2026年3月15日(日)礼拝説教 ヨハネの福音書18章1-11節 「私の罪を負うイエス」 説教者:赤松勇二師

2026年3月15日(日)礼拝説教 ヨハネの福音書18章1-11節 「私の罪を負うイエス」

<子どもたちへ>
 小学生の時僕は、いつも友だち数人と下校していました。時々僕たちは、帰り道の途中でジャンケンをしました。負けた人が、皆のランドセルを持つのです。4~5人で帰っていましたので、ジャンケンに負けてしまうと自分の分も含めて5~6つのランドセルを持つことになります。背中と前に一つずつ、右手と左手で1つか2つ持ちます。全員の分をもって50歩と決めて歩きます。50歩いたら、またジャンケンをして負けたら全員の分を持つので、負け続けると大変なことになります。
 イエス様は、ランドセルどころではなく、僕たちの罪を負ってくださいました。先週は、イエス様がぶどうの木というお話を聞きましたね。僕たちは、イエス様にしっかりと結びついてイエス様からたくさんの恵みをいただくことが出来ます。イエス様は、最後の晩餐でその他にも多くの事をお話してくださいました。その後イエス様は、弟子たちを連れて、オリーブ山のゲッセマネの園に行きました。

 その場所は、エルサレムのすぐ側にあって、イエス様はエルサレムに来ると良くそこで祈っておられたのです。その夜もイエス様は、父なる神様に祈るためにゲッセマネの園に行きました。イエス様は、そこに到着すると弟子たちに「ここに座っていない」と言われ、ペテロとヤコブとヨハネを連れて少し進まれました。するとイエス様の様子が急に変わりました。イエス様は、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい(マタイ26章38節)。」と言われました。これは、「一緒に祈っていてほしい」というイエス様の願いです。3人の弟子たちは、死ぬほどに震え恐れるイエス様の姿を始めてみました。これは大変なことになると思ったでしょうね。イエス様は、父なる神様に祈り十字架に向かう力を受けるのです。

 するとイエス様のいた場所が騒がしくなりました。イスカリオテのユダを先頭にして大勢の人たちが武器をもって押し寄せて来たのです。何のため?彼らが来たのは、イエス様を捕まえるためです。ゲッセマネの園は、イエス様が祈りのために使っていた場所ですから、当然弟子であるイスカリオテのユダは知っているのです。
 イエス様が進み出て「こんなに夜遅くに、誰を捜しているのですか?」と聞きました。「ナザレのイエスを捜している」と群衆が答えました。イエス様は、「それは、わたしです」とはっきりとお答えになりました。イエス様は、自分から前に進み出ました。するとそれを見ていたペテロが、持っていた剣で大祭司のしもべに切りかかって耳を切り落としてしまったのです。「ペテロ、やめなさい。そんなことをしなくてもよいのです。」そう言ってイエス様は、しもべの耳を癒してくれました。こうしてイエス様は、捕らえられました。

 この時イエス様は、「わたしを捜しているのなら、他の人たちは去らせなさい」と言ってくださり、弟子たちを守りました。今週の御言葉を読みましょう。「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。」ペテロの手紙第一2章24節
 イエス様は、逃げも隠れもせず、十字架に進んで行かれました。それは、僕たちの罪の代わりに神様の裁きを受けるためです。イエス様は、僕たちの罪を背負い、十字架にかかるのです。それは、僕たちが罪の赦しを受けて、神様からの救いを受けるためです。
 イエス様の十字架は、僕たち一人ひとりのためです。僕たちの罪を負って十字架に進まれたイエス様を見上げましょう。僕たちは、イエス様の十字架の死と復活によって罪赦され、救いを受け、永遠のいのちを与えていただくことが出来ます。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様は、僕たちの罪が赦されるために僕たちの罪を負い、十字架に進んで行かれました。イエス様の救いを感謝します。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため、その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」
                                     ペテロの手紙第一2章24節

<適用>
 現在、マラソンのレースでは、ペースメーカーと言う人がいます。選手の記録を出しやすくするために先頭集団の先頭を走る人です。ペースメーカーを担当する人は、選手並みにフルマラソンを走ることが出来る人で、時にはそのまま一位でゴールする場合もあるようです。ペースメーカーは、先頭集団の風よけや一定のペースを維持していきます。そしてたいていの場合、一定の距離を先導し終わったら、コースから離れていきます。
 イエス様は、私たちの罪を負うということを途中で放棄することなく、最後まで十字架の死にまで進んでいかれました。

Ⅰ;自ら進み出るイエス

 私たちの罪を負うイエス様は、自ら進み出られました。イエス様が、ゲッセマネの園で祈っておられると、そこにイエス様を裏切る、イスラリオテ・ユダがやって来ました。しかもユダは、ローマ軍の一隊とユダヤの祭司長やパリサイ人たちから送られた下役たちを引き連れているのです。ヨハネ18章2節には、「ユダもその場所を知っていた」とあります。ゲッセマネの園と言われる場所は、エルサレムの東側、オリーブの木がたくさん生息しているオリーブ山の中腹にあり、近くにはユダヤ人の墓地があります。
 恐らく、エルサレムに来た時、イエス様は弟子たちと共に、この場所を祈りの場所としてよく使っていたのだと思います。だからイスカリオテ・ユダは、人々に邪魔されないでイエス様を捕まえる場所としてゲッセマネの園を選んだのです。ユダは、ローマの兵士を伴っていました。この「一隊の兵士」というのは、ローマの軍隊の一単位で、通常600人編成の部隊です。その他に祭司長やパリサイ人たちの下役たちがいましたから、総勢600~700人ほどだったことでしょう。武器を持っていない一人の青年であるイエス様を捕えるにはあまりに人数が多すぎます。しかしそこには、どうしてもイエスを捕まえなくてはいけないという祭司長たちの決意があるのでしょう。

 この時イエス様は、何が起こるのかをすべてご存知でした。イエス様は、ご自分が捕えられ、十字架刑にされることを承知していました。だからこそイエス様は、ゲッセマネの園で数時間にわたり祈っていたのです。イエス様は、父なる神様に祈り、十字架の杯を受けるために立ちあがるのです。イエス様は、イスカリオテ・ユダがローマ兵とユダヤの役人たちを引き連れてやって来た時、冷静にしかも力強く「誰を捜すのか」と人々の前に進み出ました。人々は、「ナザレ人イエスを」と答えます。イエス様は、押し迫る人々に対して「わたしがそれだ(エゴーエイミー)」とはっきりと言われました。この「エゴーエイミー」という言い方は、神様の聖なる御名を表す言葉です。

 神様は、イスラエルの民をエジプトから救い出すためにモーセを選ばれました。モーセは、イスラエルの民が自分を信用するためには、自分を遣わす神の名を教えて下さいと神様にお願いするのです。その時神様は、モーセに「『わたしはある』という者だ」と宣言されたのです(出エジプト3章14節)。これは、神様は、神様ご自身で存在され、永遠に存在しておられるただ一人のお方という意味があります。イエス様は、これと同じ意味のギリシャ語である「エゴー・エイミー」を用いました。この神様の御名は、私たちに大切なことを教えています。神様は、ご自身で存在され、永遠に生きておられるお方です。と言うことは、神のひとり子であるイエス様も永遠のお方なのです。イエス様は、ご自分が全能の主なる神と同じであると宣言しました。そのイエス様が、神のあり方を捨て、人間となってこの世に来て下さったのです。そしてイエス様は、私たちの罪を負うために、私たちの救いのためにご自身をささげてくださったのです。
 イエス様は、唯一の神様です。そしてイエス様こそ、私たちを罪から救う、ただ一人の救い主です。

Ⅱ;十字架に進まれるイエス

 イエス様は、「わたしがそれだ」と自ら進み出ていかれました。イエス様は、捕えに来る一団に対して、ご自分から進み出て行きます。それは、弟子たちを守るためでもありました。イエス様は、自分を捕えるなら、弟子たちはそのまま去らせなさいと、人々の目がイエス様にだけに集中するようにしたのです。弟子たちは、イエス様が逮捕された時、一目散に逃げてしまいます。けれどもその前に、ペテロが一団に対して抵抗しました。衝動的に行動するペテロは、この時やはり衝動的に剣を抜き、大祭司のしもべの右耳を切り落とします。目の前には、ローマの軍隊がいますから、ペテロの行動は、無謀すぎるのです。せっかく、イエス様が、弟子たちが逃げる道を用意しようとしているのに、そのイエス様の思いをつぶしてしまう行動でした。弟子たちとローマ軍の衝突になる所です。でもイエス様がすぐに間に入って、双方を止めました。そしてイエス様は、耳を切り落とされた人を癒されました(ルカ22章51節)。

 この時イエス様は、天の軍勢を今すぐにでも味方に出来ると言われました(マタイ26章53節)。イエス様は、群衆の逮捕を逃れることなど簡単でした。ローマ軍に勝利することも出来ました。なぜなら、イエス様には、天の軍勢があり、主なる神様の力があるからです。でもそれでは、救いの道は開かないのです。イエス様は、向かってくる群衆に勝利する道よりも、父なる神様のみこころに従うことを選んでおられるのです。「父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか(ヨハネ18章11節)。」
 イエス様は、どうしても十字架という杯を受ける必要がありました。それは、神様の罪への怒りをなだめるためです。私たちは、自分の罪のために神様の裁きを受けるべき存在です。けれどもイエス様は、私たちの罪の責めをすべて引き受けて、私たちのために神様の裁きを受けてくださるのです。イエス様は、誰の目にも明らかに分かる形で十字架に進んで行かれました。イエス様は、私たち一人一人のために、十字架への道を進んで行かれるのです。

 その晩イエス様は、すぐにアンナスのもとに送られ取り調べを受け、大祭司カヤパのもとに送られます。その間の出来事を福音書は記しています。それはペテロの姿です。ペテロは、大祭司の家の中庭に入っていきました。おそらくペテロは、顔を隠すように中に入った事でしょう。ペテロの最大のピンチは、大祭司の家の門を入ってすぐに訪れました。門番が「あなたも、あの人の弟子ではないでしょうね。」と突然質問してきたのです。不意の質問にペテロは、「違う」と答えます。ペテロは、最後の晩餐の席で、自分はイエス様を裏切るようなことはしないと宣言していました。けれどもペテロは、そんなに強くはありませんでした。一度「違う」と言ってしまえば、あとは簡単です。彼の心は、闇の中に転げ落ちて行くのです。
 ペテロは、庭に入って炭火にあたっていました。するとそこにいた人たちが、炭火の火明かりに映るペテロの顔を見て「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね」と聞いて来るのです。ペテロは、その場をすぐに離れるべきでしたが、彼は同じような質問をされたら「違う」と答えれば大丈夫、疑われることはないことを最初の質問で経験してしまいました。彼は、「弟子ではない」と答えました。
 すると、ゲッセマネの園でペテロに耳を切り落とされた者の親類の人が、ペテロに食って掛かります。一気にまわりの人の目が、ペテロに集中されました。その時ペテロは、もう一度否定しました。この三回目の否定は、決定的なものであり、「嘘ならのろわれてもよいと誓い始め(マタイ26章74節)」るのです。その時、鶏が鳴きました。鶏の声を聞いた時ペテロは、心の暗やみに光が差し込むように、我に返りました。そしてペテロは、「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います(ヨハネ13章38節)」のいうイエス様の言葉を思い出しました。そして彼は、外に出て激しく泣きました。

 弟子の筆頭でもあるペテロが、イエス様を否定してしまいました。これほどの失敗、裏切りがあるでしょうか。けれどもイエス様は、人間ペテロの弱さを知っていて、「わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。(ルカ22章32節)」と言ってくださっていました。イエス様は、ペテロが躓くことを知っていました。イエス様は、ペテロが大失敗をして打ちひしがれ、絶望し、後悔の念に包まれることを知っていました。「しかし、」なのです。しかし、イエス様は、ペテロの信仰がなくならないように祈ってくださったのです。イエス様は、ペテロが立ち直ることが出来るようにと励まし、執り成して下さったのです。
 「わたしがそれだ」と言われたイエス様は、私たちの救い主です。「わたしがそれだ(エゴ―・エイミー)」と宣言されたイエス様は、救い主として私たちの罪をその身に負ってくださいました。イエス様は、自分を否定するペテロのために執り成しの祈りをされ、ペテロのために十字架に向かわれたのです。私たちもペテロと同じように失敗し、イエス様の思いに答えることが出来ない者です。私たちは、心迷い、躓き、倒れ、すぐに神様に背を向けてしまうような者ではないでしょうか。そのような私たちのためにイエス様は救いの道を開いてくださいました。

 今週の聖句を読みましょう。「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。」ペテロの手紙第一2章24節。この24節は、「それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため、その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」と続きます。イエス様は、私たちが罪を赦され永遠の命を得るために、私たちの罪をその身に負われました。
 私たちのために十字架に進んで行かれた救い主イエス様を見上げ、信じて、罪の赦しを受けましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様は、私たちの罪をその身に負い、十字架に進んで行かれました。神様に罪を犯し、裁かれなければならないのは、私たちです。けれども神様は、私たちを裁くのではなく、イエス様を身代わりにして裁かれました。私たちは、神の怒りではなく、神の愛を受け、救いを受け、恵みをいただくことが出来ることを心から感謝します。私たちは、私たちの罪をその身に負われてイエス様の十字架の救いを信じます。神様、私たちの罪をお赦しください。
 神様、世界では戦争が行われています。また自然災害があります。その様な中で人々の心は傷つき、癒しを必要としています。神様、あなたの愛で世界を包み込んください。神様の愛が世界に満ち溢れますように。神様、痛み傷つき悲しみの中にいる人々に御手を差し伸べてくださり、癒しと回復を与えてください。
 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。」