時で鰻一筋70年というベテランでした。その方に「プロフェッショナルとはなんですか?」という質問がされました。1つは「探求心を忘れない事。仕事に探求心が無くなったら『作業』になる」ということでした。もう1つの答えが、私には忘れられないものでした。すなわち「人柄だ。愛される人間にならないと、その人はかわいそうな人間だ」と言われたのです。こわもての神業職人のおじいさんの口から、「愛」ということばが出たのが意外でした。様々なことを突き詰めて努力をしていく道でも、人として愛し愛されることがなければ不十分だ、というのです。
 イエス・キリストを信じ、お仕えする皆さん。良き実を結びたい、とクリスチャン生涯の中で真摯に歩んでおられるかと思います。けれどもイエス様がご生涯の最後に語られたのは「愛」であったことを今日もう一度心に刻みたいと思います。

 イエス様はどのように私たちを愛して下さったのでしょうか。13節「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」14節「あなたがたはわたしの友です」とイエス様は言われました。実際イエス様は私たちを友とよび、そのいのちを十字架の死に差し出して下さいました。資格のないものを、あえて選びだして、神の栄光を表すようにと任命してくださいました。イエス様と全く同じように愛せるかと聞かれたら、それは無理かもしれません。しかし主は、イエス様に対する愛だけでは不十分だと言われます。互いの間での愛、すなわち横の広がりを命じておられます。罪あるお互いを赦し合いながら、愛を実践していくように、とのみこころです。これは決して易しいことではありません。
 易しいことではないとしても、信仰には熱心だったが愛のない生きざまだった、とはなりたくありません。「まさにかわいそうな人間」になってしまいます。受難節の今、どのようにして神と人とへの愛を表していけるのか、今一度考えてみましょう。そして愛の実践のために祈って参りましょう。

<祈り>
「神様、受難節の礼拝をありがとうございます。良い実を結ぶまことのぶどうの木、イエス様に結び付けて頂いたことを感謝します。主の語られるみことばと、十字架をも受け入れて下さったその愛に留まり続けます。また、主にならって愛によって歩んで行きたく願います。どうぞ愛をお与え下さい。選んで下さり弟子に任命された私たちです。主のご栄光のため善き実をお捧げしていけますよう、続いて恵みをお与え下さい。御名によってお祈りします。アーメン。」